061:糸電話
午後からのシフトだったので、家を出たのは日が高くなったころだった。すでに通勤通学の時間帯は過ぎ、往来に人影はまばらだった。だから、その瞬間を目撃したのはぼくだけだったと思う。
重い足どりでバス停へ向かうぼくの目の前に、何かがぬっと現れたのだ。のみならずそれはしゃべった。
「あー、もしもし。聞こえますか。聞こえたら返事してちょうだい」
それは紙コップだった。コップの底に一本の糸がくっつけてあり、その糸で空中にぶらさがっている。そう、糸電話だ。しかしどこから吊り下げているのか。上を見上げてたどったが、白い糸は雲ひとつない青い空へと伸びており、反対側の端がどこにあるのかは見定められなかった。
けれども、かえって納得が行った。ぼくは紙コップを手にとり、応答した。
「もしもし、聞こえてます。もしかして、お姉さんですか?」
「正解! よくわかったね、ずいぶんひさしぶりなのに」
それはそうだ。空の上から糸電話で連絡をしてきそうな相手にはほかに心当たりがない。
「亡くなったって聞いて、ずいぶん悲しかったですよ」
「うん、ごめんね。わたしもべつに死にたかったわけじゃないんだけどね。まあ、なりゆきで。ほんとごめんね」
「いや、いいですよ。昔のことですし」
「そうだね。きみもすっかり大人になったね。三十年近くたつんだものね」
それはぼくがまだ小学校に入っていなかったころのこと。そのころぼくの家はあるアパートの一階に住んでいた。そして、同じアパートの二階にこのお姉さんの一家が入っていた。正確な歳はおぼえていないが、当時お姉さんは小学校の高学年ぐらいだったと思う。
ぼくはお姉さんになついて、よく遊んでもらっていた。そして、ぼくらのお気に入りの遊びが糸電話だった。アパートの外階段の上から糸電話を吊り下げて、一階と二階にわかれておしゃべりをするのだ。「こんにちは」「こんにちは。こっちはいま雨が降ってます。そっちのお天気はどうですか」「こちらはよく晴れています。今日は給食でプリンが出ました。きみはプリンは好き?」……そんな益体もない話を何時間もしたものだ。
だがぼくが小学生になる前にお姉さんは亡くなった。アパートには連日大きなテレビカメラを持った人たちが押しかけた。ほどなくお姉さんの一家はどこかに引っ越してゆき、それっきりだった。
「ところで、今日はどうしたんです? いきなり糸電話なんか持ち出してきて、何か用事でも?」
ぼくはたずねる。いまは通勤の途中なのだ。余裕をもって家を出たとはいえ、あまり長話をしているわけにもいかない。
お姉さんは生きていたころそのままの無邪気な調子で答えた。
「あ、そうそう。えっとね、ちょっとその紙コップ、しっかり持っててくれない?」
「どういうことですか?」
「いいからいいから。それ見た目よりずっと丈夫だから、力いっぱい握りしめても壊れないよ。とにかく手を離さないようにして」
なんだかいやな予感がした。トラブルの多い職場に長年勤めていると、この手の勘は異常に発達するものなのだ。お断りしたいところだったがお姉さんは早く早くとせっつき、ぼくはしかたなく握りつぶさんばかりの力で紙コップをつかんだ。お姉さんの言葉どおり、それはまるで鉄でできているかのようにびくともしなかった。
「しっかり持ちました。雷が鳴っても離しませんよ」
「ふふ。じゃあいくよ」
足が宙に浮いた。糸電話が上へと引っぱり上げられたのだ。ぼくはあわてて紙コップにしがみつく。手を離して地面に戻るべきだと気がついたときには、すでに電線よりも高く釣り上げられていた。もはや飛び下りるすべはない。
「ちょっと、なんですかこれ! 下ろしてください!」
たまたま通りかかった主婦や庭の掃除をしていたお年寄りがぼくのわめき声を聞きつけて空を見上げ、目をまるくして携帯電話のカメラを向けてきたりした。紙コップからはお姉さんののんびりした声。
「わたしはきみのことをずっと見てたよ。それでね、お仕事もきつくてかわいそうだし、こっちに呼んであげたほうがいいかなと思ってね」
「それはどうも。でもお気遣いなく願います」
やりとりをするあいだにも糸電話はどんどん上昇していった。すでに二階の屋根さえはるか下だ。
「だって、こっちから見てるとよくわかるんだよ。これからずっとがんばってたくさん苦労しても、きみはたいして報われないよ。それを見ていたくないっていうのはわたしのわがままかもしれ」
お姉さんの言葉はそこで途切れた。ぼくが糸を揺らしたからだ。いまぼくの斜め下に、高さ三十メートルかそこらの杉の木の梢が並んでいる。糸を揺らして勢いをつけ、杉の木のうち一本に狙いをさだめて、ぼくは空中ブランコよろしく飛んだ。
お姉さんに教えてもらうまでもない。この先いつまでも苦労ばかりつづくだろうというのは、とっくにわかっている。それでも、我慢がすりきれてなくなるまで、ぼくは今の場所にとどまるだろう。
杉の木がぐんぐん近づいてくる。ぼくは情けない悲鳴をあげながら、激突にそなえて身構える。
今回のイメージ元の曲は、『ICO』(ソニー・コンピュータエンタテインメント、2001年)から、
「ICO -You were there-」(大島ミチル作曲)です。




