072:ぬいぐるみはどこへ行ったか?
それは茶色い熊のぬいぐるみだった。中にこまかなビーズがつまっていて抱き心地はふわふわ、持ち主の女の子の大のお気に入りである。
女の子は丘の上にある広い屋敷で両親や女中や運転手と暮らしていた。女の子はいつでもぬいぐるみといっしょに過ごした。食事のときは自分の椅子のとなりにおもちゃの椅子を持ってきてぬいぐるみをすわらせた。屋敷の外の野原や花畑に出かけるときも、だっこしたりおんぶしたりしていっしょに連れて行った。夜も自分の部屋の大きなベッドでぬいぐるみを抱いて寝た。
ある日、女の子は両親といっしょに町のデパートに買い物に行くことになった。デパートなどめったに連れて行ってもらえないので、女の子はたいそう興奮した。自動車の後ろの座席で、女の子はひざの上のぬいぐるみに話しかけた。
「きみはデパートに行ったことないでしょ? デパートって大きくて何でもあるんだよ」
「そもそもそのぬいぐるみはデパートで買ってきたんだけどな」
父親が助手席でそう言って笑ったが、女の子の耳には入らなかった。車は丘をくだりのどかな野原をつっきって走っていった。女の子はひっきりなしにしゃべりつづけ、しまいにはとなりにすわる母親から少し落ち着きなさいとしかられたが、それでもずっとご機嫌だった。道はやがて山の中に入り、車は山肌を大きくめぐるカーブに差しかかった。片側は崖になっていて見晴らしがよく、遠くにこれから行く町がはっきりと見えた。大きな建物をいくつか見分けることさえできた。女の子はひらいた窓からぬいぐるみを突き出して景色を見せてやった。
「見える? あのとがったのが教会で、そのすこし横のほうにある大きな四角いのがデパートだよ」
たぶん女の子の持ちかたがすこしばかり甘かったのだろう。ぬいぐるみはつるりと手からすべり落ちた。落ちた先は車の外、そのまま路肩をこえて崖の下へ。
女の子がけたたましい悲鳴をあげた。運転手はあわてて車を停め、一同は道路のふちに雁首を並べて崖の下をのぞきこんだ。だが切り立った岩の斜面のどこにもぬいぐるみの姿は見当たらず、おそらくは山裾の林の中にまで転がっていってしまったものと思われた。女の子は崖を這い降りて探しに行きかねない様子だったが、もちろん大人たちはそれを押しとどめ、車に押し込んで走り去った。
崖の下は雑木林になっており、近くの村に住む人々がいつもここでたきぎや山菜を集めていた。そのなかに、貧しい農家の娘がいた。
ぬいぐるみの持ち主の女の子よりは少し歳の行っているこの少女、忙しい両親を助けるために幼いながら毎日なにやかやと仕事に精を出していた。この日もたきぎを拾いにきていたのだが、林の奥のほうまで来てふと顔を上げると、目の前の木の枝になにか引っかかっているのが見えた。それは茶色い熊のぬいぐるみだった。すこしよごれてはいるが、五体満足である。
少女はそれを木から下ろしてみた。ふわふわしてやわらかい。少女はぬいぐるみを持っておらず、さわったこともなかった。誘惑に負けてぎゅっと抱くと、もう手放すことなど思いもよらなかった。
少女は両親に内緒で自分の家にぬいぐるみを持って帰り、夜になるとぼろぼろの毛布の中でぬいぐるみを抱いて眠りについた。
深夜、ぬいぐるみは少女の腕から抜け出した。元いた屋敷に帰るためである。ぬいぐるみには自力で動いてはならないという掟があるが、いまこのときばかりはやむをえないと自分に言い聞かせたのだった。
そこは屋敷とは比べるべくもないみすぼらしいあばら家だった。とはいえぬいぐるみはぜいたくな暮らしが恋しかったから帰ろうとしたのではない。ただひとえに、自分の主人である女の子がさびしがっているにちがいないと感じたためであった。
立ち去るまえにぬいぐるみは一度振り返って、少女の寝顔を見た。木の枝にひっかかって動けなくなっていたところを助けてもらったことは、深く感謝している。自分といっしょに過ごすことに大きな安らぎを見出だしてくれているのもよくわかっている。できることならこの少女のもとにもいてやりたい。けれども、ぬいぐるみにはぬいぐるみの仁義がある。歩むべき道がある。自分の忠誠はあの屋敷の女の子のもとにあるのだ。ぬいぐるみは眠っている少女に一礼して、寝床を後にした。
