055:森の魔女
その日、あたしは先生の家に住むようになってから初めておつかいに行きました。行き先は近所のコンビニで、買うのはお米とお醤油、それからちょっとした下着類などです。先生の家では野菜や果物は自給できますが、さすがに田んぼはありませんし、調味料のたぐいも作っていません。「作れるけど、めんどうだからね」と先生は笑っていました。これは秘密ですが、先生は自分の晩酌用にお酒を密造しているほどですから、実際お醤油ぐらいは作ることができると思います。秘密ついでにもうひとつ打ち明けますと、その晩酌はあたしもご相伴させてもらっています。いえ、そんなにたくさんではありません。ほんのちょっと味見するぐらいの量です。ほんとです。
コンビニで目的の品を買って、帰る途中のことでした。両側に民家が立ち並ぶ道で、あたしの横に急に一台の自動車が止まり、運転席から人が下りてきました。車を見た瞬間にそれが誰なのかわかっていましたから、あたしは無視して歩きつづけましたが、その人物はあたしに追いついて肩をつかみ、むりやり引きとめて振り向かせました。週二回のスポーツジム通いのおかげか、この人は細身に見えて相当な力があるのです。
「気づいてるんでしょう。無視しないでちょうだい」
あたしはしぶしぶ相手の顔を見ました。前に会ったのは先週、先生のところをたずねてきたときでした。そのときと変わらず年齢不相応に若々しくて美人です。
「待ち伏せでもしてたの?」
「ずいぶんなご挨拶ね。偶然とおりかかっただけよ。そんなうすよごれた服を着てるから、一瞬だれだかわからなかったわ」
あたしは自分の服装をたしかめました。チェック柄のシャツにジーンズという格好で、すこし着古してはいますが、きちんと洗濯してあります。べつにきたなくはありません。でも、そう、古くて色落ちしていたりすると、この人の目にはうすよごれたというふうに見えてしまうのでした。アイロンをかけていないところも減点対象でしょう。
あたしが不満な顔をしていると、その人は表情を崩してあたしの頭をなでました。
「でも元気そうでよかった」
「あたしのこと、心配してたの?」
あたしはつい釣り込まれて聞きました。その人は強くうなずきました。
「心配にきまってるじゃない。自分の子供が心配じゃない親はいません」
その言葉を疑うことは、あたしにはできませんでした。あまりにまっすぐで、真実の力がこもっていたから。あたしがだまっていると、その人はさらに言いました。
「ねえ、ほんとうにもうやめてちょうだい、あんな廃屋みたいなところで暮らすのは。どんな病気になるか、わかったものじゃないわ。わたし、心配で心配で」
ああ、とあたしは小さく息をつきました。この人は本当にあたしのことを大切に思っていてくれてる。けれどやっぱり、あたしはこの人といっしょに暮らすことはできないんだ。
先生の家は昭和の中ごろに造成された住宅街の一角にあります。戸建ての民家が立ち並ぶなかに、ちょっとした密林とでも言いたくなるような鬱蒼とした緑があって、その奥に立っている古い木造の平屋が先生の家です。木々が繁っているせいで表からは建物は見えませんし、ちょっと理由があって先生はめったに外出しませんので、近所の人のほとんどはただの林だと思っているのではないでしょうか。あの人は廃屋などといいましたが、それはまがりなりにも先生の家にきたことがあるからです。
あたしが偶然この家の門をくぐって先生と知り合ったいきさつは別のお話になりますので省きますが、ともかくあたしはしばらく前からほとんど家出同然に先生の家に住みついていました。そしてあの人は、あたしに家に帰って学校にもちゃんと通うようにと説得するために先生の家を訪れています。そのときの先生との会談は、とても友好的とは言えない雰囲気のものでした。
「ほんとに、あんなところで暮らすなんて冗談じゃない。わたしはこないだ行ったとき、心の底からぞっとしたわ」
先生の家を訪れたときのことを思い出したのか、すごい勢いで身ぶるいしています。気持ちはわからないでもありません。なにしろ先生は、客をもてなすには家のなかで一番いい場所に通すべきだという理屈で、この人を庭のなかのベンチにすわらせたのです。先生の考えでは、あの家で一番いい場所はそこなのです。まわりは木や草がたくさん生えていて気持ちが落ち着くし、いろいろな虫や鳥も来てにぎやかです。けれども、潔癖症で虫ぎらいでおまけに花粉症持ちのこの人にとってはほとんど地獄だったでしょう。
