035:弱い翼
その朝、目が覚めると背中に翼が生えていた。
慣れない翼に苦労しながら着替えをして居間に行くと、食事をしていた両親がテレビのニュースを見るのをやめて振り返った。
「おや、やっと生えたのか」
「うん」
軽く翼をひろげてはばたいてみせると、食事中にほこりを立てないでと母に叱られた。それから、母は首をかしげる。
「でもその翼、すこし小さくないかしら」
「そうかな」
父も言った。
「言われてみれば小さいかもしれんね。ちょっと伸ばしてみろ」
「ほらね、ぎりぎり股下までしかないじゃない。ふつうは短くても膝ぐらいまではくるものなのだけれど」
母は医師だ。その母が言うのだから、そうなのだろう。
「ちゃんと飛べるのかね、それで」
「さあ、飛んでみないことにはわからないわね。そんなことより早くごはん食べなさい。学校に遅れるわよ」
食事をすませ、通学かばんを持って家を出る。空には通勤通学の人々が行き交っていた。
「それじゃ、お先に」
いっしょに家を出た父が、翼を大きくひろげてはばたき、地面を蹴った。一瞬にして飛び上がり、ほかの人をよけながら高度を上げてゆく。父の勤める役所は遠いので、飛ぶ人の少ない高さまで上がってスピードを出すつもりなのだろう。
「さて」
おもむろに翼をひろげる。生えたばかりではあるけれど、使いかたは体が知っていた。父がしていたのと同じようにはばたいて地面を蹴る。ふわりと体が浮いた気がしたが、すぐ地面に戻った。もうちょっと強くはばたかないとだめなのか。ふたたびはばたいて地面を蹴る。さきほどよりは少し長く体が浮いた。が、やはりすぐに地面に戻ってしまう。
くすくすと笑う声がした。そちらに顔を向けると、まだ翼の生えていない小学生が二人、さっと目をそらして足早に通りすぎた。
「だめだよ、あんなにじろじろ見ちゃ」
「だって、あれ高校生だぜ。高校生にもなってうまく飛べないのって、おかしくないか?」
口の悪い子供たちだ。だが、べつに気にはならなかった。高校生にもなって、と言われるのは慣れっこだった。
たとえば、高校生にもなってまだ翼が生えていないなんて、とか。
中学二年のときにはすでに、学年で翼が生えていないのは一人だけだった。高校に入ると学校で一人だけだった。空を飛ぶことが必要な行事はいつも見学だった。病院に連れて行かれて検査も受けた。異常なしという診断だった。生えてくる時期には個人差があります、少し遅いのは確かですが、落ち着いて様子を見ましょう、と担当の医師は言った。
なるほど、遅くはあったがちゃんと生えてきた。だが、飛べないのでは生えても意味がない。ためいきをついて気持ちを切り替えた。しかたない、今までどおり歩いて学校に行こう。
そのとき、母が玄関を出てきた。戸締まりをしながら聞いてくる。
「どうしたの、そんな顔をして」
「うん。ちょっと、うまく飛べなくて」
「そう」
母が考えこむ様子を見せたので、急いで言葉をつづけた。
「ううん、いいんだ。歩いていくから。だいじょうぶ、いままでと同じ」
母は言った。
「今日は土曜日ね。帰りはお昼?」
「え? うん」
「じゃあ、行きは歩きでいいから、帰りは飛んでいらっしゃい」
それは飛べるようになるまで帰ってくるなということだろうか。母は翼をひろげて飛び立ち、ぽつりと言い残す。
「今日はいい天気になるって、さっき予報で言ってたわ」
母の後ろ姿を見送りながら、なにが言いたいのだろうとしばし考えに沈み、われに返ってあわてて走り出した。ゆっくりしていると遅刻してしまう。
学校では教師やクラスメートから翼が生えたことのお祝いを言われ、初めて飛んだ気分はどうだったと聞かれたが、うまく飛べなかったと答えると気まずい顔でそそくさと会話を打ち切られた。
クラスメートたちの翼をそれとなく観察してみたところ、たしかにみんな膝か足首ぐらいまでの大きさはあるようだ。大きい人だと、地面につくほどだったりする。
土曜日なので、授業は午前中で終わった。昇降口を出ると、先に出て行った生徒たちがつぎつぎに空に飛びあがってゆくところだった。空は雲ひとつなく晴れわたり、あたりは汗ばむほどの暖かさだ。
こんな天気の日に空が飛べたら、さぞかし気持ちいいだろう。
ぼんやりとそう思い、何かにさそわれるように翼をひろげた。軽くはばたいて地面を蹴ってみる。そんなに強くはばたいたわけではない。なのに、ふわりと体が浮いて、びっくりしてはばたくのをやめるとやっと地面に戻った。朝とは何かが違っていた。
突っ立ったまましばらく考えて、ようやく答えにたどりついた。この陽気で地面があたたまる。地面があたたまると、地面の近くの空気もあたたまる。あたたまった空気は軽くなって上へのぼってゆく。その上向きの風に乗ることができたのだ。
飛べるかもしれない。心臓がどきどきするのを感じながら、もういちどやってみた。翼をおもいきりはばたいて、力いっぱい地面を蹴る。体が浮いた。はばたく。はばたく。落ちない。
飛んでいる。
地平線がぐんぐん下がり、空がぐんぐん広がってゆく。地面が、昨日までの世界のすべてが、びっくりするほど小さい。
何十メートルかのぼると空気の動きが落ち着いてきた。ほかの人たちはまだまだ上がってゆくけれども、それについていくことができなくなった。翼が小さいせいだ。見上げれば、たくさんの人たちが空のずっと高いところを思い思いに飛んでいるが、この翼ではあんなところまでは行けないだろう。
それでも、と思う。家をめざして一心不乱に飛びながら。
小さくても、高く飛べなくても、これはわたしの。
わたしの翼だ。
今回イメージした曲は、『ポポロクロイス物語II』(ジーアーティスツ/シュガーアンドロケッツ、2000年)から、
「小さな花」(佐橋佳幸作曲)です。




