066:湿原の老兵
敵はきっと夜襲をかけてくる、と年老いた男は考え、夜が更けるとこっそりと村を抜け出した。背にはぱんぱんにふくらんだ重そうな雑嚢を担いでいる。
男は大小さまざまな沼の入り組んだ湿原の中を歩いていった。月のない真っ暗な夜だったが、男にとっては通い慣れた道であり、足を踏み外して沼に落ちるようなことはなかった。
村からじゅうぶん離れたところで男は雑嚢をおろしてひと休みした。このあたりには乾いてしっかりした地面がひろがっているが、生い茂った草の丈が高く、見通しはきかない。
すぐ近くで、ぱしゃり、と水をたたく音がした。魚が飛び跳ねたのだろうか。いや、そうではなかった。真っ暗な沈黙のなかで男はふりむきもせずに言う。
「隠れていないで出てきな」
ひとむらの草がぎくりと揺れた。つかのまの息詰まる静けさのすえに草を分けて這い出てきたのは、村に住む少年だった。子供とはいえ、うろこに覆われたその体は人間である男よりすでにひとまわり大きい。泥水の中を泳いできたのか、鼻づらから尻尾の先までずぶぬれだった。
少年はゴロゴロした声でたずねた。
「師匠、なんでこんな夜中にこっそり出て行くんだよ」
「いつどこに行こうがわしの勝手だ」
男は発音に苦労しながら答える。この村にやってきて十年以上もたち、言葉を聞き取るのにはすっかり慣れたが、人間の口と喉ではどうしても出せないような音があるため、しゃべるのはいまだに苦手だった。
男の逃げ口上に、もちろん少年が納得できるわけがなかった。
「長老たちが話してた。人間の国の軍隊が攻めてくるって。大人はみんなどんなふうに戦うか相談してたのに、師匠は一人だけ逃げだそうっていうのか」
「夜中にほっつき歩いてると風邪をひくぞ。子供はさっさと家に帰れ」
「答えろ、師匠! その袋は何だよ。宝物でも盗み出して逃げるつもりか」
男は左手で雑嚢を拾い上げようとしていた。左手は不自由なのか、背をこごめ体を傾けて、無理な姿勢になって持ち上げる。そのとき、村とは反対の方角からなまぬるい風とともにかすかなどよめきが伝わってきた。男の背すじがぎくりと震え、はずみに雑嚢を取り落として、握りこぶしほどの大きさの丸いものがいくつか地面に転がり出た。
「えっ、これ……」
少年はそれを拾い、あげかけた声をのみこんだ。男は顔を上げて、闇のむこう、風の吹いてきた方角をにらみつけた。右手に巻きつけてあった革紐をくるくるとほどく。不器用な左手で雑嚢から中身をひとつ取り出して、革紐にあてがった。そう、この革紐は石投げだ。片方の端を右の手首に結わえもう片方の端を右手で持って、紐の中央に石をはさんで体の横で振り回して紐の端を放せば、勢いのついた石がそのまま飛んでゆくというしろもの。
「師匠、いったいこれはどういう……」
「敵襲だ。死にたくなければ、すぐに泳いで村に戻れ」
少年は言いつけに従わず、雑嚢をのぞきこんだ。中に詰まっているのは村の裏手の林で採れる木の実。食べることはできないが、硬くて重くて両端がほどよくとがっているので、石の少ないこの沼地では石投げの弾としてもっぱら用いられている。
「師匠、もしかして一人で戦うつもりで……?」
「これはわしのいくさだ」
男はくるくると回してぱっと放す。風を切る音が闇の中を遠ざかってゆき、鈍い悲鳴がひとつ上がった。まちがいなく人間の声だ。あっちだ、あっちにいるぞ、と怒鳴る声につづいて、びいん、びいん、とあたりによく響く音がした。つぎの瞬間なにか細いものが何本も、ものすごい速さで男と少年のまわりに飛んでくる。男はその方向へむかってさらにもうひとつ木の実を投げ込み、くるりと向きを変えると雑嚢をひっつかんで走り出した。少年も四つん這いになり、尻尾を揺らして後を追う。
「わしのいくさって、どういうことだよ、師匠」
「わしがどうしてこの村へやってきたか、聞いているか」
走って、投げて、反撃がくるとまた場所を変えて投げる。村への夜襲を意図して接近していた敵軍は、逆に暗闇の中から襲いかかってくる弾にさんざんに打ち倒された。男のほうも敵の姿は見えていないが、なにしろ敵が大勢なので、気配のするほうに適当に投げれば当たるのだった。
「わしは人間の国で投石兵をしていた。ところが、弓矢というものが伝わってきて、投石兵はみな石投げをやめて弓を使わされることになってな。さっきから何かをはじくような音がしているだろう。あれが弓というものだ。弓をたわめて、それが戻るときの勢いで矢をはなっているのだ。そら、きた」
例の細いものが二人のそばを飛んでいった。しかし最初はいくつか聞こえていた弓の音もいまではひとつだけだ。弓の使い手が一人をのこしてみな男の投げた弾で倒されてしまったのだろう。
男はなめらかな動きで木の実を放ち、つがえ、また放つ。そして走る。
「だがわしは、昔けがをしたせいで左の腕をまっすぐ伸ばすことができん。この腕では弓を扱うことができなんだ。それでお払い箱になってここに流れてきて、あとは知ってのとおり、狩りを手伝ったり、おまえたちに石投げを教えたりして暮らしているというわけだ」
そこまで話して、男は舌打ちした。さっきまでは一カ所にかたまっていた敵の気配が、いつのまにか薄く広くひろがっている。敵もさるもの、数を生かして男の逃げ道に先回りし、取り囲みつつあるのだった。四方八方からいっせいに襲いかかられては、男はひとたまりもあるまい。だがそのとき、少年がぴょんと二本の足で立ち上がるや両腕に巻きつけてあった革紐をくるくるとほどいた。
「なあんだ、そういうことだったのか。水くさいぜ、師匠」
長い尻尾で男の雑嚢から木の実をつかみ出して右手と左手の石投げに交互にはさみながら、少年は明るい声で言う。
「師匠のいくさは弟子のいくさだ。ちがうかい」
男はあきれていたが、やがてぼそりと、勝手にしろ、とつぶやいて石投げを構えた。
暗がりの中を進んできた人間の兵士たちは、たった二人の敵が都合三つの石投げでひっきりなしに投げつけてくる木の実のために、近づくこともできなかった。
今回イメージした曲は、『マドゥーラの翼』(サンソフト、1986年)から、
「地上BGM」(小高直樹作曲)です。




