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百曲集  作者: 千賀藤兵衛
76/100

076:炎の歌

 土曜日の午前十時、私と夫は児童養護施設に行った。週末の間だけ子供を預かる約束なのだ。いわゆる週末里親というもので、いろいろな事情で親と一緒に暮らすことのできない子供に、短いあいだだけでも家庭の雰囲気の中で過ごしてもらうためのものである。今度預かることになったのは小学二年の男の子で、すでに何度か施設で顔も合わせている。

 男の子は玄関に出て待っており、私たちが車から降りて歩み寄ると、おどおどとおじぎした。職員のかたと私たちがあいさつして確認事項を話し合っているあいだ、男の子は少し離れた場所で所在なげにたたずんでいた。

 「それではよろしくおねがいしますね」

 職員のかたににこやかに送り出されて、男の子はびくびくと車に乗り込んだ。「お世話になります」という声は小さすぎてほとんどエンジンの音にかき消された。

 この子は三歳のときに自宅が原因不明の火事になって両親と弟を失った。伯父夫婦に引き取られたが、半年とたたないうちに一家の乗っていた自動車がまたしても原因不明の炎上事故を起こし、再びこの子だけが生き残った。もはや親戚の中からは引き取り手があらわれず、ついに施設に入ることになったのだ、という話を以前この施設の園長さんからうかがった。

 「一週間ぶりね。元気だった?」

 「はい」

 「今日明日はお天気みたいだけど、どこか行ってみたいところはある?」

 「いえ」

 「じゃあ、食べたいものとかは?」

 「なんでもいいです」

 私は夫に運転をまかせ、後部座席に男の子と並んですわってしきりに話しかけた。だが会話はまるではずまなかった。返事はぼそぼそした小声で必要最小限、しかもまったく自己主張しない。それも無理もない。子供の立場からすれば、赤の他人の大人から週末だけうちに泊まりなさいと言われても、どんな態度で接すればいいのかわからなくて当然だ。

 ひとまず家に戻って昼食をとることにした。子供は「おじゃまします」と言って、示された席にしゃっちょこばってすわった。それはまるで借りてきた猫を絵に描いて額縁に入れたようだった。私はガスコンロで鍋に湯を沸かしベーコンを刻みながら、男の子に声をかけた。

 「手伝ってくれる?」

 「は、はい」

 男の子は膝のちょうつがいが音を立てるほどの勢いで立ち上がって、こちらにやってきた。「待ってました」ではなく「どんな無理難題を言いつけられるんだろう」といった感じだ。私は苦笑を押し隠して告げた。

 「流しの下にボールが入ってるから、それを出して。あまり大きくないのがいいかな。冷蔵庫の中から卵を三個出して、ボールに割ってちょうだい」

 子供は私の指示にしたがっておっかなびっくり溶き卵を作り、その間に私はスパゲティをゆでてフライパンでベーコンを炒めた。カルボナーラができあがるころには子供は少し打ち解けていた。過去のことがあるから心配だったのだが、火を使うのを間近で見てもおびえる様子はなかった。

 私も夫も音楽が好きなので、わが家は食事のときには音楽をかける習慣だ。このときは夫の選んだCDをかけていた。ポピュラー寄りのクラシック小品集で、子供が聞いても楽しいと感じるであろう一枚だ。だが、三人で食卓を囲みながら子供の表情をうかがえば、食事の支度のときに少しは見せていた気安さはまったく消えうせ、うつむきがちにスパゲティと格闘するその顔はひどく思い詰めている様子だった。

 「おいしい?」

 「はい」

 と答えはしたものの、顔は硬くこわばったままだ。つづいて夫がたずねた。

 「音楽とめたほうがいいかな」

 こんどは返事するまでしばらく間があった。やがて、いかにも無理をしている口ぶりで、

 「だいじょうぶです」

 という。

 音楽のことは施設の職員のかたからもくりかえし注意を受けていた。この子は音楽をひどく苦手にしているのだという。なんらかの曲を耳にしただけで少なからず緊張し、さらには決して歌をうたおうとしない。学校の音楽の授業でも一人だけ無言の行を貫いているというからよくよくのことである。なぜそんなに音楽を嫌うのかはわからないそうだ。

