027:幻の戦い
屋敷に戻る馬車の中で、向かいにすわっていた妹の目が急にうつろになったので、私はまた妹が幻を見はじめたのだと気がついた。こういうとき、妹は幻に入り込んでまわりが見えなくなっていることも多いので、驚かさないようなるべくおだやかに声をかけてやる。大きな声を出さなければ、御者台にいる下男には話の内容は聞こえないだろう。
「またなにか見えるの?」
「……うん」
今年十一になった妹は、小さいころからときどき人の目には見えないものを見ることがあった。両親に聞かせるといい顔をしないので、そういう話をする相手はもっぱら私だ。見えるのは幽霊とか小人とかそういったもので、妹はさして怖いとも異常だとも思っていないらしい。
「最近多いわね。今日はどんなものが見えるの?」
私が聞くと、妹はうわのそらの表情で答えた。
「天使様と悪魔が戦ってる。屋敷の真上の空で」
私は妹の視線をたどってみるが、そこには馬車の天井があるばかりだ。もちろん、かりに天井を取り払ったとしても、私の目には天使も悪魔も見えはしないだろう。私は座席にすわりなおし、窓の外の景色に目をむけた。青々とした小麦畑で、わが家の農奴たちが仕事をしている。この秋も小麦の実りは良さそうだ。
妹は語りつづける。なかば夢の中にいるかのような声だ。
「天使様はすごく整ったお顔をされているわ。白いぴかぴかした鎧を着て、剣と盾を持っていらっしゃる。背中には白い翼が生えてるわ。悪魔のほうは黒い鎧で、槍を持っていて、翼の色は黒よ。顔はこちらも整っているけれど、ものすごく怒ってるみたい。こんな遠くから見ているだけで体がふるえてくるぐらいおそろしい形相で怒り狂ってるわ。いったい何があったのかしら……あっ」
馬車が石か何かを踏みつけたらしく、私と妹の体がすわったまま大きくはねた。妹が前に倒れそうになるのを、私は手をのばして支えてやる。どうもこの下男は馬車を遣るのがへたで、さっきから何度もひどく揺らしていた。屋敷に戻ったら、お父様に言いつけてぶっていただかなくては。
妹は自分がころびかけたことなど気づいてもいないようすで、相変わらず天井のむこうを眺めていた。その夢みるような表情はじつに愛らしい。これは身内のひいき目ではなくて、たとえば今日お茶会に招いてくださった隣村の領主のご夫妻もときどき妹に見とれていたし、その十二歳の一人息子にいたっては、妹をひと目見るなり真っ赤になって隠れてしまい、母親にしかられるまで出てこようとしなかったぐらいだ。
その妹が、涙をこぼれんばかりにためた瞳をあらぬかたに向けて、しきりに切なげな息をもらしていれば、私だってその愁いの源をたずねずにはいられない。
「どうなったの?」
「悪魔の槍が天使様の翼をかすめたの。天使様は空中でよろめいてしまわれたわ。ああ……悪魔がはげしく攻め立ててる! 天使様の剣をたたき落として、ああ、ああ、だめ!」
妹は食い入るようにしばらく虚空を見つめていたが、やがて顔を伏せて肩をふるわせた。私は妹の髪をなでてやりながら、かける言葉に迷った。結局出てきたのは、ごくつまらないお小言だった。
「ねえ、私はあなたがまじめで信心深い子だって知っているからいいけれど、よそでは絶対にそういうことは口にしちゃだめよ。幻を見ているなんてことが、それも悪魔が天使を倒してしまうなんていうのが人に知られたら、何をいわれるかわからないわ。昔みたいに魔女の疑いをかけられて吊るし首にされるなんてことはないとしても、よくない噂が立てばお母様のお体にも障るかもしれないし」
「……うん、気をつける。ありがとう、お姉様」
妹はすなおにうなずいた。いい子だ。このところ妹の見る幻には陰惨な内容のものが多いのだけれど、それはきっと最近気がかりな知らせがつづいていて、気分がふさいでいるからだろう。お母様の病気のこともそうだし、戦争が起きそうだという話も聞く。そういえばさっきのお茶会では、遠くの国で農奴が反乱を起こして王族や貴族を片はしから処刑しているなどというおそろしい噂も耳にした。
もちろん心配するようなことは何もないに決まっている。うちの領地やそのまわりは平和そのものだ。
馬車は揺れながらようやく屋敷の門を入る。
今回イメージしたのは『ハイドライド3』(T&E SOFT、1987年)から、
「Light Metal」(冨田茂作曲)です。