月の明るい夜だった。家の外に出て、ぬいぐるみは二本の後足でとことこ歩きだした。屋敷の方角はわかっている。ぬいぐるみは自分の帰る場所を知っているものなのだ。道を歩いて万にひとつ人間と出会うと面倒なので、野原の中を歩いて行った。屋敷まではほんの一時間もかからないだろう。
ところが、しばらく歩くうちにだんだん足腰が立たなくなってきた。こんなはずはない。ぬいぐるみは歩き疲れたりしないものだ。足を止めて体をくまなく調べてみたところ、左の後足の縫い目が裂けて中身のビーズがこぼれていることがわかった。おそらく崖を転がり落ちたときに岩の角にでもぶつかってほつれたものだろう。その傷が歩くうちにだんだんひろがってきたのだ。これはよくない、とぬいぐるみは思った。このままでは屋敷に着くまえにビーズがすっかりなくなってしまうかもしれない。
ぬいぐるみは悩んだすえに屋敷へと歩きつづけることに決めた。来た道を戻ったとしても、少女のいるあばら家に着くころにはやはりビーズはほとんどなくなっているだろう。同じことなら屋敷をめざすべきだ。屋敷に帰り着くことができれば、修理してもらえる目もでてくる。
ビーズはどんどんこぼれていった。中身が少なくなったせいで体はふにゃふにゃと頼りなくなり、一歩ごとに腰がくだけるありさま。しまいには後足で立つこともできず、四つんばいで体を引きずるようにして進んだ。ようやく屋敷にたどりついたときにはビーズはほとんど残っていなかった。くるんでいるものがなくなったのだから、それはもうぬいぐるみとは呼べない。強いて呼ぶとしたら、ぐるみを取っ払って、ぬい と呼ぶしかないだろう。
いまや皮ばかりになったぬい は、屋敷を囲む生け垣をくぐりぬけようとした。ところが、やっと全身が茂みにもぐりこんだというところで、体が前に進まなくなった。後足の裂けた箇所が枝の先にひっかかってしまったのだ。落ち着いて慎重にやれば、ひっかかったところを枝からはずすこともできたかもしれない。だがぬい は屋敷を目の前にして気が急いていた。それにぬい の前足はあまり器用ではなく、こまかい作業をするのは不得手だった。
ぬい は短気を起こした。枝にひっかかった皮をきれいさっぱり脱ぎ捨ててしまったのだ。それはもはやぬい ですらない。 としか呼びようのない何者かであった。
枝から解き放たれた ははやる心のままに庭を駆け抜け、閉まっていた窓をするりと通り抜けて、女の子の寝室に入り込んだ。女の子はひとりでベッドに横たわっていた。 はほっとして、自分の場所であるそのとなりに入ろうとし、そのまえにふと部屋のなかを見わたした。そして見つけてしまった。壁ぎわの棚の上に置かれた、あたらしいぬいぐるみを。
それは茶色い熊のぬいぐるみで、ビーズがつまってふわふわしていて抱き心地がよさそうだった。そう、 と同じ製品である。おそらく女の子の両親があのあと買い求めて与えたものだろう。だが、それはいま棚のうえに行儀よくすわらされており、女の子はぬいぐるみを抱かずに寝ているのだった。
そうか、と は悟った。女の子はもうぬいぐるみといっしょに寝ることはないのだ。
翌日の朝早く、少女が屋敷を訪れた。夜のうちに消えてしまったぬいぐるみを探していたら見慣れないビーズが地面に点々と落ちていたので、それをたどってきたのである。
少女は生け垣にひっかかっていたぬいぐるみの皮を見つけると、家に持ち帰った。そしてぼろきれやくずわたを詰めてぬいぐるみをよみがえらせた。以前ほどのふわふわの抱き心地ではなくなったが、少女はそれをとても大事にし、のちに結婚して母親になると子供にゆずった。
がどこへ行ったかはだれも知らない。
今回のイメージの元になっているのは、『マジカルバケーション』(ブラウニーブラウン、2001年)から、
ガスパチョ村BGM(曲名不明、作曲者不明)です。




