名称未定--影法師と日記帳 2
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曰く、タローは元人間で現ドッペルゲンガーもどきである。
そして、タローというのは彼の本名では無い。
彼は昔人間だけが暮らす町に住んでいて、彼が十九歳のある時、その町にドッペルゲンガーが現れた。
ドッペルゲンガーは自身の名を持たないオトギである。ゆえに彼らは他者の名前を求め、ドッペルゲンガー達は住民達の名前を片っ端から奪っていくオトギなのだ。
彼はその日ドッペルゲンガーに名前を奪われる。彼が襲われた事に理由は本当に無く、運が悪かったとしか言いようが無い。偶々ドッペルゲンガーがターゲットと選んだのが彼だったのだ。
名前を奪われた彼は、友人は愚か家族からさえもその存在を忘れられ、ドッペルゲンガーに成り代られた。
彼はただ独り自分の本当の名を取り戻すため奔走し、その過程で彼は丁度日本を訪れていたユカリと出会った。
それからユカリは酔狂でタローを助ける事にした。ユカリが言うには一人旅にも飽きていたかららしい。
ドッペルゲンガーから名前を取り戻すためには奪われた本人がドッペルゲンガーを殺せば良い。そのため、彼らは逃げ回るドッペルゲンガーを追い詰めて殺そうとした。
実際、これは途中までは上手く行っており、彼はユカリの助力もあって、後一歩までドッペルゲンガーを追い詰めたのだ。
しかし、彼とユカリは最後の最後でドッペルゲンガーから名前を取り戻す事に失敗する。
ユカリには理解できなかった感情だったが、彼はドッペルゲンガーとは言え、一瞬ソレを殺す事を躊躇った。右手に持ったナイフを突き刺す事を躊躇してしまったのだ。
その一瞬の隙に、ドッペルゲンガーは彼の右手にあったナイフを奪い取る。
ユカリはすぐさま火球を放ちナイフを落とそうとした。
が、それよりコンマ一秒早くドッペルゲンガーは放たれた火球を背中で受け、そのままナイフを自分の胸へと刺した。
彼もユカリもその自殺を止める事は出来ず、彼へと成り代ったドッペルゲンガーは凄惨な笑みを浮かべたまま息絶えたのだ。
こうして彼は自身の名を奪ったドッペルゲンガーを殺す事が叶わず、完全に名前を永遠に失う存在へと変貌する。
ドッペルゲンガーが自殺した瞬間、彼の体へ変化が起きた。足元から全身を包み込むように影が伸び、影に包まれた四肢が粘土の様にぐにゃぐにゃに成って行ったのである。
完全に名前を失った事により、彼の存在自体がドッペルゲンガーへと変質しようとしていたのだ。
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「……と、まあ、ざっくり言うとこんな感じだ。あたしは咄嗟の判断であの時のこいつに『タロー』って名前を付けた。で、あたしの尽力もあって辛うじてタローは人間としての姿を保てたんだが、存在が半分ドッペルゲンガーに成っちまったわけだ」
「……その話は分かりました。では、何でタローはわたしの事を忘れているのですか?」
愛鈴は続きを促した。右眼はこちらを困ったように他人行儀で見つめる彼に注がれている。
「その話も続きを聞けば分かる。ついでに今の内に言っておくが、タローが忘れたのはお前の事だけじゃない。〝全て〟だ」
――は?
