010:追跡者
あたしのいる展示室には窓がなかった。太陽の光によって所蔵品が劣化するのを防ぐためだ。もちろん雨風など入らず、室温も常に一定に保たれている。毎日朝になると照明がつけられ、物好きな人間どもがちらほらと見物にやってくる。連中はあたしの前に置かれた説明を読んで、かわいいだのかっこいいだの好きほうだい言う。爪の構造がどうだとか、歩き方がこうだとか薀蓄を垂れてゆく者もいる。
あたしは一個の化石標本だ。人間があたしにつけた名前はプロアイルルスというが、見物客はたいていその名前を呼ばずに「ネコの先祖」と言う。
あたしが生きていたのはもう何千万年も昔のことであるらしい。正直に言って、そのころのことは何ひとつおぼえていない。いくらなんでも昔すぎる。あたしがおぼろげに思い出せる最初のできごとは、どこかの作業場で骨にこびりついた石をブラシで落としてもらったことだ。たぶんあれは、想像を絶するほど長いあいだ地面の下に埋まっていたあたしが人間の手によって掘り出されてすぐのころのことだったのだろう。
その後あたしはこの博物館に連れてこられて展示されることになったわけだ。当初はあたしのほかにはアンモナイトだの三葉虫だのといった面白みに欠けるやつらしかいなくて退屈な環境だったのだけれど、しばらく前にすこし事情が変わった。新しい化石標本、ミモミスとかいう名前のやつがあたしのとなりに展示されるようになったのだ。見物客はたいていこいつのことを「ネズミの先祖」と言う。
あたしはじわじわと前進する。
やつが背を向けてうずくまっているのは目と鼻の先だ。生きていたころであれば、飛びかかって押さえつけるのにはまばたきする間もいらない。だが、あたしはいまではすっかり死んでしまっているのだ。骨はもろい化石になりはてて、しかもそれですら頭と爪と前肢の一部分しか残っておらず、ほかの部分は石膏の作り物でおぎなっているありさまだ。当然筋肉などひとかけらもないのだから、体は意志の力で引きずってかろうじて動かしているにすぎない。
やつがあたしの展示されているガラスケースに入れられてから、すくなくとも一年以上になるだろう。そのあいだあたしは昼も夜も必死に意志の力をふりしぼって、やつとの間合いを縮めてきた。その甲斐あって、はじめあたしの体の長さぐらいあった間合いは、いまではほとんどないに等しい。生きているころのあたしだったら、ひげがやつの背中に触れているかもしれない。いまのあたしには存在しないはずの嗅覚が、いまのやつには存在しないはずのにおいをびんびんと感じている。
やつをつかまえてどうしようというのか、自分でもわからない。あたしもやつも骨だけの体なのだから、食うわけにもいかない。やつをつかまえたところで、あたしの失ったものや奪われたものが取り戻せるわけでもない。それでもあたしは、生きていたころにやつの同類を狩るのに傾けたのと同じぐらい、いや、それを上回る情熱でやつに爪をかけつつあった。無駄だということはよくわかっている。それでもあたしはやる。
そのとき展示ケースの前に二人の人間が立った。
「あれ? 館長、ちょっと見てください。プロアイルルスの展示位置ズレてません?」
「あら、ほんとだ。なんで動いたのかしら」
「さあ。やっぱりネコだし、もしかしたらネズミをつかまえようとしたんじゃないですか。あはは」
「ははは、まさか。まあいいわ。ちょうどいまケースの鍵を持ってきてることだし、もとどおり直しちゃいましょ」
人間の一人がケースの扉をあけ、白い手袋をはめた手であたしをつかんだ。
今回イメージした曲は、 『ファイナルファンタジータクティクス』(スクウェア、1997年)から、
「笑うクマさん」もしくは「Antidote」(崎元仁作曲)です。
2023年8月23日、「爪の構造がどうだとかとか」を「爪の構造がどうだとか」に訂正。




