007:雲の時代
わたしは雲の上に立って、頭上に広がる海と、そこに浮かぶ大地を見上げる。
弟はその地面からさかさまにぶらさがって、眼下の空とわたしを見下ろしている。いや、弟のほうでは、自分こそが地面に立っていて、わたしが雲からぶらさがっているのを見上げているつもりにちがいない。
その弟のまわりの地面では木が、草がさかさまに生え、花々がさかさまに咲きみだれ、さかさまの獣や鳥や虫たちが走ったり飛んだりしていた。
わたしのまわりには何もない。すかすかした雲がうつろな空に浮かび、わたしがそこに立っているばかりだ。かつてはこの雲も多くの命に満ちあふれていたが、いまではみな死に絶えてしまった。生きているのはわたしと弟だけだ。
弟が地面からわたしに呼びかける。
「兄者、はやくこちらに移ってきてくれないか。おれたちの母なる雲はすっかりやせほそってしまった。もはや命をはぐくむ力はそこにはない。おれたちは地面で生きていくしかないんだ」
言われるまでもない。いまや雲という雲は灰のように白く朽ちはてて、かろうじて形をとどめているだけ。入れかわりに、それまでわれわれの上に浮かんでいるだけだった海と大地に、にわかにさまざまな生きものが現れはじめた。きっと空と雲の時代は終わり、これからは海と大地の時代になるのだろう。だがそうした移り変わりを目の当たりにしても、わたしはそれを受け入れることができなかった。
わたしは言葉をつむぐ。
「おまえはどうしても考えをあらためるつもりはないのか。そのような場所を離れて、こちらに、われわれの生まれ故郷である雲に戻ってこないか」
わたしは知っていた。弟は絶対に考えを曲げないだろうと。それでもかすかな希望をこめて見上げれば、さかさまになっているせいか弟の表情はひどくゆがんで見えた。
「そんなことできるはずがないじゃないか。もう雲の上には食べるものすらない。雲の上ではもう生きていくことができないんだ。兄者だってそれはわかっているだろう。そんなにやせさらばえて、いったいこの先どうするんだ」
わたしは答えた。
「滅びるのだ。われわれは雲から生まれた。雲が滅びるのならば、われわれもそのときにともに滅びるべきなのだ。弟よ、ともに行こうではないか」
「断る! おれはこの大地と、大地に生まれたものたちが好きだ! おれはここで生きていくことを望む!」
わたしの体がずぶずぶと足元の雲のなかに沈みはじめた。雲がついにわたしの体を支えることさえできなくなったのだ。わたしはだまって弟を見上げる。わたしは弟を愛していたのに、弟はその愛を大地のものたちに向けるのか。そう思うと、憎しみがわきあがった。弟が、弟がいとおしむ大地が、大地に生まれたものたちが、憎かった。
「兄者! 雲はもうもたない! はやくこっちに移ってくれ!」
弟がさけんでいるが、わたしは首を振り、そのまま体が沈むにまかせた。そのとき、雲がわたしのまわりでじわじわと黒ずんでゆくことに気づいた。わたしの気持ちを吸い取っているのだ。いいだろう、とわたしは思った。この気持ち、すべて持ってゆくがいい。
憎しみはわたしの中にふんだんにあった。雲はどんどん染まっていった。
「兄者? どうしたんだ、なにが起こっているんだ?」
ついにわたしの頭が雲の中に没した。暗くてなにも見えない。気が狂いそうになるほどの思いがとけこんだ闇のなかを、わたしはどんどん沈んでゆき、ほどなく雲の下に突き抜けた。ここから先、身を支えるものは何もない。ただからっぽの空を、底へ底へと落ちてゆくだけだ。
「さらばだ、弟よ」
憎しみがすべて雲に吸い取られてしまったのか、わたしの心は静かだった。見おさめにしようと、わたしは遠ざかってゆく雲を見上げた。
雲は夜のように真っ黒だった。そのとき突然その雲のむこうがはげしく光り、世界のすべてが砕けるようなすさまじい音がした。目もくらむばかりの光のなかで、黒い雲のむこうの大地がなにかに打ちすえられたかのようにふるえるのが見えた。
その光と音は何度もくりかえし大地を打った。わたしはさとった。わたしの憎しみが雲から大地へと降りそそいでいるのだ。
やがて黒い雲は風に吹かれてどこかへ流れてゆき、光と音もおさまった。わたしは大地に目をこらした。それはすでに豆粒のようにしか見えなかったが、はげしく痛めつけられたことは明らかだった。弟が無事かどうかは見定められなかった。
「すまない。ほんとうにすまない」
届かないと知りつつ、わたしはわびた。わたしは空の底へと去るが、わたしの残した憎しみはあの雲とともに大地のそばにとどまり、折りにふれて大地を打つだろう。
大地はしだいに遠ざかり、ついには見えなくなった。空はどこまでも深い。
今回イメージした曲は、『エースコンバット04 シャッタードスカイ』(ナムコ、2001年)から、
「Blockade」(小林啓樹作曲)です。