ごめんなさい
私は、彼女の言葉が真実だと思ってはいなかった。
いきなり、知らない人間に、自分の罪を告白するとは到底思えない。
しかも、人を殺したかもしれない、と。冗談じゃない。
どれほどが真実か、そして彼女はわざと嘘をついたのか。
それを確認したいという好奇心で、疲れているはずなのに、私は見知らぬ女性と喫茶店の同じテーブルについていた。
「落ち着いてください」
心臓の拍動音が、耳につく。息が荒い。
落ち着いていないのは自分だったにも関わらず、私は彼女にそう言葉をかけた。十分ほどして、彼女の涙が止まる。
「すみません、ほんとうにすみません」
「あの」
私は声を潜め、手を彼女の耳に当ててささやいた。
「どういうことなんですか。ーーその、殴り殺すって」
あの彼女の言葉は、私の聞き間違いだったのだろうか。そうだと信じたかったが、現実はそううまくない。
たとえば、彼女が独身だったら少女マンガのような恋愛に発展することもあっただろうが、彼女は主婦だ。それと同じだ。私だって、恋愛がどうこうするような男じゃない。
悲しいが真実だ。だって、ここにあるのは現実だもの。
彼女は、数回深呼吸をして私に向き直った。覚悟を決めたように私には見えた。
一方で、その覚悟を決める相手が私で良いのか、とも思える。不安な気持ちが私の中に渦巻いていく中、彼女は話し始めた。多分、嘘ではなかったんだろうなと思った。
「私の夫は、私の全てを管理しようとしてくるような人間なんです。近所にテレビ局があって、もちろん俳優さんとかもよく見かけるんです。夫はそれが嫌だそうで、そこにいくと怖い顔をするんです。私は自由に外にも出られないし、まともに自分の物も買えないけれど、夫は怖いので大人しくしてました」
自由に外にも出られない。
そうだ、だから、高倉は彼女にメイプルのインテリアを購入したのだ。
彼女の自室に何もない理由にも気づかず、殺風景な部屋だったなぁと彼は暢気にインテリアを買い、今まさに彼女を待っている。
どうして気づかなかったのだろう。彼も、私も。
「兄に今日呼ばれて、夫の目を盗んで、勝手口から出ようとしたんです。でも、夫に気づかれてひどく怒られた。そのまま外に出ようとしました。きっと、香川さんーー隣の家の人に因縁をつけようとしてるのだと思ったんです。これ以上、香川さんに迷惑をかけたくなかった。だから、私はーー」
彼女は一度話を止め、大きく息を吸った。
「だから、私は側にあった夫のゴルフクラブを掴んで、フルスイングしたんです。ちょうど、笹原さんが、私を脅していた男にやったように」
そうか、彼女があのとき妙に驚いていたのは、私が男にジーニアスをフルスイングしたからだったのか。
「そうしたら夫は血だらけで倒れたんです。ぴくりとも動かなかった。もう頭が真っ白になって、救急車は呼びましたけど、でも、私は荷物も持たずに、たまたまコートのポケットに入っていた五百円玉でこの駅にやってきました。逃げたんです」
でも、と彼女はうつむく。私は言葉をかけることが出来なかった。
「駅に降り立ったとき気づいたんです。人を殺しておきながら、兄に誕生日プレゼントをねだりにいく資格は、私にはありません。帰るだけの電車賃すら怪しいんです。夫が見つかる前に、自首したいんです。でも、私にはそんな勇気はなかった」
涙でぐしゃぐしゃの顔を彼女はあげる。
「ごめんなさい。もう少しいさせてほしい、とお願いしたのはそういうことなんです。ーーもう笹原さんに言ってしまったから、ここにいる理由はありません。ありがとうございました。いつか必ず、たまごサンド代はお返しします」
私が慌てて勘定を済ませているうちに、彼女はもう遠くにいってしまったらしい。彼女の姿はどこにも見えなかった。
雪は止んでいたが、寒かった。コートの中が汗で蒸れているのがよくわかる。
この中を、高倉は待っている。
プレゼントは妹に渡してもどうしようもない品に変わり果て、彼女自身も犯罪者に成り果てたことに気付かず、来ない妹を彼は待ち続けるはずだ。優秀な高倉が会社を休む、ということはそういうことだ。会社を休んだのだから、何としてでも目的を完遂するだろう。
あと数日。あと数日だから妹にプレゼントを渡してやりたいだと? ふざけるなよ。
そう叫びたかった。高倉に殴り掛かりたかった。
知らなければ、私はきっと彼女を見捨てていたに違いない。
私の灰色だが平凡なクリスマスイブは、平凡なまま終わっていたのに、彼の妙な計画ですべてが台無しだ。
しかし、今、彼女の懺悔をきいてしまった以上、もうためらいはなかった。
私は、この非凡な聖夜を心のどこかで楽しんでいるらしい。才能もなにもない私にとっては、二度と出来ないような冒険だ。
何でもやってやろうじゃないか。