053:怒りの炎
日曜日の市民センターはにぎわっていた。センターの中には市民図書館が入っているほか、催事用のギャラリーでは生け花教室の展示会が、ホールでは近隣の中学校の合唱部の合同発表会がおこなわれており、玄関ロビーはひとけが絶えない。
「気をつけろよ。そこ段差あるぞ」
「うん」
若い夫婦が図書館からロビーに出てきた。女のほうは臨月を迎えており、腹が大きい。男は妻に寄り添ってゆっくりと正面玄関に向かい、ふと足を止めた。
チョコレートのにおい。
「あ、そのチョコ最近テレビで宣伝してるやつでしょ」
「うん。うちのそばのコンビニで売ってた。食べる?」
「食べる食べる」
玄関のわきに椅子をいくつか置いた休憩所があって、そこで中学生の少女が二人おしゃべりをしていた。この二人は友人が合唱の発表会に出るので見物にきたのだが、早く着きすぎてしまってロビーで時間をつぶしていたのだった。
男の胸のなかに火がつき、体を内側から焼いた。妻のそばを離れてつかつかと少女たちに歩み寄る。
「きみたち、それをしまいなさい。ここは飲食禁止だ」
見知らぬ男からのいきなりの命令に、少女たちはぽかんとした。その一人、おさげ髪の少女があたふたと菓子をかばんにしまいながら口をひらいた。
「す、すみませ……」
もう一人の少女がそれをさえぎって立ち上がった。こちらは髪をベリーショートにしており、きつい目つきと相まって戦闘的な印象がある。
「飲食禁止なんて決まりないですよね。ほら、そこに自販機もあるし」
少女の言うとおり、休憩所の壁際には自販機が立ち並んでいる。男はつかのま口ごもり、大声を出した。
「屁理屈を言うな! 公共の場でものを食わないのは常識だ!」
「どこの常識ですか。かってに新しい常識つくらないでください」
少女はあくまで冷たく言い返した。なんとなまいきなガキだ、と男は思う。公共の空間でチョコレートのにおいをふんぷんと垂れ流しておいてこの言いぐさ。無責任な子供の物言いにほかならない。
男は自分のうしろにいる身重の妻を思った。大人の男として、妻とその腹の中の子供を守らねばならない。いつかのようなふがいないざまをさらすわけにはいかないのだ。
その事件は半年ほど前に起こった。その日、妻が病院で健診を受けることになっており、車で送っていくために男は仕事の予定をやりくりして半日の休みをとった。ところが車に乗ってまもなく、妻はチョコレートのにおいがして気持ちが悪いと言い出し、すぐ降りてしまった。たしかに前の日に同僚が車の中でチョコレートを食べており、そのにおいが残っていた。それにしてもそんなに気にするほどのにおいじゃないだろうと男は言い、あんたにつわりの苦しさがわかるかと妻は言う。無意味な口論をしばし繰り広げたすえに妻はタクシーで病院に行ってしまい、男はもやもやした気持ちをくすぶらせたまま取り残されたのだった。
もっとも、妻がいやがったのは狭い車のなかに食べ物のにおいが充満していたことであり、チョコレートがことさら苦手だったわけではない。また、半年たったいまでは、つわりはすっかりおさまっている。しかし男はそういったことはよくわかっていなかった。とにかくチョコレートはいかん、というのが男の理解である。
あのときから胸のなかでくすぶっていた火種が、いま一気に燃え上がった。男はその熱に突き動かされたかのように手をのばす。その先にいるのはおさげ髪のほうの少女だ。もはや言い合いではらちが明かないと見て、腕づくでチョコレートを奪いとって処分する腹である。
「何するんですか」
ショートカットの少女がその手をはらいのけた。少女の手は話しぶり同様に冷たく、男は一瞬ひるむ。それから猛烈にいきどおった。胸のなかで燃えさかっていた炎が行き場を求めて渦巻き、体じゅうからどっと噴き出した。離れたところに立っていた妻が「あちゃー」とつぶやいたが、そんなことはもはや男の知ったことではない。炎につつまれた拳を怒りにまかせて目の前の少女にたたきつけた。
轟音があがり、あたりに霧が出た。少女は分厚い氷で全身をよろい、燃える拳を手で受け止めて平然としていた。
「いい年をして自制心ってものがないんですね」
「子供だからって迷惑行為を口先でごまかせると思うなよ」
男は右、左と炎の拳を繰り出し、少女はそれを氷の手で受け止める。二人の足元の床には水たまりができ、ロビーを埋めつくす霧で煙感知機が誤作動して非常ベルが鳴りだした。
居合わせた人々がおどろきうろたえ、図書館やホールからも人がわらわら出てくる。そんな騒ぎのなかで、男の耳がある言葉をとらえた。
「えっ、陣痛ですか?」
はっとして振り返ると妻がうずくまっており、そのそばでおさげ髪の少女がおろおろしている。男はあわてて駆け寄った。妻はよいしょと立ち上がると、いきなり男の顔面をわしづかみにした。男は悲鳴をあげた。
「ごめんね、小芝居に付き合わせちゃって」
男にアイアンクローをかけつつ、妻は少女に謝っている。男の気をそらすための仮病ならぬ仮陣痛だったらしい。いまさらながら、男はいつのまにか自分の体から出ていた炎がおさまっていることに気づいた。
男と二人の少女は水びたしになったロビーの床の後始末をさせられるはめになった。あのあと駆けつけてきた市民センターの職員に女は謝罪し、夫に掃除させることを申し出たのだ。
「なんであたしらまでやらされなきゃならないのよ。ねえ」
床をモップがけしながら、ショートカットの少女はぼやいた。おさげ髪の友人は力なく笑った。
「しょうがないよ。騒ぎを起こしちゃったんだもの」
「悪いのは百パーセントあっちでしょうが」
少女たちのほうはというと、学校の合唱部の引率にきていた教師に見つかり、これまた掃除を命じられたのだった。ショートカットの少女にしてみればさきほどの一件はいちゃもんをつけられて正当防衛をしただけであり、自分たちがとがめられるのは理屈にあわなかった。怒りながらモップを動かしていると、友人がくんくんと鼻を鳴らした。
「なんかこげくさくない?」
「あ」
見れば、自分の手から火が出てモップの柄をあぶっていた。少女はあわてて深呼吸をして気をしずめた。
今回イメージした曲は、『デュープリズム』(スクウェア、1999年)から、
「最後の戦い2」(仲野順也作曲)です。




