092:鳥は飛び立つ
首都の郊外、小高い丘のいただきにその塔は立っていた。
「ああ、陛下、いまどこで何をしておいでなのでしょう」
塔の最上階の窓からはときおり若い娘の悲痛な泣き声が漏れてくる。すると丘のふもとの粗末な小屋から一人の軍人が重い足取りで歩み出て、近くにつないであった愛馬にまたがる。馬は背中の両側に生えた一対の翼を大きくはばたいて空に飛び上がる。軍人は鞍上でライフルを構え、いつでも撃てる体勢。
「このようなことになるなら、いっそ陛下と出会わなければよかった。ああ、でも、もう一度おめもじがかなうならば、この命が尽きてもいい」
とぎれとぎれの泣き声はしだいに高まり、ついにその悲痛さが頂点に達したとき、窓から黒いものが飛び出した。塔のまわりをくるくると旋回して方角をさだめ、一直線にかなたの空に向かったのもつかのま、銃声一発、ふらふらと眼下の丘に落ちてゆく。それは見たところ一羽の燕だった。だがその姿は地面に着くより早くかすみのごとく散り失せ、後には羽根一枚残らない。泣き声はいつのまにかやんでおり、軍人は煙を上げる銃を手にしたままうなだれる。
このようなことがほぼ毎日、時には一日に何度も、ことによると夜中にまで起こる。塔から飛び出すのはいつも鳥だったが、その種類は雀や蜂鳥のように小さなものから海猫や鷲のように大きなものまでさまざまである。
この娘が塔に入れられたのは二年前、そのときから軍人はずっとここに詰めている。当初は同役が二人いて、勤務は交代制であった。だが一人はしだいに成績が落ち、しまいにはほとんど鳥を撃ち落とすことができなくなって解任された。もう一人はあるとき突然サボタージュに及んで、これまた解任された。人員の補充はなく、いまでは残った一人が昼も夜ものべつまくなしに当番である。
二年前のこと、とある中立国で国際会議が開かれた。会議の参加者のなかにある国の大統領がいたが、この男は渡航するにあたって成人間近の娘を伴っていた。わが子が外国の事物を見聞する機会を設け、以て後学の糧にさせようという親心であった。これがそもそもの発端であった。
そこで娘の身に起こったことは後学どころの話ではなかった。会議に先立って行われた食事会で、娘はある国の年若い王と運命的な出会いをしたのである。人ごみのなかでほんの一瞬、娘は王を見た、王は娘を見た、ただそれだけで二人は永遠に結ばれてしまったのだった。
その王の国である王国は大統領父娘の国である共和国とは隣どうしであった。そして、まったく異なる政治体制をとっていることで常に緊張関係にあった。だが若い二人にとって、両国の対立の歴史などは何ほどのことでもなかった。むしろ自分たちが両国の友愛の出発点になるのだと信じた。
王は大統領に対して、令嬢を妃にむかえたいと打診した。物語がばら色だったのはここまでであった。大統領にとってこの申し入れは青天の霹靂だった。娘の夫となるのが仮想敵国の人間で、あまつさえその君主であるなどというのは、民主主義を標榜する国家の頂点にあるこの男にとっては二重に受け入れがたいことだったのだ。いや、大統領だけではない。国内にわんさといる政敵がもしこの一件を知ったなら、大統領は対敵通牒、反動主義、そのほかもろもろの嫌疑をかけられ、たちまち不信任決議の餌食となるだろう。
事が大きくなる前にと、大統領は片田舎に立つ古い塔に娘を幽閉して世間から隠した。表向きは病気だということにして、なるべく穏便に王からの婚姻の申し入れをことわった。しかし真実は思いもかけぬ筋から相手に知られることになった。娘の特異体質である。この娘、幼いころから悲しんだり嘆いたりするとその気持ちが鳥に変じて飛んでゆくという性質があった。この鳥が王のところまで飛んで行って、娘が監禁された次第を語ったのである。大統領は塔のそばに人員を配置して鳥を撃ち落とさせ、こちらの情報が敵に伝わるのを防ごうとしたが、時すでに遅かった。王は想い人を救い出すために軍勢を催した。戦争がはじまった。
非常事態とあって大統領の職務は多忙を極めたが、それでもどうにかして時間を作っては娘に面会にやってきた。
「こんなところに閉じ込められて、おまえが不便に思っていることはわかっている。だがこれもおまえがあの男に惑わされたためで、要するに身から出たさびだ。そこをよく呑み込んで辛抱するのだ。よいな」
