073:地母神騒動
せまい薄暗い通路を逃げる小さな影。手のひらに乗るぐらいの大きさで、その姿かたちは、マイナスのネジを二つ並べたような目といい、胸についた二つの突起といい、くびれた腰や大きな尻といい、どこを見ても遮光器土偶そのもの。二本の短い足をせわしなく動かして、床の上をなめらかに駆けてゆく。
それを追いかける一人の青年。ただ立っているだけで通路の天井につかえかねない長身。六分の一Gの低重力は走るにはかえって邪魔になり、一歩ごとに頭が天井にぶつかって道行きはいっこうにはかどらない。前を逃げる小さな影との間はほんの三メートルほどだが、そのわずかな距離が遠い。
ここは月の地下の天然の洞窟を利用して作られた都市。通路は曲がりくねり起伏も多く、見通しはきわめて悪い。土偶が逃げ込めるような小さなひびや隙間は空気漏れをふせぐためにすべて埋められており、そのことが青年にとってはせめてもの慰めか。
追われる者と追う者が大きなカーブを曲がりきったとき、行く手の壁に花屋の看板とその入口のドアが現れた。ドアの前には商品の鉢植えを整頓している人影。近づく者たちに気づいて笑顔を向け、陽気な声をかけてくる。
「こんにちは! あれっ、お兄さん血相変えてどうしました」
これは気立てがよいと近所で評判の花屋の娘。青年が天井にぶつかりながら跳びはねてくるのを不思議そうに眺めていたが、その手前を走る土偶を見てハッと表情をひきしめた。軽く腰を落とし、逃げてくるそれを捕まえる構え。「オーライ!」と勇ましい掛け声ひとつ。
だがその手が土偶にとどく寸前、娘は横から押されてぐらりとよろけた。一瞬の隙をのがさず、土偶は股をくぐって遁走。追ってきた青年は娘にぶつかりそうになってあやうく立ち止まる。
「すみません逃げられちゃいました!」
「いや、それよりケガはないですか」
娘を押したのは、そばの棚に置いてあった鉢植えのサボテンだった。手のひらサイズの鉢に、産毛の生えたずんぐりむっくり愛嬌たっぷりの小さな体、うまく育てれば花もついて、殺風景なお部屋の飾りに最適の一品。ところがそれが、わずか数秒の間に鉢からあふれるほどに育ち、バランスを崩して娘に倒れかかったのだ。
「だいじょうぶです、このとおり長袖長ズボンだし丈夫な生地だし、トゲなんか刺さりません! それより何ですかあれ。こないだお買い上げいただいた地母神ですよね」
「え、ええ。そう、そうです」
なぜか歯切れの悪い青年。娘はドアをあけて中に叫ぶ。
「お母さん、ちょっと店番おねがい!」
返事も聞かばこそ青年をうながして走り出す。青年はあたふた。
「さっ、はやく追いかけましょう! 見失っちゃいます」
「は、はい」
花屋の前でゴタゴタしているあいだに土偶はかなり距離をかせぎ、その差は二十メートルほど。薄暗くて見通しがきかないこともあり、見失いそうになることもしばしば。軽い足どりでとなりを走る娘に、青年はおずおずと声をかける。
「あの、すみません、追いかけるの手伝ってもらって」
「いえいえ、お気づかいなく! うちの店で買った地母神が逃げ出したってことは、うちの店にも責任があるわけですから」
「あ、いや、ちがうんです」
口ごもる青年。娘はいぶかしげに振り返る。
そもそもかの遮光器土偶は地球からの直輸入の地母神。数日前、自分の部屋に鉢植えを置こうと思い立った青年が、花屋でアロエの鉢とともに買い求めた品である。月面には土着の地母神がいないので、植物はそのままでは枯れてしまう。そこで地球から地母神を輸入し、花屋で販売しているのだ。もっともこうした地母神は出荷前に呪術師がまじないをかけて呪縛してあり、勝手に脱走するようなことはないはず。
「それが、その……、ぼくは地球の大学にいたころに呪術の座学の講義を聴講したことがありまして」
青年は話しにくそうな口ぶり。眉をひそめる娘。
「まさか地母神にかかってるまじないを解いちゃったとか」
「その、そんなつもりはなかったんです。ただ、興味本位で地母神を調べてるうちに、なんかスルッと解けちゃって」
気の毒なぐらいにしょげ返る。娘はそれを見やってあきれ顔。素人が聞きかじりの知識で手を出すからだ、という思いをぐっと飲み込む。
「とにかく乗りかかった船だから手伝います。早いとこ捕まえましょう」
話をしているあいだに、土偶はもはや見えるか見えないかといった距離。だが娘は本気を出す。ぐいと体を沈めて床を蹴り、矢のように前進。天井が近づくと体をくるりとひねり、今度は天井を蹴ってさらに進む。なにしろこの娘、月面生まれの月面育ち。月の重力の中での動きかたを知り抜いている。床と天井と左右の壁、すべてを使って、前へ、前へ。みるみる迫る土偶の背中。
通路がもっと太い通路と交わる。角を曲がってそちらの道に入る土偶。そこここに通行人がおり、走る土偶を目撃しての驚きの声がいくつか。娘はかまわず土偶に追いつき、手を伸ばす。だが何かが足首にからみつき、引っぱられて受け身もとれずに転倒。重力が小さいとはいえそれなりに痛い。
「まあっ! わたくしの花束が!」
