081:疑惑のクールビズ
木々の枝が左右から張り出して、片側一車線の県道の上に屋根をつくっていた。木漏れ日を浴びながらしばらく車を走らせると、左手に看板が見えてくる。この日の目的地である中堅製薬メーカーの研究所への分かれ道を示すものだ。そのそばに駐車場があるが、そこは入口にチェーンを張って閉鎖しているので素通りしてそのまま分かれ道に入り、どえらい急勾配をローギアでえっちらおっちらのぼっていく。
どうにかエンストせずにのぼりきると、そこが正門である。訪問の約束をしていることを守衛に告げて門を開けてもらう。入ってすぐの広々とした駐車場に車を停めて下りる。日差しこそ強いが、まわりが林ということもあってか、思ったほど暑くはない。首元の結び目が崩れていないことをたしかめ、むこうに見える研究所の建物へと歩き出す。
事務室の片すみの応接スペースに通されてほどなく、年配の男が入ってきた。
「どうもすみません、お待たせしまして」
「いえ、忙しいところお時間をいただきまして……えっ」
立ち上がっておじぎしながら述べたあいさつを、不覚にも途中で詰まらせてしまった。相手の男の白い半袖ワイシャツの首回りに何もなかったからである。ネクタイとか、ポーラータイとか、ボウタイとか、ネッカチーフとか、そういったものが何も巻きついていないのだ。
相手はこちらのとまどいに気づいて笑顔を見せた。
「じつはわが社では夏場は略装をすることになっておりましてな。そういうことですのでノーネクタイですがご了承ください。申し遅れましたが、わたくしこの研究所の所長を務めております」
「あ、こ、これはどうも」
にこにこしながら名刺を差し出してくるので、こちらもあわてて名刺を出した。渡された名刺にはたしかに所長という肩書きが見える。このまま商談に入って大丈夫なのだろうかという不安がぬぐいきれないが、もっとちゃんとした相手と話がしたいとごねても始まらないだろう。
「そ、それでは、先日ご連絡いただきました件について詳しく説明させていただきます」
商談の内容は、さっきも通った入口の前の急な坂道に関するものである。冬になって路面が凍結するとあの坂を車で登るのがむずかしくなるのだそうだ。これまでは坂の下にもうひとつ駐車場を作って冬場はそちらに車を停めて歩いて坂をのぼることでしのいでいたが、すべって転んでけがをする人間がいる、資材の搬出入がいちじるしく不便であるなど問題が多いため、わが社が解決策の立案を依頼されたというわけである。
「オーソドックスな方法といたしましては、融雪剤をまくというものがあります。この方法はコスト面では優秀ですが、気象条件によって効果にばらつきが出ます。また、環境への影響が大きく、その結果として企業イメージを損なうおそれもありますので、あまりおすすめはできません。ほかには、坂道にロードヒーティングを敷設するという方法があります。これは確実ではありますが、導入にも維持にも多大な費用がかかるのが欠点です。弊社としてもっとも強くおすすめいたしますのは三つめの方法、坂の上に巻き上げ機を設置するというものです」
坂の下に車を停めてワイヤーのつながったフックをひっかけ、坂の上でそれを巻き上げるという寸法だ。すでにあちこちの坂道で採用されており、信頼と実績もある。
「ふむ。その巻き上げ機の動力は何ですか?」
ノーネクタイはこちらの持参した資料に目を通しながら、意外にまともな質問をしてきた。
「主な選択肢は二つありまして、一つは電気、もう一つは人力です。電気の場合、巻き上げ機のところまで電線を引かないといけないので、初期投資はやや高額になりますが、長期的に考えれば割安です。人力をご利用の場合は、そのための人員の用意が必要になります。弊社のほうで巻き上げ機の動力用の人間のリース契約も扱っておりますので、よろしければご一考ください」
そのあとさらに具体的な費用の予想、それぞれの方式を採用した場合の工事にかかる期間などをひとしきり説明させられた。所長を名乗るだけあってノーネクタイはなかなか明敏であり、鋭い質問をいくつも飛ばしてきた。緊張感のある話し合いは、検討のうえで返答するという決まり文句で終了したが、かなりの手ごたえを感じた。
その日の帰宅は遅くなった。
くだんの研究所での営業を終えて会社に戻り、部長に話し合いの経過を報告したのだが、その時つい相手がノーネクタイであったことを言ってしまったのが運の尽きだった。永遠に続くかと思われるほどの長い長いお説教がおっぱじまったのである。いわく、所長だかなんだか知らないがそんなやつに話をしても意味がない、ちゃんとしたネクタイと話をしないとこちらは相手を信用できないし先方も話を進められない、だいたいおまえがそんなよれよれになってるから相手になめられるのだ、などなど。
よれよれになっているのは部長にどなりつけられて萎縮したせいだと思うのだが、そんな口答えはできない。実際、自分としてもあのノーネクタイ所長と話をしてよかったのだろうかと疑問に思っていないわけではないのだ。
お小言のせいでほかの仕事が定時より後にずれ込み、長時間の残業を余儀なくされた。夜おそくなってアパートに帰りつき、背広をハンガーにかける。それから首元の結び目をほどいて人間をベッドに放り出し、自分はネクタイかけにぶらさがってようやくひと息ついた。少し休んだら体にアイロンをかけなければ。よれよれのままでいたら、あしたもまた部長にしかられる。
それにしても、あの所長はじつにそつのない受け答えをしていた。どうやって人間にあれほどの芸を仕込んだのだろう?
今回イメージした曲は、『バトルガレッガ』(ライジング、1996年)から、
「Underwater Rampart」(並木学作曲)です。




