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色即是空--我思う、されど我は無し 3

***


――来た!


 タローは両足に溜めていた力を爆発させた。太ももから膝へ膝から足へ伝わっていく力は彼の体を前方へと踊り出させる。


 彼の視線の先には今何よりも待ち望んでいたユカリの姿があった。


 今こそ好機。タローは確信した。


 箒に腰掛けて白炎のドレスを纏ったユカリは、上空から緑炎の龍を携えた愛鈴と王志文のすぐ上まで現れ、右手の人差し指を天へと向けている。


 彼女の指先にはココノエが作り出した米の海が広がり、そのすぐ下に空全てを覆い隠す拳大の数十万の火球が生まれていた。


 火球は不規則に回転し、僅かに振動している。空へと固定された火球達は今か今かと赤の女王の号令を待っているのだ。


 王志文はユカリへと振り向いて、それと同時に王志文を守る様に集まっていたキョンシー達がユカリへと飛び出でた。


「ああああああああああ!」


 それに愛鈴は叫びを上げて王志文へ龍を放つ。緑炎を纏う龍は荒れ狂いながら、王志文へと牙を突き立てんとした。


 それら全てを見ながらタローは戦場の中央へと走り、空のユカリへと声を張り上げた。


「撃ち落とせ!」


 はたしてその声が上空五十メートル近くに居るユカリ達に届いたのかは定かでは無い。けれど、何故だかタローは視線の先でユカリが唇を三日月に吊り上げたのが分かる。


 腰ほどまであった灼髪は随分と短くなり、少女の姿と成っていたが、それでも彼女の笑みはタローが知る我儘な上司の物だった。


「――!」


 キョンシー達の爪がユカリへ届く前に、緑炎の龍が王志文へと牙を突き立てる前に、ユカリは天へ向けた人差し指を眼下の愛鈴達へ振り下ろした。


 空を覆っていた火球達は一斉に地上へと射出され、全てを燃やす白炎の雨が愛鈴を、王志文を、キョンシー達を、緑炎の龍を包み込んだ。


 ズガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ!


 絶え間なく、一息の間に放たれる炎の雨の前に地上五十メートルに居た王志文と愛鈴達はどうする事も出来なかった。


 ユカリへと爪を伸ばしていたキョンシー達は火球に爆散して塵となり、残った王志文を守ろうとしたキョンシー達もまた同様である。


 王志文へと後一歩まで牙を迫らせていた緑炎の龍は白炎の雨に体を濡らし、それに悶えながら彼の主人たる愛鈴を自身の体を傘にして守った。


 しかし、龍の体は爆風を遮る事はできない。


 神速の火球は愛鈴達に落ちる度に小さく爆発し、その爆風は王志文と愛鈴の体を下に下に押し戻していく。


 タローは戦場を駆けた。目指すのは愛鈴の落下地点ただそれのみ。自身の頭上に迫る火球になど眼もくれない。


 なぜなら、タローの横目でオニロクが森から飛び出していたからだ。


 オニロクはその剛脚で地面を凹ませながら赤銅色の巨体をタローの左ピッタリに迫らせる。


「うらぁ!」


 赤鬼は走りながらその右腕を豪快に一振りした。


 その鉄腕はタローに当たろうとしていた火球をあらぬ方向へと弾き飛ばし、そこで爆発させる。タロー爆風は届くが、その足を止めるほどでは無い。


 オニロクの体のありとあらゆる所へ火球は落ち、爆発が起きるが、タローの体へ火球が当たる事は無かった。


 この鬼の丈夫さは浮世絵町随一である。彼が居る限りタローにユカリの炎が当たる事は無い。


 タローはオニロクに礼を言う事も無く、礼を言う余裕も無く、真っ直ぐに愛鈴が落下する場所へと腿を振り上げた。革靴が痛むなど気にしない。戦いでとっくにボロボロだ。


 見る見ると愛鈴の体は地面へと押し戻される。龍に守られた彼女の瞳は王志文だけを向いていて憎悪に濡れていた。


 三十メートル、二十メートル、十メートルと愛鈴達は地面へと近付く。同時にタローは愛鈴が落ちるであろう場所まで走り切りそこで、哀れなキョンシーを待ち構えた。オニロクの両の鉄腕が唸りを上げて火球達を弾き飛ばした。


