034:太平洋の岸辺で起こった小さなできごと
うちの本家は太平洋岸の漁村にある。これといった特産物のない寒村で、少し事情があって一部の研究者の間では有名なのだが、交通が不便なこともあり観光客はほとんどおとずれない。本家というのもべつにたいそうな家柄ではないが、親戚の仲が良く、お盆や正月には一族がおおぜい集まるならわしである。
今年のお盆も日本各地に住んでいる親類が総勢三十人以上も集まっててんやわんや、広い田舎家といえども足の踏み場もないありさまだったのだが、なかでも珍客といえたのは、二十年以上前に米国に移住した叔父一家だった。県内に住んでいる僕のうちなどは毎年かならず本家に顔を出しているが、叔父一家はそうはゆかず、今回の帰国はじつに十年ぶりであった。
叔父一家の三人が到着したときには、一族総出の出迎えで大さわぎになった。一家は仏壇に帰宅の挨拶をしたあと、一同と旧交をあたためた。外国のめずらしいお土産を開陳したりして座がほどけてくると、僕は叔父夫婦の一人娘である同い年の従姉のところに寄って行った。なんといって話しかけたものかと悩んだが、向こうから笑顔で声をかけてきた。
「ハーイ。ナイストゥミーチュー」
十年前に会ったときと同じ第一声だった。一気になつかしい気持ちが盛り上がったが、それはそれとして、ナイストゥミーチューというのは初対面のあいさつではなかったか。日本語でその点をたずねると、従姉も日本語で答えた。
「うん、そうだよ。あれ? キミもしかして初対面じゃなかった?」
盛り上がったぶんを打ち消して余りあるぐらい一挙に盛り下がった。しかし、前に会ってから十年もたっているのだ。顔がわからなくなっていたとしても不思議はない。そう考えてつとめてみずからを元気づけつつ、僕は名乗った。従姉はそれを聞いて、声をあげた。
「ああ、おぼえてる! 十年前に会ったよね! お兄さんは元気? お兄さんももうここに来てる?」
やっぱり兄貴か、と僕は思った。
十年前の正月休み。小学一年生の僕は両親と七歳上の兄といっしょに本家に来ていた。餅つきのまわりをうろちょろしたり大掃除でこき使われたりしているうちに、ある日大人たちがさわぎはじめたので表に出てみると、そこにいたのは米国に移住した叔父一家だった。
同じ年頃の女の子が一人いたので話しかけようかと思いながらなかなか踏ん切りがつかずに人だかりの周囲を出たり入ったりしていると、その女の子のほうから声をかけてきた。
「ハーイ。ナイストゥミーチュー」
不意打ちだった。どこをどう見ても日本人の顔なのに、その女の子はいきなり謎の外国語で話しかけてきたのだ。僕は言葉を失って立ち尽くした。
そこへ割り込んできたのが当時中学二年生だった兄である。
「ナイストゥミーチュートゥー」
女の子の顔がぱっとかがやいた。そこから先は早かった。兄は当時英会話にこっていたので、女の子はちょうどいい練習相手だったのだ。じつは女の子は日本語もちゃんと話せるということが後で判明したのだが、そのときにはすでに僕の入り込む余地がないほど二人は仲良くなっていた。
結局その冬、叔父一家が日本に滞在しているあいだに僕が従姉からかけられた言葉は初対面のあいさつだけだった。僕のほうから従姉に話しかけることはついになかった。これでは向こうが僕のことをすぐに思い出せなかったのも当然だ。
兄貴は今晩こっちに到着する予定だ、と僕は従姉に教えた。兄はこの春大学を出て就職し、いまは東京で仕事をしている。従姉はそわそわしはじめ、夜が待ち遠しい様子だ。僕は兄について従姉にもうひとつ教えてやるべきかどうか迷い、結局だまっていることにした。そのときになればわかることだ。
東京からはるばる車を運転して兄が本家に到着したのは、夏の日がとっぷりと暮れたころのことだった。出迎えを受けて家に上がった兄は、従姉に気づいて笑顔で声をかけた。
「やあ、十年ぶりかな。大きくなったね」
従姉はややこわばった顔で、兄の後ろの人物を見やってたずねた。
「そちらの方はどなた?」
「ああ、もちろんきみは会うのは初めてだよね。こっちはぼくの婚約者でね、秋に挙式する予定なんだ」
従姉が型どおりのお祝いをのべるところを、僕はなすすべもなく眺めていた。やはり先に教えておけばよかった。
