019:夕方の吹き抜け
ショッピングセンターのロビーは一階と二階をぶちぬいた造りで、ガラス張りの壁をとおして太陽の光が斜めに差し込んでいた。ガラスのむこうで広告の垂れ幕が風に吹かれると、広い床の上で淡い影がゆらゆら動いた。
「本屋に行くのはいいけど、何の本を買うんだ?」
買い物客が行き交うロビーをエスカレーターの上から見下ろしながら、少年は友人にたずねる。ひとつ上の段に立っている友人は振り返って答えた。
「古典の参考書がほしくてな。どうもあの漢文ってやつは苦手だ」
「わかるわかる! おれもあれは苦手」
「おまえはほとんどぜんぶ苦手だろう。まさか一学期の期末の惨劇を忘れたわけじゃないだろうな」
話題が危険な方角にむかいかけたので、少年は急いで方向転換をこころみた。わざとエスカレーターの手すりから大きく身を乗り出して言う。
「なあ、こういうきれいな床を見ると無性に飛び降りたくならねえ?」
「何を言い出すんだいきなり」
「だってほら、きらきらしてて水みたいじゃん。飛び込んで泳いだら気持ちいいぞ、きっと」
「そうかい。飛び込む前にちゃんと準備運動しろよ」
友人は馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、前を向いてしまった。ちょうど二階に着くところだった。
書店はショッピングセンターの二階に入っていた。漫画本から学術書まで置いている、よくいえば幅広い、悪くいえば無節操な品ぞろえの店で、いまの時間帯には学校帰りの学生の姿が多い。
少年は友人と別れてマンガのコーナーをぶらついた。だがあいにくこの店では漫画本はビニールの袋をかぶせて陳列してあり、立ち読みができない。すぐに飽きてしまって友人のところに行くと、何冊もの参考書の中身を見比べて、どれを買うか迷っている最中だった。
「ずいぶん悩んでるな」
「まあな。国立をめざすとなると、もうちょっと成績あげないといかんし」
「だいじょうぶだって。おまえ頭いいじゃん」
「たいして良くないぞ。おまえと同じ学校にかよってるぐらいだからな」
「どういう意味だよ、このやろう」
まだ時間がかかりそうだったし、人の参考書選びなど見ていても面白くもなんともないので、少年は友人を置いていったん店を出た。広い吹き抜けに沿ってぶらぶら歩きだす。本屋のとなりの文具屋をひやかし、そのとなりの喫茶店のショーケースの中の料理の模型のできばえに感心し、そのまたとなりの携帯電話販売店の美人の店員をしばらく鑑賞したりして、ようやく本屋に戻ってきたときには正面のガラスから差し込む日差しはすでにだいぶ傾いていた。友人はちょうどレジで金を払っているところだった。
参考書の入った紙袋をかかえて店を出てきた友人に、少年はふとたずねる。
「国立めざすって言ったけど、私立じゃだめなのか?」
友人は難しい顔をした。
「ああ。うちの財政だとちょっとな。弟と妹もいるし」
「奨学金とかは?」
「返せるかどうかわからないのに、不用意に借金なんかできるか」
「きびしいなあ」
少年がなにげなくつぶやいたひとことは、ことのほか友人の神経を刺激したらしい。友人はいきなりかみついてきた。
「おまえはいいよな、家が金持ちで。どこの学費でも出せるだろうし」
少年は一瞬言葉に詰まる。友人はハッとした顔になった。
「すまん。ちょっと気が立ってた」
「いや、いいけどさ」
空気がわるくなってきたので、少年はてっとりばやい開放感をもとめて吹き抜けに歩み寄った。手すりに身をあずけて、一階を行き交う人々をながめる。友人もとなりに並んでぐったりしながらぼやいた。
「ああ、いやだいやだ。学校の成績であくせくして、大人になればなったで仕事の業績かなんかでやっぱりあくせくするんだぜ」
「でも、楽しいことだってあるぜ。ほら、夏休みにみんなで海に行ったときとか、楽しかっただろ」
「そうだったな。あんなことがまたあるのかなあ」
「あるってば」
どうにも気勢が上がらない友人を元気づけようと、少年はさらにあれやこれやの話題を振った。友人は生返事をするばかりだったが、そのうち突然手すりをつかんでぐいと身を乗り出した。少年はあわててその腕をつかむ。
「おい、落っこちるぞ」
友人は真下の床を見つめてつぶやいた。
「あれ、何だ」
「あれって?」
「ほら、あそこ。なにか泳いでる」
「はあ?」
少年は友人の指さすほうを見たが、なんの変哲もない床に夕日が反射しているばかり。
「お、あ、あれ」
友人がかばんを足元に落とした。ついさっき買った参考書も。両手があくや少年の手をふりほどき、手すりを乗り越える。とっさに止めようとしたが間に合わない。少年は手すりに飛びついて下を見た。友人の体がまっすぐに落ちてゆく。つぎの瞬間床に激突して流血の惨事……とはならなかった。落ちて行った友人は、そのまま床にずぶりと沈んで消えてしまったのだ。まるで床が水でできているかのようだった。
少年はまわりを見わたす。吹き抜けをめぐる通路にはおおぜいの買い物客がおり、何人かは友人が消えた瞬間を目撃していたようだ。
「わたしも行こうっと」
少し離れた場所で同じように一階の床を見下ろしていたスーツ姿の若い女が、そうつぶやいてやおら手すりをまたいだ。またしても止める間はなかった。空中でくるりと頭を下にした女は、飛び込み競技さながらに全身を伸ばして床につっこみ、そのまま姿を消した。水しぶきが上がったように見えたのは気のせいだろうか。
つづいて、薄汚れた格好の中年の男が飛んだ。さらに、仕立ての良い服を着た年配の婦人が、ランドセルとかばんを投げ捨てた小学生の女の子が、書店から様子を見に出てきたアルバイトの店員が、つぎつぎに二階から飛び下りては床のなかに消えてゆく。
つかのま茫然自失していた少年だったが、われに返ると友人のかばんの上に自分のかばんを置いた。いなくなった人たちがどうなったのかは見当もつかないが、あとを追うことができるのは今しかないという気がしたのだ。思い切って手すりの上にのぼる。二階から一階まではおよそ八メートルというところか。死ぬほどの高さではない、はず、たぶん。
「ええい、くそ!」
空元気をふるいおこしてかけ声一発、少年はまっさかさまに床に飛び下りた。光の加減でか床はなかば透きとおったように見え、それがみるみる近づいてくる。
激突、そして激痛。
少年は自分が床にうずくまっていることを知った。どこかから血が出て、赤い水たまりを作っている。骨の十本や二十本は折れたかもしれない。かすむ目にうつるのは、なおも何人もの人々が床に飛び込んでゆくありさま。どの人も床にぶつかったとたん、ぽちゃんと小さな音をたてて沈んでしまい、あとには何も残らない。
救急車を呼べとだれかがさけんでいるのをかすかに聞きながら、少年は意識を失った。
今回イメージした曲は、『エスカ&ロジーのアトリエ』(ガスト、2013年)から、
「蜂群崩壊症候群」(下田祐作曲)です。




