052:おそはや!
少し急ぎすぎたらしく、少女はその日あやうく学校に遅刻するところだった。同じく遅刻すれすれだった男子生徒二人が廊下を走ってゆくので、そのあとについて歩いていると、運悪く担任の教師が通りかかった。
「おい、おまえたち、廊下を走るな!」
「わっ、すみませーん!」
男子生徒たちはあわてて競歩のような早歩きに切り替える。教師は少女にも注意した。
「おまえは廊下を歩くな。危ないだろう」
「はい、気をつけます」
少女は答えて短距離走よろしくダッシュした。教師の前を通りすぎるとき、そのとなりに見たことのない女子生徒がいるのを見つけた。全力疾走しながら少女はしげしげとその眼鏡をかけた女子生徒を観察する。制服も学校指定の上履きもおろしたてのようにまあたらしい。もしかして転校生だろうか。
「こんなふうに遅刻ぎりぎりにならないよう、いつももっと余裕をもって行動するように。走っていて……じゃない、歩いていて誰かにぶつかってけがをさせたりしたらどうするんだ。わかったか」
この教師はとにかく話が長い。少女は神妙に返事した。
「はい」
教師はうなずくともう行くようにとうながし、少女は走る足をゆるめて一気に駆け去った。眼鏡の女子生徒は目をまるくしてそれを見送った。
自分の席に着いてしばらくすると、担任の教師がさきほどの女子生徒をともなって教室に入ってきた。クラス全員の注目のなかで、その生徒は転校生として紹介され、うつむきがちにもごもごとあいさつらしきものを述べた。顔立ちがさして美人ではなかったので男子どもの興味はすでにあらかた失せていたが、このぱっとしない自己紹介のおかげで女子からも関心を寄せられることはなくなった。
「みんな仲良くしてやってくれ。席はあそこだ」
そう言って教師が示したのは教室のいちばん後ろ、少女のとなりに運ばれてきていた、きのうまではなかった机である。
「よ、よろしく」
「こちらこそ」
おどおどと席につく転校生の眼鏡に目をとめて、少女はたずねた。
「目がわるいの? ちゃんと黒板みえる?」
「だ、だいじょうぶ。なんとか見えるから」
「教科書とかもうあるの? 見せてあげようか?」
「ありがとう、でもだいじょうぶ」
転校生は一時間めの授業にそなえて教科書を机の上に出した。転校してきたばかりでなにかと大変なのではないかと思ったけれど、特に問題はないようだ。もうこれ以上かかわらないようにしよう。そんなことをぼんやり考えていると、向こうから話しかけてきた。
「あ、あの」
「なに?」
「あの、先生から聞いたんだけど、その、……病気なんだって?」
どのように答えたらよいか、つかのま考えをめぐらせた。相手はその沈黙を悪い方向に受け取って、あわてて言葉を継いだ。
「あっ、ご、ごめん、無神経だったよね。いまの質問はなしで」
「いいよ、べつに。隠すようなことでもないしね」
この子はいい子だ、と少女は思った。はきはきしてはいないが、思いやりというものを持っている。だから、すこし突き放すことにした。
病名は「緩急逆転症」という。世界中でも数例しか報告されておらず、治療法はまだない。命に直接かかわるわけではないが、生活にはかなりの不便を強いられる病気である。
原因は不明。ある日突然発症し、罹患した者は歩く速さと走る速さが反比例するようになるという独特の症状を呈する。この少女の場合、うんとゆっくり歩けば百メートル十一秒を切り、全速力で走れば赤ん坊のはいはいといい勝負ができる。
少女が発症したのは一年ほどまえだが、慣れるまでは生傷が絶えなかった。窓をあけに行こうとして窓ガラスにつっこむ。階段を下りようとしてダイビングしてしまう。つまるところちょっとの距離でも、いや、ちょっとの距離であればなおさら全速力で走らなくてはならないのだ。
「たいへんなんだね」
しみじみとうなずく転校生に、少女はひややかに告げた。
「同情はいらないよ。売るほどあるからね」
「えっ……」
「だからあたしのことはほうっておいて」
転校生は何か言い返そうとしたが、折りよく一時間めの授業の教師が教室に入ってきて、話はおしまいになった。そしてそのあと、少女は転校生と一切かかわりを持たなかった。学校の案内などはほかのクラスメートにまかせ、教室移動やトイレもいっしょに行かなかった。その日の授業がすべて終わるとさっさと荷物をまとめ、つとめてゆっくり歩いて教室を出た。
「まってー。ねえ、ちょっとまって」
それなのに、なぜこの転校生は自分を追いかけてきたのだろう。少女は大いに困惑して立ち止まった。かなりゆっくり歩いてきたのに、転校生はそれこそ教師に見つかったら大目玉を食いかねない速さで廊下を走ってこちらを追いかけ、校門を出たところでとうとう追いついたのだった。
転校生は膝に手をついて呼吸を整えながら言う。
「帰り道、こっちなの? いっしょに帰らない?」
「だめだよ」
この際はっきり言うしかないと少女は考えた。みじめな気持ちになるので言いたくなかったのだが、やむをえまい。
「あたしはほかの人といっしょに歩けないんだ。あたしが歩いたらほかの人を置き去りにしてしまう。今だってあたしはゆっくり歩いてたのに、そんなに息をきらすほど走らないと追いつけなかったでしょ。逆にほかの人が歩くのに合わせてあたしが走ってもいいけど、どっちみちそんなの長続きしない」
それは少女がこの一年で学んだことだった。人は自分と相手の足並みがそろっていないといっしょに行動できない。ゆっくり歩いている人と全力疾走している人が和気藹々とおしゃべりしながらいっしょに通学する、などという芸当はできやしないのだ。
「だから、あたしにかかわらないで」
転校生はおずおずと口をひらいた。
「でもそれなら……」
「それなら何?」
「二人とも中ぐらいの速さで走ったらいいんじゃない? ジョギングみたいな感じで」
少女はおどろいて言葉に詰まった。自分は急げば急ぐほど遅くなり、ほかの人間は急げば急ぐほど速くなる。それなら両者の感覚が釣り合うぐらいの速さで走ればいい。そんなことはいままで考えもしなかった。
「でもそれだって結局無理があると思う。どっちかが疲れてペースを落としたら、もう一方はスピードを上げないと足並みをそろえられないよ」
「だいじょうぶ。疲れたら二人でいっしょに休んだらいいんだよ」
転校生はわざとらしく膝の屈伸運動をはじめた。
「それにわたし、こう見えてもけっこう体力あるよ。走るのもわりと得意だし」
「それをいうならあたしだって、体力はついてるよ。必要にせまられて毎日走ってるからね!」
二人は顔を見合わせてどちらからともなく笑い声をこぼすと、同時に駆けだした。
今回イメージした曲は、『初音ミク -Project DIVA- 2nd』(セガ、2010年)より、
「カラフル×メロディ」(doriko作曲、OSTER project編曲)です。