兄と婚約者の女性はあっというまに物見高い親戚一同に連れ去られ、大皿の料理がこれでもかと並ぶ広間にすわらされて、乾杯責めに遭った。僕も飲み物を運ぶのを手伝わされたりしていて、気がつくと従姉の姿が見えなくなっていた。
一人になりたい気分なのかもしれない。だが僕はふと不安をおぼえた。従姉はこの土地のことをよく知っているだろうか? 前に来た時は真冬だったから、誰も例の事情については教えなかったかもしれない。教えたとしても、子供のころのことだし、忘れてしまっているかもしれない。
僕は探しに行ってみることにした。
毎年夏冬訪れているので、土地勘は十分にある。座敷を占拠している酔っ払いどもには何もいわずに家を出た。さて、従姉はどこへ行っただろうか。都会ならファミレスとか喫茶店なんかで時間をつぶすこともできるだろうが、このド田舎にはそんな気の利いたものはない。あるのはせいぜい公園、それに海と山だ。
海。
どうも従姉は海のほうに行ったのではないかという気がした。本家から海岸までの距離は百メートルもなく、家の中にいても波の音がたえず聞こえている。そして波の音というものには、どこか人の心に呼びかけてくるような力がある。僕は海岸へと急いだ。従姉が入水自殺するなどと心配したわけではない。だが、とにかくこの土地では今の時季は夜の海辺は危ないのだ。今晩のような月の明るい夜は特に。
従姉はあっさり見つかった。家からほど近い砂浜で、護岸のコンクリートの壁に背中をあずけてすわりこんでいる。僕は砂浜に下りて、そっと声をかけた。従姉は鼻声で返事した。
「ごめん。もうちょっとしたら戻るから、先に行ってて」
いましばらく一人にしておいてやりたいのはやまやまだが、そうするわけにはいかない。僕は説明しようとしたが、従姉が問わず語りに語りだすのに先手をとられて言いだしそこねた。
「わかってはいたのよ。前に会ったときはお兄さんは中学生でわたしは七歳だったし、いくらなんでも中学生が七歳の女の子にどうこうなるってことはないものね。ねえ、あの婚約者の人ってどんな人?」
兄貴とは高校時代からの付き合いで、足かけ八年にわたる恋愛のすえにとうとうゴールインしたのだ、と僕は話した。従姉は嘆息した。
「すごくロマンティックじゃない。そんなの勝てっこないわあ」
それはいいけれどそろそろここを離れないか、と僕は提案した。そして、すでに遅かったと知った。
「ど、どうしたの」
僕は、静かに、と言って海を見た。黒々とした海面の一部が徐々にせり上がり、海の中からなにかが出てくる。山のようなその図体のすべてが砂浜に身を乗り上げたとき、従姉はその名前を言った。
「首長竜……?」
静かに、と僕は言った。産卵のときは気が立っていて、ほんのちょっとしたことで人間に襲いかかったりするから、絶対に刺激してはいけない。そもそも産卵の時季には夜は砂浜に近づいてもいけない。これはこの土地では常識である。
「産卵ですって……?」
従姉はほんとうに知らなかったらしい。そう、ここは世界的にもめずらしい首長竜の産卵地なのだ。
その首長竜は頭の先から尻尾の先まで十五メートルほどだった。長さ十メートル近くあるだろう首を引きずりながら四枚のヒレで砂浜を這い進み、護岸の根元に穴を掘って卵を産んだ。一部始終にはたっぷり一時間かかり、僕と従姉は手をのばせば届くような距離でそれを見届けた。産卵のあいだ、その長大な首はひっきりなしにのたうち、はねとばした砂が何度となく僕たちの上に降り注いだ。首長竜のほうもこちらの姿を目にしたはずだが、さいわい関心を持つことはなく、寄り添ってふるえる僕たちは捨て置かれた。
精神的に疲れはててふらふらしながら家に戻ると、酒盛りはまだつづいており、大半の連中は従姉と僕の不在に気づいてもいなかった。ただ、何人かの勘のいいおばさんたちは僕と従姉がいっしょに戻ってきたのを見てなにか誤解をしたらしく、意味ありげにうなずいたりしたものだ。従姉は不名誉だと言わんばかりの表情をしていたが、首長竜の産卵を見物してきたなどということが知れたら大目玉だと帰るみちみち言い含めておいたおかげで、だまっているしかないようだ。
従姉と二人だけの秘密ができたことが、僕としてはちょっとだけ楽しい。
今回イメージした曲は、『聖剣伝説3』(スクウェア、1995年)から、
「Powell」(菊田裕樹作曲)です。




