029:復讐のピアノ
机の上に右手を手の甲を上にして広げさせる。二人がかりで押さえつけているので、手をひっこめることはできない。やつはおびえた顔で指を縮めようとするが、「動くと手元が狂っちゃうかもしれないなあー」と言ってみたら、しぶしぶ指を伸ばしておとなしくなった。
「ぼやぼやしてると昼休みが終わっちまうし、ぱぱっとやっつけるか」
おれはそう言いざま、逆手ににぎったシャーペンをやつの指と指のあいだに立てつづけに突き下ろした。
友人の家で夜の十時すぎまでだべって、親が帰ってきたのでぼちぼちおいとますることにした。おれの家までは歩いて十分というところだ。夜中の住宅街で人通りはあまりないが、これまで不審者が出たというような話もないし、べつに危ないことがあるとは思っていなかった。
街灯に照らされた夜道をあるいていると、どこかでポロン、ポロンと調子はずれのピアノの音がした。おれはふと、さっき友人から聞いた話を思い出した。おれたちと同じクラスのある男についてのうわさだ。そいつはピアノをひくのが上手で音楽の教師からも一目置かれているほどだったのだが、最近右手にケガをしてしまって、もうピアノを続けられないかもしれないのだという。友人は、教室でおれたちがやつといっしょにやったゲームがそのケガの原因ではないかと考えているようだった。
それはナイフ・フィンガー・ゲームとかいわれているもので、手の指をひろげて机の上にのせ、指のあいだをナイフで突くという遊びだ。もちろん学校でやったときはナイフではなく芯をひっこめたシャープペンシルを使った。ちょっとミスってもろにやつの指にぶっ刺してしまったが、しょせんはシャープペンシル、たいしたケガではなかったはずだ。
「まあ、べつにおれが悪いわけじゃないよな。あいつが自分からやるって言いだしたんだし。ちょっと取り囲んでプレッシャーかけたけど、べつに脅したとかいじめたってほどじゃないしな。ミスったのもあいつが変にビクビクして動いたせいだし、もし親か教師に言いつけられても大丈夫だよな、べつに」
ぶつぶつと自分に言い聞かせながら歩いてゆく。ポロン、ポロン。またピアノが聞こえた。今夜はやけにあちこちでピアノをひいている。もう夜も遅いのに、近所迷惑だとは思わないのだろうか。モラルの低い連中だ。
ポロン、ポロン。
気のせいか、ピアノの音がおれの後をついてきているように聞こえる。おれはなにげなく振りかえった。そのときちょうど後ろの角を曲がって、何かが姿をあらわした。街灯の光をたよりにその姿を見定めて、おれは目をみはった。一台のグランドピアノが、三本の脚をぎこぎこ動かしてこちらに歩いてくるのだ。一歩あるくごとにポロン、ポロンと音が鳴った。
「え。何。なんなのこれ」
おどろいて見つめると、ピアノの鍵盤のフタのところにバツ印が刻まれているのが、夜目にもはっきりと見えた。あれはたしか去年、おれの先輩がなにかの罰ゲームで学校の音楽室のピアノにつけたキズだ。結局バレてその先輩は停学になったのだが、それはいまはどうでもいい。つまりこれは学校のピアノなのだ。
わからないのは、こいつがどうしておれをつけまわしているのかということである。キズものにされた仕返しなら、先輩のところにいくだろう。おれはこのピアノには何もしていない。つけまわされる理由はないはずだ。
いや。
例のピアノのうまいあいつが、休み時間や放課後によくこのピアノをひいていた。自分の家にはアップライトピアノしかないから、グランドピアノがひけるのは、ピアノの先生のところ以外では学校だけなのだと。
「まさかおまえ、あいつのかわりにおれに仕返しにきたのか……?」
おれがそうつぶやくと、ピアノは鍵盤のフタをがこんがこん鳴らし、背中の反響板をばたばたさせて、はげしくおれに迫ってきた。おれは悲鳴を上げて回れ右し、逃げ出した。
おれは全速力で夜の道を走った。自慢ではないが、走るのはわりと得意だ。だが、後ろからはポロン、ポロンという音がつかずはなれず聞こえてくる。速さでは振り切れない。となれば手はひとつ。グランドピアノの図体では入ってこれないような狭いところに逃げ込むのだ。
うまいぐあいに、行く手に人ひとりやっと通れるぐらいの幅の小道が見えた。両側はブロック塀になっている。ここなら入ってこれまい。おれはがくがくする足をはげましてラストスパートをかけ、その十メートルかそこらの長さの小道を一気に駆け抜けて反対側に出た。そして振り返った。
ピアノは、小道の両側のブロック塀の上に足を乗せて追いかけてきていた。またたくまにブロック塀を走破し、おれの目の前にどすんと飛びおりる。バラララーンと不協和音が鳴り響いた。
「うわああごめんなさいおれが悪かったですかんべんしてください!」
おれにもう走る力は残っていなかった。へたりこんで泣き叫びながら後ろに這いずって逃げる。ピアノはじわじわと間合いを詰めてくる。もうちびりそうだった。そのとき、後ろのほうでバタンとドアがひらく音がした。
「学校のピアノじゃないか。なんでこんなところに?」
聞きおぼえのある声だった。そう、例のピアノのうまいあいつだ。知らなかったが、ここはやつの家らしい。やつは地面に這いつくばるおれをちらりと見て、ピアノのほうに歩み寄った。ピアノはおれを仕留めるべきか迷っているようすだ。やつはピアノに語りかけた。
「心配してくれてありがとう。でも、ここまでしてもらわなくてもいいんだよ。僕も、前みたいにはやれないとしても、できる範囲でピアノはつづけていくから」
ピアノは一応おとなしくなった。納得はしていないが、やつにさとされたのでは矛をおさめざるをえない。そんな感じだ。やつは譜面台のところをなでながら言う。
「さ、学校に戻ろう。送っていくよ」
ピアノはきびすを返す。そうして、一人と一台は夜の道を連れ立って歩いてゆき、見えなくなった。どうやら命拾いした。おれは地面にべったりとすわりこんだまま大きく息をつく。そのときだった。
バーン! ポロロローン!
やつの家の玄関のドアがふっとぶようにひらいて、中から一台のアップライトピアノが躍り出てきた。そいつは憎悪に燃えるようすでおれのほうへとにじり寄ってきて……
今回イメージした曲は、『ブレイブリーデフォルト フォーザシークウェル』(スクウェア・エニックス、2013年)から、
「歪なる思念 其の名は魔王」(Revo作曲)です。




