015:テニスボールの日
そういえば今日の天気予報は晴れときどきテニスボールだったな。
廊下を歩きながら窓の外を見て、少年はそう思った。図書委員の当番が終わり、いまから帰宅しようというところである。日暮れまではまだだいぶあるはずだが、空は雲にとざされてひどく暗い。
昇降口で外靴に履き替えていると、パコン、パコン、という音が聞こえてきた。どうやらテニスボールが降りだしたようだ。ラケットをケースから出しながら外に出ると、軒下に知った顔があった。同級生の少女である。
「あれ、いま帰り?」
少女は少年に気づいて気安く声をかけてきた。
「うん、図書委員の仕事で。そっちは部活?」
「うんにゃ。いっぺん家に帰ってから、宿題のプリントを学校に置きっぱなしなのに気がついて取りに来たんだけどさ。降りだしちゃってまいったよ。宿題なんていさぎよくあきらめるべきだった」
「いや、それはダメだろ」
見れば、少女はまったくの手ぶらで、ラケットなど持っていない。
「まあそのうちやむっしょ。あたしのことは気にせず、お帰りくださいな」
少女はそう言ってひらひらと手を振るのだが、重く垂れこめた雲から降ってくるテニスボールはしだいに激しさを増しており、少年の見るところいつになったらやむのか知れたものではなかった。少年は持っていたラケットを少女に差し出した。
「あのさ、これ貸そうか?」
「でも、あたしがそれ借りちゃったら、きみはどうするのさ。もう一本あるの?」
「いや、ない」
「じゃあダメじゃん」
たしかに少女のいうとおりである。だがだからといって、少女をここに残して自分だけが家に帰ってしまうのは大いに気がひけた。さて、一本のラケットで二人とも無事に家に帰るにはどうすればよいか。少年は答えを口にした。
「それじゃ、家まで送るよ」
「えっ」
少女が目を見ひらいて驚いたので、少年はなにかまずいことでも言っただろうかとおのれの発言を振り返った。そしてうろたえた。よく考えないで言い出してしまったが、いま自分がしたのは相合ラケットのお誘いではないか。軽率であった。もし本当にそんなことをして、それをクラスのだれかに見られでもしたら、あした朝学校にくると教室の黒板にラケットをデフォルメした絵が書いてあってその下に自分と少女の名前が並んでいるなどということになりかねない。
少女が小さな声で言った。
「……それなら、わるいけどお願いしようかな」
「えっ」
少年は目を見ひらく。なにやら少女が自分の申し出を承諾したように聞こえたが。いや、いまやテニスボールがすっかり本降りになっていて、地面に落ちる音がパカパカパカパカとやかましいので、たぶんその音にまぎれて聞きまちがえたのであろう。
だが、少女は少年から目をそらして、やけくそぎみの大声で言うのだった。
「そうと決まったらさっさと行こう。早く帰らないと宿題やる時間がなくなって、結局プリント取りにきた意味がなくなっちゃうしさ」
黄緑色のテニスボールはひっきりなしに空から降ってきては道を転がり、側溝に落ちてゴロゴロと流れてゆく。二人はボールを蹴散らしながら歩いた。頭上を守るのは少年が振り回すラケットだ。少女と自分に当たりそうなボールをひとつ残らずはねのける。
「へえ、インドア派かと思ってたけど、けっこううまいんじゃん」
少女はすなおに感心した。少年はどぎまぎしながら答える。
「前は北のほうに住んでたから。あっちはひどかった」
「ああ、野球のボールが降ってくるんだっけ?」
「うん。まあ、ぼくのいたところでは軟式球だったからまだマシだったけど。降ってくるやつをバットで防ぐのはかなりむずかしかったし、防ぎそこなうと泣きたくなるぐらい痛いし、へたな打ちかたをすると飛んでったボールがガラスを割っちゃっておこられたり」
「そうか、それならそんなにうまいのも納得だね」
そんなことを言いながら少女が体を寄せてくるので、少年はますます落ち着かない。もちろん相合ラケットというのはそもそもそういうものだし、離れられるとラケットが届かなくて守りきれなくなるから近づいてもらったほうが具合がよいのだが、それはそれとしてあまり近すぎても気が散るというかなんというか。
いつもの通学路にはあまり人どおりがなかった。ときどきラケットを頭上にかざしながらすれちがう人もいるが、少女と同じくラケットを用意していなかった粗忽者もいて、手近な軒の下でテニスボール宿りをする人影がちらほらある。もちろん自動車はテニスボールを踏みつぶしながら平気で走っている。
「ちょっとはずかしいんだけどさ」
少女が急にそう話しはじめたので、少年はびくりとした。ラケットをあやつる手元が狂って、テニスボールがひとつ少年の肩をかすめる。少女はそれには気づかずにつづけた。
「あたしは子供のころもっと南のほうに住んでてね。そっちのほうでは降るのはピンポン玉で、当たっても痛くもかゆくもなかったから、正直なところテニスボールが降ってくるのはいまでもちょっとこわいんだ」
「ふうん」
「だから、その……、ありがと」
少女はそれだけ言うと、赤くなった顔をそむけてだまってしまった。少年も返すべき言葉がみつからず沈黙したが、口もとがなんとなくにやけるようでもあり、でも気まずくていたたまれないようでもあり。
そのとき後ろのほうから一台の自動車が走ってきた。あきらかにスピードオーバーしているその自動車は、二人の横を通りすぎるときに地面にころがっていたテニスボールをタイヤで盛大に跳ね上げた。少年はとっさに自分の体を少女の盾にして防いだが、テニスボールのひとつに顔面を直撃されてよろめいた。
「ちょっと、だいじょうぶ? 鼻血でてるよ!」
鼻がツンとしてぬるぬるしたものが垂れてくるので、言われなくてもわかった。ラケットがお留守になり、降ってきたテニスボールが手の甲に当たる。だが、その痛みでかえって意識がはっきりした。心配そうにのぞきこんでくる少女の頭にテニスボールが一個降ってきているのに気づき、すんでのところでラケットを振りぬいて打ち払う。制服の袖で乱暴に鼻の下をぬぐった。なじみのない力強さが体の奥から湧きあがってくるのにとまどいながら、告げた。
「だいじょうぶ。行こう」
少女はすこし目をみはって、うなずいた。
少女の家にたどりつくと、少年は強引に家に上がらされて鼻血の手当てを受けた。家には少女の母親がおり、ラケットを持っていくのを忘れた娘を少年が送ってくれてケガをしたということを聞くとたいそう感動して礼を述べ、お茶とお菓子までごちそうしてくれようとするので、かえって少年のほうが恐縮するほどであった。なんだかんだあって少女の家を辞去したときには、テニスボールはだいぶ小降りになっていた。
少年は走って家をめざした。どこからともなく力があふれてくるようで、のんびり歩いていると体がはじけてしまいそうな心持ちだったのだ。走りながらかなたの空に目をやると、雲間から日がさして虹がかかっているのが見えた。もうじきテニスボールもやむだろう。
今回イメージした曲は、『マッピー』(ナムコ、1983年)から、
「メインテーマ」(大野木宣幸作曲)です。