「愛鈴!」


 熱っぽい息を吸ってタローが叫ぶが、愛鈴は視線すらタローに向けない。


 五メートル。あと少し愛鈴達は地に落ちる。


 苛立たしい訳ではなく、タローは舌打ちした。愛鈴にはもうタローの声が聞こえていないのだろう。


 彼女が見えているのは眼前の王志文ただそれだけで、故に彼女は壊れようとしている。愛鈴の左腕は腐り落ち、王志文を見つめる左眼は濁っていた。


 許してなる物かとタローは舌打ちをしたのだ。自分の目の前で壊れさせてなる物かとタローは憤ったのだ。


 そして遂に愛鈴の体がタローの手が届くその距離まで落とされる。


 彼女の頭上に居た龍は欠片しか残っておらずそれでも愛鈴を守ろうと果敢ユカリの炎へと立ち向かっていた。


 愛鈴の体は地面から一メートル半ほど浮いていた。


 タローは飛べないが、跳ぶことならば出来る。


 両足に力を込めてタローは垂直にジャンプした。右腕を真っ直ぐに伸ばし、その掌は愛鈴の額を目指している。王志文だけを見ていた愛鈴はタローの存在に気付く事が出来ない。


 ガッ、とタローの右手が愛鈴の小さな頭を掴んだ。その額は熱を持っている。


 自分の右手が愛鈴に触れたと分かったと同時に、タローは躊躇い無く、〝その言葉〟を口にした。


「名無しのタロー!」


 瞬間、タローの全身を真っ黒な影が包み込んだ。


***


「アイリン!」


 頭上より降り注ぐ激烈な炎の雨音の中、愛鈴は自分の名前を呼ばれた気がした。


 しかし、声は音としてのみ愛鈴の鼓膜を震わせて、言葉としての意味を彼女の脳に伝えはしなかった。


 もう、脳はグズグズと成ろうとしている。左目は既に見えなくなり、脚の感覚さえも消え始めていた。


 彼女の意志を保っていた者は唯一つ。残った右腕で胸に抱いた最愛の髑髏のみ。


 明鈴の頭骨を抱き、愛鈴は真っ直ぐに自分と同じ様に雨に打たれている王志文を見つめた。


 王志文はキョンシー達を傘として炎の雨を防いでいた。村人達の体は雨に打たれる度に爆散し、みるみるとその数を減らしていく。


 ただの肉と化していくかつての村人達の姿に愛鈴の心は揺れなかった。感情はもう消えている。無感動に愛鈴は眼前の王志文を殺す事だけを考えていた。


 けれども、激烈な炎の雨は愛鈴の自由を奪い、彼女と王志文の体をどんどん地上へと落としていく。


 雨には終わりが見えず、ただ愛鈴は耐えるだけだった。


 気付いたら王志文を殺すよう命じた龍は自身の体を傘にして愛鈴を守り、炎の雨に打たれてその体を四散させている。


 この雨が消えても消えなくても、地上に落ちた瞬間、新たなる龍を作り出そうと愛鈴は決めていた。それで自分の体が完全に腐り落ちてしまったとしても構わない。王志文を殺せればそれで良かったのだ。


 その時、愛鈴の視界が突如として塞がれた。微かに残った触覚と隙間から見えるぼやけた視界から何者かが自分の顔を掴んだのだと理解した彼女は、即座にその不届き者を焼き殺そうと緑炎を生み出そうとする。


 だが、現実は愛鈴の全てを凌駕していた。


「ナナシノタロー!」


 腹と胸の間の辺りから、聞き慣れたような声が音として愛鈴の耳を震わせた直後、愛鈴の世界は本当の意味で黒に包まれた。


 黒。


 くろ。


 クロ。


 彼女の額を掴んでいた何者かの右手からドロ墨汁が溢れ出す様にドロドロとした影が生まれ、それが愛鈴の全身を包み込んだのだ。


――――ッ!


 叫びを上げながら愛鈴は自分を包んだ影を風で振り払おうとした。


 出来なかった。


 風が産まれない、否、風の産み出し方が分からないのだ。


 つい先ほど一秒前までは呼吸をするのと同じくらい自然に扱えていた、あの暴風の作り方を愛鈴は分からなくなっていた。


 では、あの紫電は、あの緑炎は?


 どちらも同様だった。彼女の手足と等しいくらい自分の物としたはずの力が、愛鈴には分からなくなっていた。


 影に飲み込まれた愛鈴の力の全てが黒に埋没していく。


 風とは何? 雷とは何? 炎とは何?


 ここは何処だ? 今は何時だ?


 それさえも愛鈴には分からなくっていた。


 何だ? 一体何が起こっている? 何が何が何が何が何が何が何が何が何が?


 愛鈴の脳が正常であったのなら、また、その胸に髑髏を抱いていなかったのなら、彼女はすぐさまパニックを起こしていただろう。


 愛鈴は何もかもが分からなくなっていた。


 自分と言う存在が今何処に居て、何を思い、何をしていたのか。


 全ての情報が黒に塗り潰されていく。


 早く、早く早く早く。この場から逃げなければならない。そうしなければ自分は大切な何かを失ってしまう。そんな確信が愛鈴にはあった。


 しかし、全てが、全てが黒に包まれて、黒に塗り潰されて、黒に埋め尽くされていく。


 その時、唐突に、愛鈴の耳元で声が聞こえた。


「李愛鈴。お前の名を奪おう」


 この声を皮切りにとうとう彼女は自分の名前さえ分からなくなった。

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