024:帰郷
月下、娘はふらふらと家路をたどっていた。自分が東西南北いずれの方角へむかっているのか、娘は知らない。だが、迷うおそれはなかった。心の声を張り上げて父母を呼べば、すぐさまかすかな声が返ってくるのだ。その声の来るほうへ来るほうへと行けば、なつかしい家に帰ることができるであろう。
娘は昼も夜も休まず道を急いでいた。山を越え、林を抜け、村を通り、城を過ぎ、また山を越え、行く行くうちにしだいに故郷が近づいてくるのが感じられた。あともうすこし。山をひとつかふたつ越えれば故郷の村だ。
娘は知らない。自分が地面を歩むのではなく宙を踏んで進んでいることを。ある町では城門を通らず城壁を突き抜けて町に入り町を出たことを。父母を呼んで声を上げるつど、近くにいた人々が卒倒したり寝付いたりしていることを。自分を祓うために軍隊が動員され徳の高い法師たちが集められていることを。
畑の中に奇妙な風体の一団が現れた。行く手に立ちふさがったその十人あまりの男たちは地元の自警団の兵士だが、そのことを娘は知らない。髪をなかばそり上げて残った房は一本のお下げに編み、見たこともない衣服をまとい、腰には刀を差し、黒々とした細長い筒を手に手に抱えたその姿を見て、旅芸人か何かだろうかとぼんやり思ったが、それよりも今は呼びかけに答える父母の声が間近いことのほうが大事だった。
一団のなかから、頭目らしき立派な鎧を着けた男が進み出た。恐怖に顔は青ざめ手足はわなないていたが、声をはげまして娘に呼ばわる。
「そこの亡霊の女、人々に害をなすのをやめて、おとなしくおのれのあるべきところへ帰れ。さもなくばわれらが相手になるぞ」
男がしゃべったのは娘の知らない言葉だったが、不思議と話のなかみは感じ取ることができた。近くに亡霊がいるらしい。いやだな、と娘は思い、あたりを見回した。これといってあやしげなものは見当たらなかったが、ぞっとしない話である。さっさとここを離れて故郷の村に向かったほうが良さそうだ。
娘は行く手をふさぐ男たちのほうへ、一歩二歩と踏み出した。一同がうろたえて逃げ腰になるところを、頭目がうわずった声でしかりつける。
「さわぐな、野郎ども! 銃構えろ!」
部下たちはかろうじて踏みとどまり、おのおの持っていた筒を娘に向けた。あの筒は何なのだろうと思いながら娘は進む。頭目が金切り声をあげた。
「撃て!」
夜闇の中にぱっと白い光がひらめき、天地が裂けたかのような音が鳴り響いた。娘は驚いてあたりをきょろきょろと見回す。いまの音は目の前の男たちが何かをして出したものらしいが、大きな音を立てて亡霊を追い払おうとでもしたのだろうか。犬や馬ならともかく、亡霊にそんな手が効くものなのか。
「当たったのに! 当たったのに弾が通り抜けた!」
「もうだめだ、みんな取り殺されちまうんだ!」
男たちが口々に悲鳴を上げる。
「落ち着け! 弾がはずれただけだ!」
頭目が声も枯れよと叫ぶが、効き目はない。茶番にうんざりした娘がふたたび前へ進みだすと、頭目を含めた全員が刀も筒も放り出して逃げ散った。興味はなかった。もう故郷は目と鼻の先なのだ。
「待たれよ」
だがそのとき、背中にかけられた錆びた男の声を娘は無視することができなかった。振り返ると、さきほどの連中よりさらに奇怪ななりの男がいた。ぞろりとした黒い衣を着て、髪は一本のこらずそり落としている。千何百年か前に西方から伝来した教えの導き手のいでたちであったが、娘はそのようなことは知らない。男は言った。
「拙僧はごらんのとおり一介の雲水でござる。古代の帝王の墓に押し入った墓荒らしが貴妃の亡霊に遭って怯え死にしたという話を聞き、その亡霊の後を追ってまいった。殿下におかれてはこのうえ世をさわがせることなく、どうかお心安らかに成仏めされよ。及ばずながら拙僧が回向いたそう」
この男の言葉もやはり聞きおぼえのないものだったが、言わんとするところはおおよそ心に伝わった。貴妃というのは自分のことだ。娘はぽかりと浮かんできた記憶をたぐる。ただの田舎娘だった自分が、ちょっと顔がきれいだったばかりに王のもとへと召し出されたのだ。だが、王はにわかに病気になって身まかられた。そして結局ふしどをともにすることがなかった自分は、そのまま故郷に帰ったのだった……いや、故郷に帰ったのなら、なぜいま故郷をめざしているのか? 故郷には帰れなかったのか? そうだ、自分は亡くなった王をお慰めするためにと言われて、埋葬のときにむりやり墓の中へ……。
いまや娘はすべてを思い出し、魂の底から悲鳴をあげた。さきほどの男たちやこの黒い衣の男がなぜふたことめには亡霊亡霊と言うのかもわかった。この自分が亡霊だからにほかならない。
娘の悲鳴とともにどこからともなく黒い雲と風が湧き、黒い衣の男にはげしく吹きつけた。男はよろめいて杖にすがり、そり上げた頭に脂汗をうかべながら何かの呪文らしいものを唱えた。夜のはずの空の一角からさっとまばゆい光が走って、黒雲を切り裂き娘を照らし上げた。娘はふたたび悲鳴をあげたが、さきほどとはちがって、いまにも消え入りそうなかぼそい声だった。男の衣の裾をゆらすほどの風も吹かなかった。
娘は男をほうっておいて先へと進む。故郷はすぐそこなのだ。父母の声はたえず聞こえている。後ろから男が追ってくる気配がするが、疲れはてているのかその足取りは鈍い。追いつかれるまえに父母のもとにたどりつけるだろう。目の前に上り坂があらわれる。道に見おぼえはないが、なぜかはっきりとわかる。この坂の向こうが故郷の村だ。坂を上りきった。
眼下には黄色い水をいっぱいにたたえた河が流れていた。
娘は立ち尽くす。それは巨大な河だった。向こう岸は月の光の下でははっきりと見えず、水が流れているから海でも湖でもなく河だとわかる、それほどの河だった。故郷の村を呑み込んだその威容を前にして初めて、娘は自分が生きていたころからあまりに長い年月がたってしまったのだということをさとった。
のちにその岸辺には小さな堂が建てられて、名も知れぬ一人の貴妃の霊を祀っていたが、やがてそれも、河がふたたび氾濫して流れが変わった際にあとかたもなくなってしまった。いまではそれがどこだったかを知る者はいない。
今回イメージしたのは『クロノ・トリガー』(スクウェア、1995年)から、
「遥かなる時の彼方へ」(光田康典作曲)です。




