082:さかさま少女
アーケードは家路をたどる人々でごったがえしていたが、少女はローラースケートでまっすぐ突っ走った。後ろを振り返ると、警察の帽子が追いかけてくるのが人の頭ごしに見えた。聞き慣れたどなり声も飛んでくる。
「こらーっ、道路でローラースケートを使うなといつも言ってるだろうが!」
「道路じゃありませんー。天井ですー」
少女は口答えを残してそのまま走ってゆく。言葉のとおり、少女のローラースケートが踏んでいるのはアーケードの天井である。少女は上下さかさまになって天井を走っているのだった。
ローラースケートに磁石か何かの仕掛けが施してあって、それで天井に貼りついている、というわけではない。少女の身のこなしはごく自然で、ぶらさがっているような感じはなかった。天井に設置された電線や補強の鉄骨を軽くジャンプして飛び越えたりもしている。はいているミニスカートも上のほうに垂れ下がって、隠すべきところをちゃんと隠していた。
「まにあうかな……」
つぶやきながら少女は角を曲がって横丁に入った。ここにはアーケードはないので、商店や民家の軒の裏をつたって走る。一歩踏みはずせば大空へとまっさかさまだが、おそれるそぶりはない。やがて少女はある店の軒びさしのかどで立ち止まり、その向こうの路地をうかがった。細い路地のつきあたりで、三人の少年が一人の少年を取り囲んでなにやらやっていた。
「おい、これっぽっちしか持ってないのかよ」
「おまえ金欠すぎだろ。たったこれだけじゃ半日も遊べないぜ」
「こいつさかさまにして振ったらもう少し出てくるんじゃねえか?」
ハハハハハ、と笑う三人。囲まれているほうの一人は切れた唇をかんで泣くのをこらえている。少女は軒の裏をひと蹴りして路地に踏み込み、つめたい声で言った。
「さかさまがどうしたって?」
振り返ったカツアゲ三人組は、軒の裏に仁王立ちする少女の姿を目にして浮足立った。
「うわっ、さかさま女!」
「こいつに触られたらさかさまがうつるぞ」
そこにかけつけてくるもうひとつの声。
「このクソガキめ、さんざん走らせおって! 今日という今日はみっちり説教してやるぞ!」
「やべえ、おまわりの声だ」
三人組は取り上げていた財布をあわてて少年に投げ返し、路地から遁走した。警官の足音が近づいてくるので少女も逃げることに決め、スカートをひるがえして走り去った。
「あの、ありがとう、助けてくれて。こんどちゃんとお礼するから!」
背後で少年の声がしたが、振り返りもしなかった。
その後しばらくして、少年は礼を言うために少女の一家の暮らすアパートをおとずれた。場所は知り合いに聞いて回って調べたという。なるほど、さかさまで生きている人間などこの町どころか世界中に一人しかいないし、そのうえよく目立つ。探し当てるのはそれほど難しくなかっただろう。
それからというもの、少年はちょくちょくアパートに遊びに来るようになった。もともと少年はオカルトファンの気があり、少女のさかさまの境遇にも大いに興味をそそられたらしい。
あるとき少年は部屋の天井にすわった少女に向かって、どこで仕入れてきたのか、こんな話を披露した。
「隣の県にある山なんだけどね。山のてっぺんに大きな穴があいてて、そのへんではときどきタヌキとかシカとかイノシシなんかの動物が空に落ちていくのが目撃されてるんだ」
少女はオカルトに興味がなく、たいていはおざなりな相槌を打つだけなのだが、空に落ちる話となるととうてい人ごとではない。いつになく真剣な顔で口をはさんだ。
「それはつまり、そこに行くとみんなあたしみたいに上下逆転しちゃうってこと?」
「そういう説もあるけど、ぼくは違うと思ってる。たぶんその穴は地底世界の入口なんじゃないかと思うんだ」
「はあ? もういい、わかった。お茶取って」
一気にうさんくさい話になったといわんばかりに少女は顔をしかめ、立ち上がって手を差し出した。少年はテーブルの上からお茶のなみなみと入ったカップを取り、少女に渡してやる。受け取る瞬間、少女はくるりとカップを上下に半回転させた。少女が持っているあいだは重力が逆転するので、カップが上下さかさまになってもお茶が床にこぼれることはない。
少女の関心が離れたのにもめげずに、少年は話しつづけた。
「たとえばこの部屋の上の階に人が住んでて、床の上で暮らしてるだろ。で、その下のここではきみが天井で暮らしてる。床と天井をはさんで上下が逆転した世界があるわけだよね」
「はい、これ」
お茶を飲み終えたカップから少女が手を離す。カップは上から下へと落ちて、床にいた少年の手におさまった。それを無造作にテーブルに戻しながら、少年はなおも熱弁をふるう。
「つまりね、地底世界の天井にも生きものが住んでるんじゃないかと思うんだ。それどころか、もしかしたら人間も」
「はあ」
「空に落ちていく動物というのは、地底の天井に住んでたものが地底側で穴の中に落っこちて、そのままこっちがわに出ちゃったんじゃないかな。地底に住んでいる生きものにはもともと上に向かって落ちる性質があるんだと思うよ」
「もしかしてあたしのことを地底人だって言ってる?」
「もしかしたら先祖に地底人がいたのかも」
少年がいたってまじめで、からかったりバカにしたりする様子がなかったので、少女は複雑な気分でだまりこんだ。少年はここぞと声をはげまして言った。
