名称未定--影法師と日記帳 3
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気が付いたら愛鈴は初めに眼が覚めた病室に戻されていた。反射的に明鈴の頭骨を探すと、それは先ほどの右にあった台に置かれている。
姉の頭骨が無くなっていない事に安堵を覚えたが、すぐさまハッとタローの事が思い起こされた。
「タローっ!」
愛鈴は起き上がりタローの元へ行こうとしたが、体は未だ動かなかった。
言う事を聞かない体に苛立ちを覚え、どうすればタローの元へ行く事が出来るのか考えようとした愛鈴の左側から青年の声が掛かった。
聞き慣れた青年の声である。
「おはようございます」
左側の視界を失っていたから彼の姿に気付かなかったようだ。
愛鈴が首を傾けて声をかけた主を見ると、それはやはりタローだった。
タローはパイプ椅子に座ってこちらを見ていて、膝上にはノートを置いている。
「……タロー」
「体の調子とかは大丈夫ですか? いきなり水瀬さんが注射を打ったから心配でした。まあ、水瀬さんが言うにはこれ以上騒いでいたら愛鈴さんの体が危なかったからしょうがなくらしいですけどね」
「……その口調を止めてください」
愛鈴はついタローへそう言ってしまった。彼の今の口調は聞き覚えがある。愛鈴が初めて彼に会った時の口調だ。
腰を低く敬語を使う。初対面の相手に対してタローという人はいつもそうなのだろう。
本当にタローは愛鈴を、いやユカリが言うには全てを忘れてしまったのだと改めて分かり、愛鈴は眼を伏せようとした。
愛鈴の右眼にタローは何か考えるようにしばらく黙り、その後口を開いた。
「分かった。敬語は止める。……で、愛鈴。体の調子はどう? まあ、そんだけ怪我しているのに聞くのもおかしいけど」
「……問題ありません」
確かに左半身に感覚が無いし上体起こす事もできないが、それは時子に眠らされる前から変わらない。
「そうか。なら良い」
タローは愛鈴の言葉に多少なりとも安心を覚えたのか、膝の上に置いたノートを二三撫でた。
「……その日記は、ずっと書いてきた物なんですか?」
「らしいよ。俺の記憶ではまだ書き始めて数日目ってところだけど」
あははとタローは笑い、ひらひらと日記を振った。
「何時から、書いているんですか?」
「一番古い日記は俺がドッペルゲンガーもどきとやらに成ってからすぐに書かれているね。時間で言うと大体二十五年くらい前からかな」
「二十五年……」
想像以上に長い年月に愛鈴はついタローの言葉を繰り返した。
「それじゃあ、あなたが言っていた『この町に来て一年半くらい』というのは」
「前の俺が何を言ったのかまでは日記に書いて無かったけど、確かに一年半ってのは正確じゃない。日記によると俺とユカリさんがこの町に来たのは八年前。あの時の俺は大体三十歳かそこらの外見だったらしいよ。三十路の自分とか想像できないな」
やれやれと何でもないように目の前の青年が語るのを愛鈴は信じられなかった。
彼は全てを失ったのだ。あらゆる物への執着も愛情も全て無に帰し、何も分からない白へと塗り潰されてしまったはずなのだ。
愛鈴は彼女の右眼に映る青年の笑いが酷く歪に見えた。
「……あなたは何で笑うんですか?」
「ん? ごめん。愛鈴が何でそんな事を聞くのかが分からないな」
「あなたは全てを忘れてしまったのでしょう? あなたが愛した物や、あなたが焦がれた全てへの想いが無くなってしまったのでしょう? それなのに何故あなたは笑っていられるのですか?」
タローは「ああー」と愛鈴が何故今の質問をしたのかを理解したようだ。
困ったように彼は笑い、頬を掻いた。
「……本当に全部忘れたからね。何も思わないよ」
「ッ」
愛鈴は失言を悟り、ユカリが言った〝全て〟という言葉が文字通り全てであると分かった。
タローは何もかもを、失ってしまった事を悔やむ事も悲しむ事も喜ぶ事もできないレベルで全ての記憶を失ったのだ。
記憶という根拠が無しに感情という結果を理解できる筈が無い。
また、しばらくの沈黙が愛鈴とタローの間に流れ、それを破ったのはタローだった。
「……愛鈴。聞かなきゃいけない事がある」
真面目で事務的な雰囲気の物言いだった。
愛鈴は小さく頷く。
「何の記憶も無い俺が聞くのもおかしいけど、ユカリさんが、俺が聞けって言うから聞くよ。愛鈴、今の君にはこれからどうするのか選択肢がある」
タローは一息の間の後、一本ずつ指を立てた。
「一つ。この浮世絵町って街の近くにある屍町とかいう町にの住民になる事。どうやら君はキョンシーとやららしいから屍町にも問題なく住めるだろう」
「二つ。このまま浮世絵町の住民となる事。浮世絵町ならどんな種族の方でも住めるからこれも問題ない」
タローは指を立てていく。
「三つ。君が暮らしていたという中国にあるオトギの町の住民となる事。これもオニロクさんが言うには許可は取れているらしい」
三つの選択肢をつき付けられ、愛鈴は沈黙した。これからの事など何も考えて居なかったのだ。
黙った愛鈴にタローは微笑みながら日記を片手に立ち上がった。
「どの選択肢もこの病院で治療が終わったらする事だから、ゆっくりと考えてくれれば良いらしいよ。じゃあ、また来るから」
スタスタと言いたい事は終わったかのようにタローは病室のドアへと足を進めて行く。
それを咄嗟に愛鈴は止めてしまった。
何故だかは彼女に分からない。けれど、ここで彼を止め、そして答えなければ成らないという漠然とした確信が愛鈴にはあった。
ゆっくりと考えるのではない。今答えを出すのだ。
「待ってください」
タローの足がピタッと止まり、彼はこちらへと振り向いた。
「……どうしたの? 寂しいならもう少しここに居るけど?」
右腕に力を込めて体を起き上がらせようとしたがそれは叶わない。だから愛鈴は右眼でタローを真っ直ぐに見つめた。
タローも何かを思ったのだろう。穏やかに笑わせていた口元を引き結ぶ。
愛鈴は躊躇い無く口を開いた。迷いは無い。そうすべきだと確信があったのだ。
「わたしはこの町に住みます」
「……分かった。ユカリさんに伝えておくよ」
タローは首肯し、病室のドアノブへ手を掛けようとした。
それを再び愛鈴は引き止める。彼女の話は終わっていないのだ。
「待って! ……待って。まだ話は終わっていません」
純粋に分からないと言った顔をしてタローは愛鈴の右眼を見返した。
真っ直ぐに愛鈴は横たわったままタローの瞳を見つめ、赴くままに言葉を紡いた。
その言葉と共にキョンシーの口からフワフワとした発光球が生み出される。
「お願いです。わたしを超常現象対策課に入れてください」




