捲火重来--Happy New Year ! 2
そして、
――姉さん?
そう、口を開く前に、〝ボトッ〟という音が愛鈴の左耳に届いた。
見ると、そこには〝右腕〟があった。
明鈴の肩口から腐り落ちた、捩じれた白魚の様に白い〝腕〟が無残にそこには落ちていた。
「……………………………………え?」
愛鈴は自分の瞳に映る物が何なのか理解できなかった。
何故、ここに明鈴の腕が落ちているのか。何故、最愛の姉の腕が体へと繋がっていないのか。
何故、何故、何で?
呆然と愛鈴は最愛の顔を見た。
明鈴は彼女の妹へ眼を細めて微笑みを浮べている。
体中を針で刺された様な痺れが愛鈴の全身を走った。
逃れる事のできない悪夢が大口を広げて待っている。
一音一音噛み締めるような最愛の姉の言葉が愛鈴の耳へと届いた。
「愛鈴。忘れないで。私はあなたを愛しているわ」
その時、腐敗が始まった。
白魚のように真っ白だった明鈴の顔がどんどん黒ずんでいき、
パッチリとしていた眼が醜く窪み始め、
強烈な腐敗臭が愛鈴の鼻へと届いた。
「……え? え?」
呆然と愛鈴は声を出すしかなかった。どんどん腐っていく姉の姿をまざまざと眼前で見る事しかできない。
ボトッ。
愛鈴を撫でていた左手が愛鈴の肩へ落ち、背中を転がって地面へと落ちた。
「アイ、シテルワ」
声帯も腐ったのか、彼女の鈴の様だった声が野太く気持ち悪い物へと変わり、愛鈴の耳へと下劣な音色を響かせた。
「ねえ、さん?」
腐敗の加速は止まらない。
ボトッ。ボトッ。
明鈴の右頬が腐り落ち、続いて右眼がボロンと転がり落ちた。真っ黒な眼窩と落ちた右眼には腐汁の白い糸がタラーッと繋がっている。
ボロッ。
明鈴の左耳が落ちた。左耳があった場所から黄白い腐汁がブジュブジュと噴出す。
瞬く間に明鈴の体が崩れていった。
これはもう回避する事のできない悪夢だった。
愛鈴は忘れていたのだ。今、自分の体がどんな状態のあるのかをすっかり忘れていたのだ。
王志文の前で札を剥がしたあの瞬間から、自分の体が腐り始めたと分かっていたのに。愛鈴はその事実を忘れていたのだ。
王志文のキョンシー達は札を貼られていなければ死にながら生きていけないのだ。
これは、悲劇だった、体が腐っていくと同時に、複雑な思考ができなくなっていた愛鈴の頭では明鈴の札を剥がしたら最愛の姉がどうなってしまうのかまでは考える事ができなかった。誰が愛鈴の立場に成ったとしてもこの悪夢を回避できなかっただろう。
グジュグジュのプリンのように成っていく脳では、まともな思考は出来なかった。
むしろ、愛鈴が明鈴の札を剥がす事を思いついた事さえ、称賛に値する奇跡だった。
だが、奇跡が幸福を呼ぶとは限らない。
少なくとも今この場に置いて、最愛の姉を救いたいという愛鈴の想いが、最愛の姉を腐り落とすという悪夢を生んだ。
もしも、愛鈴の思考が正常であったのなら、愛鈴はすぐさま明鈴の札を剥がした時に起こる事が予想付き、もっと他の手段を考えて居ただろう。
また、もし明鈴のキョンシーとしての完成度が愛鈴と同程度以上であったのなら、ここまですぐに腐敗していく事は無かった。
愛鈴はなまじ完成度の高いキョンシーであったがゆえに、愛鈴に比べ格が落ちるキョンシーである最愛の姉が札を剥がされる事で辿る結末を思いつく事さえできなかった。
全ての要素が今この場に起こる悲劇を形作り、それを避ける選択肢は確かにあったが、愛鈴はその選択肢に気付く事ができない状況に居たのだ。
「い、や」
愛鈴は自分の赤いチャイナドレス然とした服が腐汁で汚れるのも構わずに明鈴の体を抱きとめた。
ブジュ、ニチャ、と湿っぽい音が愛鈴の胸や肩を鳴らした。
「止まれ。止まれ止まれ。止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ!」
狂ったように愛鈴は叫ぶ。
それでも、明鈴の腐敗は止まらない。
ボトッ。ボトッ。
今度は右耳が落ち、左眼が落ちた
「――、――――」
もう、明鈴は声すら出せなくなった。
「ねえ、さん。ねえさんっ!」
愛鈴は願うように強く明鈴を抱き締めるが、その力でボキンと明鈴の背骨が折れる。
「――、――――」
腐敗は止まらない。
加速的に明鈴の体が腐り落ちていく。
明鈴の顔の肉は大半が削げ落ちて、頬骨が見え始めていた。
「いや、やだよぉ。いやだよぉ」
愛鈴の祈りが叶えられる事は無い。
既に悪夢は始まっていて、悲劇は終わっている。
***
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォン!