愛鈴が聞き返す前にユカリは言葉を続けた。
「半分がドッペルゲンガーに成ったタローは存在自体が曖昧でな。『タロー』って名前も言ってしまえばあたしが咄嗟に付けた仮名だ。山田太郎とかジョン・ドゥとかのな。仮名は名前の通りあくまで仮の名でしかない。他の名前に幾らでも付け替える事が出来るだろう。それがタローの〝力〟だ」
「意味が、分かりません」
愛鈴は首を横に振った。出来るなら両手を振り回したかったが、彼女の左腕は腐り落ち、右腕はまだ上手く動かないでいる。
時子の冷めた手が落ち着けとでも言う様に愛鈴の肩を弱く抑えた。
「つまり、タローはドッペルゲンガーとして相手の名前を奪って自分の物に出来るが、それはあくまでタローって奴の新しい仮名でしかないんだよ。たとえば、タローが李愛鈴の名前を奪ったとするだろ? その時、タローの仮名が『タロー』から『李愛鈴』に上書きされるわけさ」
ユカリはタローと愛鈴それぞれに人差し指を指した後、付け加えるようにその指をクルクルと回した。
「ここで、タローの力の凶悪なところは名前を奪う人数に制限が無いって所だな。まるで個別のセーブデータに上書きしていくみたいに無尽蔵に自分の仮名作っていく。正直すごいぜ? 使い方によってはあたしを本当の意味で殺し切れるからな」
「ユカリ。話を元に戻せ」
時子のスッと入る声にユカリは素直に応じた。
「……悪い、脱線したな。確かに幾らタローが誰かの名前を奪おうがあたしはこいつをタローって呼ぶけど、タローの中では自分の名前はもう李愛鈴に成っている。……ここまでは分かるか?」
「……タローは名前を奪った相手の名を自信の名として上書きするという事ですね?」
愛鈴の返答にユカリがパンッと手を叩いた。
「その通り。じゃあ、愛鈴、質問だ。李愛鈴として上書きした名前をお前に返したらタローはどうなると思う?」
「……元のタローに戻るんじゃないですか?」
キョンシーの少女の答えに、灼髪の少女は三日月の笑みのまま首を横に振った。
「惜しい。確かに元のタローに戻っている。ただ、それはお前のニュアンスとは違う。完全に元の『タロー』という〝あたしがその名前を名付けた瞬間の〟状態へと戻るんだ。ドッペルゲンガーに存在を半分食われ、記憶のほとんどが欠落し、自身に名前があった事さえも曖昧だった最初の状態にな」
愛鈴は五秒ほど、今のユカリの発言を飲み込むのに時間を要した。
ユカリの言い分と愛鈴に残った記憶からして、タローは愛鈴の名前を奪ったに違いない。
それからタロー達に何があったのかは愛鈴に分からないが、タローはその力を使って王志文を撃退したのだ。
そして、戦いが全て終わった彼は愛鈴へと名前を返したのだろう。
ならば、ユカリが言った事が全て真実だとしたのなら、タローがあれから迎えた結末と言うのは、
「……タ、ロー?」
愛鈴は何がタローという青年に起こってしまったのか理解した。それゆえに未だこちらを見つめる青年へと眼を向けた。
「……あなたは、何と言う事をしてしまったのですか?」
青年は、もう愛鈴が知る青年ではないタローは、少女の言葉に困り顔をする。自分には関係の無いクレームを押し付けられた様な顔だ。
正しい。それはあまりに正しい対応だ。〝今の〟タローに〝前の〟タローが何を思ってそのような行動をしてしまったのか問い掛けるのはあまりに酷だろう。
しかし、愛鈴は問わずには居られなかった。
自分は何度も言ったではないか。
「わたしは、わたしは、わたしのせいで誰かが傷ついて欲しくないとあれ程、あれ程言ったではないですか! 何で、どうして、あなたが全てを失わなければいけないのですっ!?」
愛鈴の脳裏を夕食時、浮世絵町の事を楽しげに語るタローの姿が過ぎる。
「タローは言っていたじゃないですか! あなたはこの町が好きだと! その思い出を全て捨ててまでわたしを助ける意味があったんですか!」
キョンシーは激昂した。突然跳ねる肺に体が悲鳴を上げていたがそんな事よりも叫ばずには居られなかった。
しかし、彼女の体は正直だった。限界を超えて酷使された体は急に叫び声を上げた主を咳き込ませる。
愛鈴は肺を痙攣させながらもを更に言葉を続けようとした。
今更何を言っても遅いと分かっている。タローは既にリセットされたのだ。
でも、言わずにいられない。感情の奔流を抑える事が愛鈴には出来なかった。
更に愛鈴は叫びを上げようとしたその時、彼女の首の右の血管に何かが突き刺さる感触がし、瞬間愛鈴の視界が暗転した。




