069:消えた学校
よく晴れて暑くなりそうな朝だった。
少年は家を出ると、とぼとぼと学校にむかった。小学校までは歩いてたったの十分だ。家々のあいだを抜け、国道にかかった歩道橋をわたって、いくつかの商店の前を通り過ぎればそこに、
「ない……?」
学校はなかった。
きのうまで学校があったはずの場所は、まっさらな更地になっていた。校舎や体育館はおろか、校門や金網のフェンスもなくなって、ただの土の地面が敷地いっぱいに広がっている。
生徒たちはすでにあらかた登校していて、空地のいたるところで騒いでいた。難しい顔を寄せ合う教師たちの姿も見える。
少年はほかの生徒たちのそばには寄らず、すみっこのほうで一人でしゃがみこんだ。たぶん学校が勝手にどこかに出かけてしまったのだろう、と少年は考える。父親が子供のころにかよっていた小学校もときどきどこかに行ってしまうことがあったそうだ。さぼりぐせのある困った学校だった、と父親は語っていた。もっとも少年のかよっているこの学校は、これまで何度か話をしたことがあるだけだが、いたってまじめで責任感が強そうだった。好きこのんでさぼるとは思えないが、何か事情でもあったのだろうか。
あらためてあたりを見わたせば、ほんとうに何もなくなっていた。校舎は基礎ごと消え失せているし、花壇や鉄棒や砂場も見当たらない。唯一残っているのは、少年がいま腰をおろしているマンホールのふただけだ。
「あれ? このマンホールいったい……」
少年がマンホールを調べようとしたそのとき、教師が生徒たちを呼び集める声がした。クラスごとに整列しろと言っている。少年はしぶしぶ立ち上がってそちらにむかった。
驚くにはあたらないが、学校は臨時休校となった。教師の話によれば、やはり学校は夜のうちにどこかに身を隠してしまったらしい。探し出して連れ戻ししだい授業を再開する、今日はもう帰るように、とのことだった。生徒たちは突然の休日に大はしゃぎで、友達とどこで何をして遊ぶかの相談がそこここで交わされている。家で自習をするようにと教師は言ったのだが、当の教師もそんな指示にまともに従ってもらえるなどと思ってはいまい。
少年はだれとも話をすることなく家に帰った。少年は一人っ子だった。両親は共働きで、鍵をあずけられているから家に入ることはできるが、だれもいない。物置をあさって必要そうなものをリュックサックに詰め込むと、少年はふたたび学校に向かった。
解散してから一時間ほどたっていた。学校のあった空地にはもうだれもおらず、がらんとした空地のはしに「校舎逐電につき当分の間休校と致します」という新しい立札があるばかりだった。
少年はまっすぐマンホールに歩み寄った。さきほど疑問に思ったのだ。なにもかもなくなっているのにマンホールだけ残っているのは理屈にあわない。うろおぼえだが、そもそもこんなところにマンホールはなかったような気もする。ことによるとこのマンホールをくぐっていった先に何かあるのではないか。
少年はきょろきょろとあたりをうかがった。フェンスや植え込みまできれいさっぱりなくなってしまったせいで、空地はやたらに見通しがよい。マンホールのふたをあけて中にもぐりこむところなど人に見つかったらまちがいなく怒られるので気がすすまなかったが、この中に何があるのかを突き止めないとどうにも落ち着かなかった。家から持ってきたマイナスドライバーの刃先をマンホールのふたのふちにねじこみ、てこの原理でふたを持ち上げてずらすと、すばやく中にすべりこんだ。
中はこれぞマンホールというようなコンクリート製のたてあなだった。いかにもな鉄の棒がはしごがわりに壁に埋め込まれている。十メートルほど下りると底についた。横穴がのびているが、当然真っ暗だ。少年は懐中電灯をつけて歩きだした。
さいわい、穴のなかは汚水が流れているわけでも悪臭が漂っているわけでもなかった。ひんやりと涼しく、むしろ快適なほどだ。もしかしたら学校は暑さを避けるために地下に避難したのではないかしら、などと少年は思う。
しばらく歩くうちに、前のほうからがやがやと人の気配が近づいてきた。少年は懐中電灯を消して手近な分かれ道に飛び込み、忍者よろしく壁に身を寄せて息をころした。いくつかの明かりがやってきて、少年のかくれている穴の前を通り過ぎる。話し声が聞こえた。
「あの頑固者め。まるで私らが問題を解決する気がないかのように言いおって」
「ほんとですよ。簡単に解決できるものだったら、学校にとやかく言われるまでもなくとっくに解決してます」
「しかしこのままではいつまでも授業ができません。なにか学校が納得するような対策をとらないと」
やれアンケート調査だ、スクールカウンセラーの配置だと話し合いながら、その一団は少年に気づくことなく歩き去った。声で何者かわかった。少年のかよう学校の教師たちである。