百八つ目の除夜の鐘が鳴り、夜空を七色の花火が彩った時、とうとう、白炎の卵の中に居た雛が産声を上げた。
*
ここでユカリと言う者について少し語ろう。
タローは、ユカリの先祖の誰かがイフリートだかサラマンダーだか火車だか魔女だかの火を生み出すオトギであったと聞いていたが、これは正解ではあるが充分では無い。
確かにユカリのルーツを遡れば炎を操るオトギの一体か二体は居ただろう。しかし、それだけの人の身であれ程の炎を操れるはずが無いのだ。
たとえば、先祖にサトリを持つ、あのココミという者は確かにサトリの力を持っているが耳を塞ぐだけでその力を封じる事ができるくらいの断片的な力しか受け継いでいないのだ。
ユカリの炎の威力は先祖にオトギが居るからという理由だけでは説明が付かない。
では、あの庶民派陰陽師である後藤の様にユカリが自身の力を鍛え高めた結果あれほどの炎を操れるようになったのかと言うとそれも正しくは無い。
陰陽術の根幹は人間の力ではなく自然が持つ力を引き出す事であり、ユカリの様に自身が生み出した力を使いこなす物ではないのだ。
では、先天的な理由でユカリの炎の説明がつかないのであれば、ユカリの力の正体は何であろうか。
答えを出してしまうのなら、ユカリという女性は人工的に生み出された魔女である。
オトギと人間がこの世界で相対して二百年。
人間とオトギの黎明期。人間達はオトギ達を排除しようとした。突如として目の前に現れた空想上の怪物達に恐怖し、彼らを弾圧しようとしたのである。
しかし、今まで地球上に居たどんな生物達からも規格外なオトギ達を殲滅する事は簡単ではない。爆弾をまともに浴びても生き残る様な怪物が銀に触れただけで死んでしまったり、単純にただただ巨大で固い鱗を持つオトギ達が居た。
オトギ達ごとに対処法が違っており、それがまた人類達の攻撃の手を阻んでいた。オトギ達もまた、自分らを弾圧しようとする人類へ怒り、人間たちへ牙を向いた。
ミサイルが飛び交い、戦闘機が打ち落とされ、夜空を雷鳴が駆け抜けて、海から竜巻が昇る。
人間達とオトギ達の争いは泥沼化へと発展していた。
そんな中、ある国のある科学者達が、オトギの力を人間が扱えるようにする事を考え付く。おぞましいオトギ達の力だが仮にそれを利用できれば何よりも心強いと考えたからだ。
その方法の一環として、受精卵となる前の精子と卵子にオトギ達の遺伝情報を付け加える事で生まれてきた子供達にオトギの力を扱わせるという物があった。
当然の事だが人の形として生まれない者達が大半である。ある者は脳が飛び出し、ある者は骨がぶよぶよになり、ある者は体中に蛆の様な眼球が貼り付いた。
彼らはいずれも培養液から出す前に死ぬか、出した側から暴走し殺処分と成った。極稀に生まれる人型を保った者達も一定期間時間を置けば発狂し、その場で殺された。
そんな中、ユカリは極数人しか居ない成功例の一人なのである。ユカリを含む数名は何万と言うかけ合わせの中生まれた奇跡なのだ。
科学者達は歓喜した。ユカリ達を作り出すのにおよそ五十年の時間が経ち、その間人類の人口は半分程度までに減少していたのだ。
ユカリ達成功例は自身の力を制御できるようになった側から人間とオトギの戦場へと送り込まれ、その場に居るオトギ達を殺しまわった。
成功例達が操る力は個体によってまちまちであり、ユカリが与えられた遺伝情報は炎のオトギ達による物だった。
ユカリを形成した何万と言う遺伝情報の中にはその時点で人類達が手に入れたあらゆる炎のオトギ達の物が混ざっている。
その中には不死鳥の物も混ざっていた。
ユカリの中で不死鳥の力が発現したのは、ユカリの体が十四かそこらまで発育した、丁度百回目の戦場に行った時の事である。ユカリはその日オトギ達の罠に嵌り首を刎ねられて殺されたのだが、その日の二十四時ユカリは何事も無かったかのように生き返る。
一人荒野の中眼が覚めたユカリは何が起きたのか自分でも分からず、初め困惑したが、徐々に自分はどうやら生き返ったらしいという事実を知り、また同時に自分の首に埋め込まれていた監視用の爆弾が綺麗に無くなっている事が分かった。
ユカリは自由の身に成ったのだと歓喜して、夜空へと飛び立ったのである。
後に、何度かユカリは殺されたり死んだりしたのだが、それによってユカリはある事実を確認した。
曰く、ユカリと言う者は死亡日の翌日零時に生き返るという特性を持っている。