「それでさ、もしよかったら今度の休みにその穴をいっしょに見に行かない?」
少女は後部座席でごきげんだった。
「まさかこんな車が世の中にあるなんて、想像もしなかったよ」
「うん、まあ、意外にあるんじゃないかな」
運転席の少年は言葉すくなに答える。少女はサイドブレーキの上に身を乗り出して、少年の顔を下からのぞきこんだ。
「嘘。いくらあたしが車に詳しくなくたってわかるよ。これ特別に改造したんでしょ。ずいぶんお金かかったんじゃない?」
もともとこの車は少年がアルバイトで金をためて買ったもので、ちゃんと走るのが不思議に思えるほどのおんぼろの中古車だった。ところが少年がそれに施した改造がじつに振るっていた。後部座席を一度はずして、天井に上下さかさまに取り付けなおしたのだ。もちろん少女を乗せるためである。
「ありがとうね。バスとか汽車でもあたし天井にすわらないといけないしさ、やっぱり落ち着かないわけよ。ローラースケート使うようになったのも、なるべく乗り物に乗らないですむようにしようって理由だし。だからこんなふうにドライブできるなんて思わなかった」
少年は照れ隠しに生返事をして、運転に集中した。
車をしばらく走らせると、目的の山のふもとに着いた。ここからは歩きだ。二人は車を降りて山を登りはじめた。正確に言えば、歩いているのは少年ひとりだけだ。少年と少女はそれぞれ胴体にハーネスを装着し、互いのハーネスをベルトでつないでいた。少年が地面に立ち、そのハーネスからベルトが空中に伸びて少女をぶらさげるという寸法である。屋根も天井もない野外なので、少女が空に落ちないようにするにはこうするほかない。
「なんかごめんね、一人だけ歩かせちゃって。あたし重くない?」
「重いわけがないよ。それどころか自分一人で歩くより軽く感じるぐらいだ」
「そりゃそうだけど。でもいまのセリフ言ってみたかったの!」
この構造では、少女の体重のぶんだけ少年の体は軽くなる理屈である。もしも少女のほうが少年より体重が大きかったなら、少年は逆に少女に引きずられてもろともに上に落ちてしまうところだが、さすがにそのようなことはなかった。
ごく低くなだらかな山だった。二人とも登山の経験はなかったが、何事もなく山頂に到着した。
「うわー。底が見えないわー」
少女は少年の肩につかまって穴の底を見上げた。例の穴はちょっとした湖ぐらいの大きさがあり、中は真っ暗だった。ためしに石ころを落としてみると、どこまで落ちていったのか音がまったく返ってこない。少年も身を乗り出して穴の底を見下ろしていたが、なにげない調子で言った。
「入ってみる?」
少女はすぐに答えられなかった。少年はうなずいた。
「よし、じゃあ行こう」
「ちょっと待ってよ、あたしまだ行ってみたいなんてひとことも」
「行ってみたいけどぼくを付き合わせるのは気がひける、とか考えてたんでしょ?」
図星をさされて少女はだまりこむ。少年は笑った。
「ぼくはもともと穴の中に入ってみるつもりだったよ。ここで尻込みするようじゃオカルトマニア失格だしね。というわけでお願い。ぼくといっしょに」
「待った」
少女はさえぎった。いろいろな葛藤を深呼吸ひとつで飲みくだし、少年に告げる。
「あたしからお願いするよ。好意につけこむみたいでちょっとアレだけど、いっしょに穴の中に行ってくれませんか」
「もちろん」
少年は少女を引っぱって、穴の中に飛び込んだ。
穴は長く暗かった。二人のまわりで風がびゅうびゅうとうなり、ハーネスをつなぐベルトがばたばた鳴った。やがて穴の壁が途切れ、二人は暗い空のまっただなかに飛び出した。
「これを!」
少年は、背負っていたナップザックを少女に差し出した。受け取るとずしりと重い。
「なにこれ」
「鉄アレイが入ってる。これできみのほうが重くなって、落ちる速さにブレーキがかかるから」
言われてみれば、体にかかる加速の向きが変わったような感じがする。
「ねえ、ここってもう地底世界なの?」
「たぶん。あれを見てごらん」
少女は足元を見た。真っ暗ななかにたくさんの光がともっている。おそらくあそこが地底世界の天井であり、しかもあの光はもしかして、
「町がある!」
「うん。ほら、動いてる光もある。生きものなのか乗り物なのかわからないけど」
いつしか落下の勢いは止まり、逆に少女が少年をひっぱる方向に落ちつつあった。しだいに近づいてくる光の群れを、少女はじっと見つめた。両側に一定の間隔を置いて光が並んでいるのは道路だろうか。そこをいくつもの光がてんでに行き交っている。たくさんの光が層を成している建物らしきものもある。おおぜいの人が住んでいるのだろうか。そしてその人々は自分と同じように上のほうに落ちる人間で、あの天井に張りついて暮らしているのだろうか。
横風で流されたらしく、二人の位置は穴の真上から少し外れていた。このまままっすぐ落ちれば天井に着陸できる。少女はどきどきしながら少年に告げた。
「降りてみよう!」
「もちろん!」
打てば響くような答えだった。地底の町はずれに二人は降りてゆく。
今回イメージした曲は、『フレースヴェルグ』(ガスト、2000年)から、
「Spread its WINGS」(小林美代子作曲)です。