もちろんこんな話が娘にとって面白かろうはずはないが、大統領はまったく構わなかった。それどころかいつも自国がどれだけ戦争を有利に進めているかを得々と告げるのだった。あるとき大統領はこのようなことを言った。
「おまえがあの男を色香でたらしこんだなどという評判が立たないよう、あの男がもともと女好きだったということを国内外で派手に宣伝しているところだ。なに、あの男はそんな人間ではないだと? 事実はどうでもよいのだ。おまえの名誉が守られることが大事だ」
またあるときにはこのようなことを。
「あの男によく似た顔立ちの男を見つけたのでな、そいつを向こうの国に送り込んで暴行やら恐喝やらいろいろやらせてみた。あの男に罪をなすりつけて、暴君だという評判が立つようにしようというわけだが、これが大当たりだったわ。やつの支持率は面白いように下がっているぞ」
こうした話を聞かされるたびに娘からは鳥が飛んだ。しまいには大統領の乗る車の音が聞こえてくるだけで鳥が飛ぶほどだった。鳥を撃ち落とす任務に当たる軍人たちもまた、だんだんいやけがさして一人また一人と脱落していった。
そしてついに来るべき時が来た。
「喜べ、娘よ。ついに我が国の軍が向こうの王宮に攻め入り、あの男は自ら命を絶った。我が国の完全勝利だ。いや、めでたいめでたい」
その日、大統領は踊り出さんばかりの様子で塔を訪れた。そして、もはやここに閉じ込めておく必要はないとして、娘を車に乗せて連れ帰ろうとした。だが娘は拒んだ。もともとかたくななところのある娘だったが、このときはひときわ頑固だった。
「わたくしは病気です。この病気が治ることは絶対にありません。世間に出ることはできません」
「なにをたわけたことを言っているのだ。かりに本当に病気だとすればなおさらこのようなところに引きこもるのではなく、都にもどってすぐれた医師に診てもらわねばなるまい」
「いいえ。この病気を治すことのできるかたはただ一人、それももはやこの世におりません。この娘はもうないものと思ってくださいませ」
もし力づくで連れ帰ろうものなら舌を噛み切って死にかねない気迫であったから、さすがの大統領も困り果てた。戦争が終わって間もないということもあって大統領はいつもにもまして多忙であり、こんなところであまり時間をつぶすわけにはいかなかった。後日あらためて迎えに来ると言い残して、大統領は塔をあとにした。
軍人は臨戦態勢に入った。これまでの経験から言って、鳥が飛ぶことになるのは目に見えていた。愛馬に水とまぐさを飼い、銃を背負い、予備の弾を持てるだけ持った。
自分は何をしているのだろう、と軍人は思わないでもなかった。娘から鳥が飛び立ったところで、もはや飛んで行って想いを告げる相手もいなければ、そのせいでこちらの情報が敵に漏れる気づかいもない。とすればあえて鳥をはばむ必要はない。労力と弾薬の無駄づかいである。
それにもかかわらず、塔のいちばん上の窓から娘の泣き声が聞こえてくると、軍人は迷わず馬腹を蹴った。やがてはばたきの音とともに塔の窓から飛び立ったのは、一羽の白鳥。と、もう一羽の白鳥。と、さらに一羽の白鳥。と、またまた一羽の白鳥。後から後からとめどなく飛び立つ白鳥の群れ。
軍人は目をみはった。一度に二羽以上の鳥が出たことは今までなかったからである。ともあれ銃を構え、先頭の一羽に狙いをつけて撃った。弾をこめなおして二番めのを撃つ。弾をこめては撃つ。撃つ。撃つ。撃っても撃っても白鳥の群れは尽きることがなかった。
「ああ、陛下! 陛下! 陛下!」
泣き叫ぶ声はただただ「陛下」を繰り返すばかりである。まるで世界からそれ以外の言葉がなくなってしまったかのよう。
どれほどの時間がたち、どれほどの涙が流れ、どれほどの弾薬がついやされたか。とどまるところを知らなかった白鳥の群れも、ついにみな消え失せた。塔の中では、娘が悲嘆のあまり息絶えていた。そして最後まで任務に忠実だった軍人はすべての白鳥を撃ち落とすと、銃を捨て愛馬を野に放っていずこかへ去った。そのあとどこでどのように暮らしどのように死んだか定かではない。あまりに長い期間にわたって娘の嘆きにさらされたためにすっかり心を侵されたのだとも言われている。
今回イメージしたのは、『蒼穹紅蓮隊』(ライジング、1996年)から、
「海鳳回転」(崎元仁作曲)です。