「ねえ、聞いてる? 今ならまだ出席日数もまにあうし、勉強の遅れも取り戻せるわ。さあ、車に乗って。うちに帰りましょう、いますぐ」
そう言って腕をぐいぐい引っぱってきますが、あたしは動きませんでした。この人のことが嫌いなわけではありません。こんな人ですが、良識があって誠実なことは確かですし、あたしのことを真剣に考えてくれているのもよくわかっています。ただ、学校はなんだか窮屈で、自宅はそれ以上に息がつまりそうなのです。
あたしがだまったまま足を踏んばって立っていると、あの人はあたしを引っぱるのをやめて腰に手をあてました。あきらめたのでしょうか。いいえ。まがりなりにも十数年間いっしょに暮らしてきたのです。そう簡単にひっこむ人でないことはよく知っています。なにより、これから切り札を出すぞという雰囲気をびりびりはなっているではないですか。案の定、あの人は言いました。
「あまりおおごとにしたくなかったのだけれど、あなたがそういう態度ではいよいよ警察に相談するしかないわね。不審者が娘をかどわかして監禁しているって」
「なにそれ。だいたいあたしはこうして外出してるじゃない。どこが監禁なの」
「嘘も方便よ。正直はたっといと思うけれど、わたしは子供を守るためなら迷わず嘘をつくわ」
あたしは進退きわまりました。公平に見て、この人と先生のどちらに社会的信用があるかといえば、断然この人のほうです。あんな家に住んでいる先生は、たいていの人からは怪しいと思われるでしょう。そして、警察がほんとうに先生の家を調べたりしたら、そう、あるのです、押しも押されもせぬ犯罪の証拠が。つまり密造酒が。
あたしの意思がぐらつくのを見てとって、あの人は車の後ろのドアをあけました。あたしはふらふらとそちらに向かいます。そしてはたと足を止めました。あの人が不自然に目を細め、鼻にしわを寄せてきれぎれに息を吸っています。
「は、は、はくしょん!」
スーツのポケットからハンカチを出して鼻をおさえ、あの人はきょろきょろとあたりを見回しました。
「ああもう! 近くに何か生えてるのかしら。こんなところでいつまでも立ち話してはいられないわ。はやく車に乗りなさい」
あたしは返事もせずに道の先を見ていました。あの人もそちらを振り向いて、目をまるくしました。先生がゆっくり歩いてくるところでした。後ろに森を引き連れて。
「なんなのあれ。森が歩いてくるなんて、そんなことあるはずが!」
あの人がそう口走ったのも無理からぬことでしょう。先生の歩みにあわせて、近くのアスファルトの割れ目から草花が芽吹き、まわりの家の庭の木々が喜びくるったかのように枝葉をぐんぐん伸ばしています。一本一本の草木はその場で育っているだけですが、全体を見ればその様子はまさに森が歩いてくるというのにふさわしいものでした。野暮ったい黒のワンピースを着ているせいもあって、そのとき先生の姿はまるで魔女のようでした。
これが先生が自宅に引きこもって暮らしている理由です。先生のまわりではありとあらゆる植物が常軌を逸した速さで育つのです。
あたしの前まで歩いてくると、先生はぼそぼそした声で言いました。
「迎えに来たよ。わたしたちの家に帰るとしよう」
「はい!」
あたしはお米とお醤油の入った袋を抱えなおして先生に歩み寄りましたが、あの人がまたしても肩をつかみました。
「あんなところに戻ってはだめよ。もっときちんとした……くしょん! はくしょん!」
ハンカチでくしゃみを抑え込もうとしているあの人に、先生が告げます。
「この子の心のなかには森がある。深く暗い森が。切りひらかずに、そっとしておきなさい」
「それは甘えよ」
あの人はどうにかそれだけ言い返しますが、くしゃみがひどくなって、もはやあたしを引き止めることはできません。先生もそれ以上は口をひらかずにきびすを返しました。あたしは先生のとなりに並びました。
「先生、ありがとうございます」
先生はほほえみました。そして、あたしたちは森の中の道をとおって家へと帰ってゆきました。
今回イメージした曲は、『英雄伝説 空の軌跡FC』(日本ファルコム、2004年)から、
「Sophisticated Fight」(Falcom Sound Team jdk作曲)です。