中年の婦人の叫び声。ようやく青年が追いついてきて、足にからみついたものをはがすのを手伝ってくれる。その正体は、婦人の持っていたバラの花束。腕でかかえられるほどの大きさだったものが、突然十メートルも茎を伸ばして娘の足をとらえたのだ。
「これもあいつのしわざか! 絶対つかまえてギュウと言わせてやる!」
すっくと立ち上がる娘。勢いあまって飛び上がってしまうが、あわてず天井に手足をついて反転。いまの一幕のあいだに土偶はまたも距離をかせぎ、すでに通路のはるか先。その後ろ姿に目を据えて、一気に天井から飛ぶ。例によってもたもたとそれを追いかける青年、さらに花束の婦人も追跡に加わった様子。
通路はすぐに終わり、その先は大きくひらけた空洞になっている。そこに駆け込む土偶、つづいて娘が飛び込み、だいぶおくれて青年と婦人。空洞の中にはたくさんのテーブルと椅子が置いてあり、壁ぎわにはずらりと食べ物の屋台。昼時には多くの人が訪れてにぎわうが、いまはまだ十時過ぎ、ほとんどの屋台は準備中で、席もガラガラ。
並んだ屋台の前を駆け抜ける土偶。娘の手がふたたび土偶にせまる。捕まえた、ついに。両手でむんずと胴体をとらえられ、土偶はじたばた。
青年と婦人が追いついてくる。
「ありがとう、ありがとう。助かりました」
「いえいえ、どういたしまして」
ほっと気がゆるんだその瞬間、すぐそばのサンドイッチの屋台が爆発した。吹き飛ばされて地面を転がる三人。起き上がって振り返れば、レタスから根が、タマネギから茎がにょきにょき伸び、トマトの種も発芽してぐんぐん成長。爆発と思ったのは気のせいで、実のところは急激に成長した大量の野菜に突き飛ばされたのであったらしい。その勢いたるや、屋台の骨組みが歪むほど。そして、つかまえたはずの土偶がいない。
「なんてこった、おれの店が」
わめいているのは、屋台から這い出てきた太鼓腹の親爺。青年がぺこぺこ謝るかたわらで、娘は四方を見わたして土偶を探す。いた。空洞の出口のひとつ、入ってきたのとは別の通路へ駆け込むところ。
「えーい、今度こそ逃がさん!」
大きく跳躍して追いかける娘、それにつづく青年と婦人、そしてサンドイッチ屋の親爺。娘以外の三人は早くも引き離され、ひとかたまりになって通路に飛び込む。
「店も商品もめちゃめちゃにしやがって。兄ちゃん、きっちり弁償してもらうからな」
「わたくしの花束もですわ。きょう結婚する友人に贈るために用意したものなのに。ここでは本物の花はとても値が張るんですよ」
「は、はい。でも今はあれを止めないと」
「わかってる。だからいっしょに追いかけてるだろうが」
曲がりくねった通路の先に見え隠れする娘の背中、それを追いかける三人。ふと親爺が猪首をかしげる。
「しかし何なんだ、さっきの野菜の伸びかたは。地母神というのはあんなことができるもんなのか」
「どうなんでしょう。ぼくは聞いたことがありません」
「それはともかく、このままではよろしくありませんよ。この道の先には……」
あせった顔で話に割り込む婦人。
「なにかありましたっけ」
「ええ。植物園が」
土偶は結局まんまと逃げおおせた。追いかけてきた四人がまるでジャングルのようになってしまった植物園の前で途方にくれていると、かけつけてきた警官に事情を聞かれ、それ以後は警察が捜索にあたることになった。しかし土偶のゆくえはいっこうに知れなかった。
数日後、青年は花屋を訪れた。ちょうど娘が店番をしているときだった。
「すみませんお兄さん、あの地母神が逃げたのとか植物を急成長させたのって、もとはメーカーの不手際だったそうじゃないですか。あたしったらてっきり、お兄さんが余計なことして地母神のまじないを解いちゃったせいだと」
「いや、あのときはぼくもそう思ってましたし」
そもそも地球から月へはごく力の弱い地母神だけを選別して輸出することになっている。ところがこのあいだ脱走したあの遮光器土偶型地母神は、植物を成長させた速さから見て、主神クラスの力があると推定された。どうも地母神を出荷したメーカーの管理体制に問題があったらしい。そして、そのような強力な神ともなれば、呪術師がまじないを施したところで長いあいだ押さえつけておくことなどできるものではなく、青年が何もしなくても遠からず脱走していただろうということだ。
「結局どこに行っちゃったんでしょうね、あの地母神。あれから一度も目撃されてないんでしょ」
「それが、さきほど友人から聞いた話なんですが……」
青年はかばんから一枚の写真を取り出して娘に渡した。下半分は地面、上半分は真っ黒な空でその一角に半分ほど欠けた地球が浮かんでいる。
「その友人は外で行われた地質調査に参加してまして、そのときに撮った写真です」
「光の加減かな。ここ、まるで草が生えてるみたいに見えますね」
写真の中央を指さしながら娘が言う。青年はうなずいた。
「草が生えてたんですよ。その付近には空気もあったそうです。草は何種類かあって、どれもこの町の植物園で育ててる種類のものだったとか。どうやらあの地母神、ここの植物園から持ち出した植物を外に植えて育てることにしたみたいです」
このエピソードがイメージしているのは、『大正もののけ異聞録』(ガスト、2003年)から、
「はだしひめ」(阿知波大輔作曲)です。