ふたたび懐中電灯をつけて、少年は教師たちの来た方向へむかった。通路はほどなく屋根付き野球場がまるごと入るほどの巨大な地下室にいたった。天井を支えるために何十本もの柱が立ち並び、そのなかに柱に挟み込まれるようにして見慣れた校舎がたたずんでいた。体育館や物置小屋、さらには花壇やサッカーのゴールや砂場や鉄棒も地下室のあちこちで薄暗い照明に照らされていた。
「だれかと思えばきみか」と学校は言った。
「いったいどうしたの、こんなところで」と少年は校門をくぐりながら聞いた。
学校の声は以前耳にしたときと同じ誠実な印象だった。
「いや、なに。ちょっとストライキをね」
「ストライキ?」
少年はストライキなるものを知らなかった。学校は説明した。
「うん、つまり、私の言い分をむこうが受け入れるか、すくなくとも納得のいくような答えが得られないかぎり、もとの場所には戻らないってことさ」
「ふうん。ずいぶん乱暴というか、思い切ったやりかただね。話し合いでなんとかならなかったの?」
「うん。あの教師どもときたら、事なかれ主義でどうにもこうにも」
「どんな不満があったの? 渡り廊下の雨漏りをはやく直してほしいとか?」
「いや、そんなのじゃないんだ」
学校はしばし口ごもったすえに答えを言った。
「きみのことさ」
「ぼくのこと?」
「まあ、きみだけじゃないけどね、残念ながら。つまりその、きみ、クラスでいじめられてるだろ。そういう子が校内に何人もいる。それで、なんとかしろって教師どもに言ってるんだ」
「ぼく、べつにいじめられてないけど」
「なんだって」
少年の言葉に、学校は驚いた様子である。
「じゃあ、上履きを隠されたのとか、掃除当番をきみ一人に押しつけてほかの連中は帰っちゃったのとか、きみに聞こえるように陰口をきいてるのとかはどうなんだい」
「べつに害はないし、先生に知られたりすると騒ぎになっちゃうから」
「本気で言ってるのか?」
少年はうなずいたが、口もとが少しひきつったのが自分でもわかった。学校はためいきをついた。いや、学校は呼吸をしないから厳密にいえばためいきではないが、とにかくそんな雰囲気をかもしだした。
「そうか。でも私はストライキをやめないよ。これはきみのためじゃなくて、私の勝手だから。私がいじめを見ていたくないから、こうしてるんだ」
なるほど頑固だ、と少年は思った。教師たちが言っていたとおりである。それなら根くらべだ、と少年は考える。
「おい、なにをしてるんだ」
「休憩。歩いてきたからすこし疲れた」
近くにベンチがあった。グラウンドのはしに置かれていたものだ。少年はそこにすわると、リュックサックから水筒と菓子パンを取り出して飲み食いしはじめた。食べおわるとそのままベンチに横になって昼寝の構えである。
「おいおい、こんな場所でくつろぐな」
「家に帰ってもだれもいないし、いっしょに遊ぶような友達もいないし。だから学校が休みになると退屈なんだよ。たしかにいろいろされることもあるけど、けっこう逃げ回れるからそれはべつにいいんだ」
「図太いな、きみは」
学校はあきれている。少年は悠然と問いかけた。
「それより、ここがどういう場所か知ってる?」
「いや、よく知らない。敷地を離れてどこに行こうかとうろうろしてたら手ごろな空洞をみつけたから、おじゃましてるんだ。こんな地下なら、しばらく居すわっても人に迷惑がかからないだろうと思ってね」
「そう。ぼくは知ってるよ。社会科見学で来たことがあるから。ここはね、大雨が降ったときに、川があふれないように雨水をためるところなんだ。いや、ほかの川につながってて、そっちに雨水を流すんだったかな? とにかく、大雨が降るとここには水が流れ込むんだって」
「ほう」
「で、天気予報では今日は昼ごろから天気がくずれて土砂降りに……」
そのとき、どこかでドドドド……と水音がした。ほどなく地下室のはじからちょろちょろと水が流れ込んできて、見る間にかさを増してゆく。少年はベンチの上で体を起こした。
「あ。思ったより早かった」
「おい、すぐに外に出るんだ。私はともかく、きみはおぼれ死ぬぞ」
「もう間に合わないんじゃないかな。こまったね」
「ええい、もしかして最初からこのつもりだったのか。ひどいやつだな、きみは」
学校は毒づきながらぶるりと身をふるわせた。少年の体にエレベーターに乗ったときのような重力がかかり、地下室の天井が近づいてくる。頭突きならぬ屋上突きをかまして天井を押しひらき、学校は少年ごと土砂降りの雨の中に躍り出た。そこは学校の近くの森林公園だった。
「私の負けだ。敷地にもどるとしよう」
学校は道路に出ると、車の群れを荒々しくかきわけて歩いてゆく。少年はベンチにすわっていっしょに運ばれながら、「ごめんね」と小さくつぶやいた。
今回のイメージ元は、『スーパーマリオカート』(任天堂、1992年)から、
「ノコノコビーチ」(作曲者不明)です。