 結局CDを止め、しんとしたなかで昼食を終えた。


 午後は三人で近場の遊園地に行った。ここは地元では手ごろな行楽地として人気があり、コーヒーカップ、回転木馬、ミラーハウス、さらに、小さなものではあるが観覧車やジェットコースターなども備えている。半日遊ぶには十分なラインナップだ。

 男の子がいちばん喜んだのはヒーローショーだった。テレビで放送されている覆面のヒーローが着ぐるみの怪人と戦う出しもので、なるほど男の子というものはこういうのが好きなものだ。夫もいっしょになってヒーローに声援を送っていたところを見ると、大人になってもそうなのかもしれない。

 私は半分はほほえましい気持ちで、半分はあきれて男どもを眺めていたが、ふとあることに気づいた。ショーの進行に合わせてさかんに音楽が流れているのだが、子供はまったく緊張した様子が見られないのだ。これはもしかするともしかするぞ、と私は思った。


 夕飯にはカレーを作ることにした。希望を述べない子供の希望をなかばむりやり聞き出した結果だ。

 料理にとりかかるまえに、私はCDをかけた。また音楽をかけるのかといわんばかりに曇っていた子供の顔が、曲が流れだすとぱっと輝いた。

 「あの、これは……」

 「帰りにデパートに寄ったでしょ。そのときにこっそり買っておいたの」

 それは例のヒーローのテーマソングである。ふだんなら絶対に買わないようなCDだ。

 私と子供は料理を開始した。壊滅的な料理下手の夫が自分も手伝いたいと寄ってくるのを追い払いつつ、私は肉と玉ねぎを切り、子供には皮むき器をわたしてにんじんとじゃがいもの皮をむかせた。鍋に油を引いて櫛切りの玉ねぎを炒める。CDのほうは繰り返し再生するように設定しているので、延々と熱い歌をうたいつづけている。この手の曲をちゃんと聞いたことはいままでなかったが、意外に悪くない。

 歌が二巡めに入ると子供は足でリズムを取りはじめた。

 「気をつけてね。皮むき器でも手を切ることがあるからね」

 「は、はい!」

 大きな声で返事をしてきた。いい傾向である。あの覆面のヒーローは本当に正義の味方だ、と私は思った。三巡め、小さな声でではあったが、ついに子供はサビのところを口ずさんだ。

 「えっ」

 私はおもわず声をあげてしまった。もし子供が歌い出したとしても聞こえないふりをしていようとあらかじめ心構えをしていたのに、だ。それは異様な歌声だった。いったい体のどこから出ているのか、地震を思わせる通奏低音が何重にもからみつき、同時に戦闘機のエンジンのような倍音も出ている。窓のガラスと天井の蛍光灯がびりびり震えた。

 口ずさんだのはほんの二小節ほど、はっと歌をやめて子供は絶望の表情で私の顔を見上げた。つぎの瞬間、玉ねぎを炒めていた鍋が炎に包まれた。天井にとどかんばかりの炎を、私は腰を抜かして見上げた。炎はよじれながら立ちあがり、その中から発狂したオーケストラのようなおぞましい歌声が響いて、今度こそ窓ガラスが砕け散った。炎の中心から炎よりも燃えさかっている何かが這い出てこようとしていた。

 混乱のなかで私は子供のことを思い出した。とにかく子供を守らなくては。腰を抜かしたまま這っていって、子供を抱え込んだ。子供は真っ青な顔でふるえあがって「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返していた。夫が走ってきて消火器から白い粉を炎に撃ち込み、どうにか消し止めた。

 きっとこの子の歌声がどこかこの世ならぬところから何かを呼び寄せたのだ。私はそう悟った。この子は死ぬまで二度と歌ってはいけない。

 子供と抱き合ってへたりこんだまま、私は夫に言った。

 「CD止めてきて」


 今回イメージしたのは、『ドラゴンシャドウスペル』(フライト・プラン、2007年)から、

 「狂闘」(岡本隆司作曲)です。


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