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エピローグ

 彼女はうつむいて、私の横を通り過ぎようとした。

 このまま通り過ぎさせる訳にはいかなかった。

 どうして私がこんな場所まで来たのかわからないじゃないか、と思ったからだった。


「待って、自首するのはもう少し後にしましょう」

 人気のいないところに私は彼女を引きずり込んだ。完全に怪しい男だ。

 自分でも何を言っているのか分からなかった。混乱していた。


「旦那さん、生きてたんですよ。あなたは殺人者じゃないんです」

「生きてたら生きていたで、もっと大変なことになるんです! あの人は、そういう人なんですよ!」

 彼女は、憎しみを込めて呟いた。そして、はっとしたように、すみませんと付け足した。


「謝らなくてもいい。なんとかなります」

「なんとかなる、って……じゃあどうすればいいんですか。もう私の人生はめちゃくちゃなんです。すみません笹原さん、こんな事件に巻き込んで。では、これで」

 立ち去ろうとした彼女の手を私は掴む。夢中だった。

 全く、女性の体に触れるなんて、後から考えたらありえないくらい大胆なことを私はしていたものだ。


「あなたのお兄さんは、秋田さん、いや高倉さんを心待ちにしています。会ってやってください。あと、ほんの数日しかないんです」

「どうして、私の旧姓を……」

「そんな話はどうでもいい。会いに行きましょう、高倉が凍死してしまいますから」

「すみません……本当に」

 彼女はまだ混乱していたようだった。けれども、掴んだ手を握り返してきた。彼女の手は温かかった。


 彼女の手を引いて、私は裏路地を歩き出した。待ち合わせ場所は知っている。私の手に水滴が落ちた。雪ではないと、私は気づかなかった。



 高倉が待っているのは教会の裏の公園のはずだった。

 その教会ではミサが既に始まっていたらしく、クリスマスキャロルが外にまで響いている。日本語でも英語でもないらしいが、美しい声だった。

 もしかすると、スイスの公用語のいずれかで歌っているのかもしれない。気障な高倉が選ぶ場所なわけだ。


 クリスマスミサが始まっているということは、もう日付は変わっている。

 今は二十五日、彼女の誕生日だ。

 彼女はおそらくそのことに気づいていない。彼女の中では忌まわしき誕生日の前日だ。


 公園には人気がなかった。雪が積もり、すべてを覆い尽くす雪が該当に照らされている。

 その雪原の中に、ぽつんと一人の足跡があった。足跡は公園の端のベンチまで続いて、そのベンチには人が一人座っている。

 後ろを向いていて顔は分からないが、髪が短いのがわかる。


 高倉だった。


「楓さん」

 彼女は今、高倉でも秋田でもない。どう言おうか迷ったあげく、私は名前の方を使った。

 前を向いたまま、私は彼女の手を離すのを忘れて話しかけた。

 手をつないでいるという事実は頭から消し飛んでいたが、彼女の手の温もりはずっと感じていた。


「お兄さんに、会いにいくべきだと思います」

「私がいって、いいんでしょうか」


 私はうなずいた。彼女に伝わったかどうかは分からない。私たちは二人とも、高倉の方を見据えていた。

 彼女は私の手を離した。手に冷たい風が吹き込んでくる。そのまま彼女は公園に足を踏み入れた。

 雪の積もった高倉の足跡の横に、少し小さな足跡が出来てゆく。ベンチの前に彼女は立った。

 高倉が振り向いた。


 私は公園に背を向けた。賛美歌のメロディが聞こえる。

 神の御子の誕生日を祝う曲は、彼女の誕生日を祝う曲でもある。

「ハッピーバースデー、そしてメリークリスマス」

 つぶやいた声は、誰のものともならずに冷気に溶けた。

 高倉は、私と同じ気温の下にいるはずだ。けれど、私が今感じている手の冷たさを、高倉が感じるということは多分ない。もう高倉は私の隣にはいない。

高倉と私のあまりの違いに、なんとなく涙が出そうになる。

 

 坂を下り、私は裏路地を進む。地面の雪は、私の足跡が溶かしてしまっている。

 彼女がすべてを告白したあの喫茶店を後目に、私は自動改札をくぐり抜けた。


 駅のホームからは、あの教会が見えた。兄妹はまだ、教会の裏にいるのだろうか。いずれにしろ、私は帰らなければならない。

 クリスマス、いや二十五日は決算日の前日だ。夜が明けたら仕事が待っている。



 私はまた一人になった。高倉とは違う。



 電車を乗りながら黙って外を見ていた。電車の窓に映る人々の間に、彼女がいるような気がする。

 決算日の前だ、前だと私は自分に暗示をかける。車両を移動しても、彼女の横顔や後ろ姿が、何度も視界に入る。はっと頭を上げるが、もちろんそこに彼女はいない。


 ……だめだ。

 仕事に追われる灰色の聖夜のかげで、私は恋をしてしまったかもしれない。

 あの、少女をそのまま大人にしたような純朴な聖女に。


 高倉は別の世界に行ってしまった。けれど、同僚、いや友達は、生きる世界が違っていても、隣にはいられる。

 落ち着いた頃に、もう一度電話をしよう。


 彼女の自首はうまくいったのか、私が彼女にもう一度会うのには、どれくらいかかるのか、と。

 

もちろん、こう付け加えておこう。私はいつまでも待っている。

お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。

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