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聖女の告白

 救いの天使のような駅明かりを目指して、倒れかけながらも歩き出したとき、私の袖を誰かが掴んだ。


「あの」


 さっきの女性だった。

 走り去ったように見えて、路地の端で待っていたらしい。

 うつむきながら、けれどしっかりと私のコートの袖を握りしめていた。


「ありがとうございました」

 蚊の鳴くような声だったのに、彼女の声は私にしっかりと届いた。


「お礼がしたいので、住所を教えていただけますか」

「いや、お礼なんて結構ですよ」

 というより、私ははやく帰って熱い風呂につかりたいというのが本音だった。


「それでは私の気がすみません」

 彼女の視線は熱い。真面目な風貌だ。私はうろたえた。そもそも、異性と話すのは三ヶ月ぶりくらいになる。彼女が私を見る。動けない。

「今日は、ほんとうに散々だったから、嬉しかったんです」

「どうかしたんですか」

 彼女ははっとして私の顔を見つめた。そして、私から、涙で赤い目をそらした。


「たいしたことはないんです」

 彼女はかなり無理をしながら笑った。


「えーっと」

「笹原と申します」

「わたしとさっきの笹原さんが似ていたものですから、つい思い出しちゃって」

 さっきの笹原さん、という言葉になにかが引っかかった。

 しかし、大して気にはならなかった。それよりも、この寒さの方が私にとっては重要だった。


「とりあえず、向こうに行きましょう。ここでは風邪を引いてしまいますから」

 私は喫茶店を指さした。もう少しで日付が変わるというのに、喫茶店はまだ開いていた。よく見ると、二十四時間営業だという。

 なるほど、需要は少ないが、供給も少ない。でも、ひとつひとつの需要は重いらしい。


「結構です。お金、ほとんどもっていないので」

 彼女はてぶらだった。


「いいですよ、そんなの」

 遠回しな拒否に私は気づかなかった。寒いからと言う理由で、私は喫茶店に引っ張りこんだ。

 彼女が嫌がっていなかったことが救いだったが、だからこそ、私は気づかなかったのかもしれない。



 喫茶店の中の軽く温かい空気は私には不釣り合いに思えた。彼女も同じらしく、妙にそわそわしていた。

 店員は、私たちの動作に関係なく席に案内してきた。去るときに一度、舌打ちをしたのが聞こえる。カップルに見えたのかもしれない。

いや、私は聖夜にすら残業に追われる、女なんて想像上の産物と思っているようなしがない会社員ですから、と大声で言ってやりたいが、そういうわけにもいかない。


「なににしますか?」

「一番安いもので」

「いいんですよ、好きなもので」

「では、たまごサンドで」

 たまごサンドは一番安い料理らしい。それに気づいた彼女は、慌ててサンドイッチが好きなのだと付け加えた。


「私も家でよく作ります。夫はたまごサンドが嫌いだったんですけど」

 店員がサンドイッチを机においた。不毛な別れ話に巻き込まれたくないと考えられたのかもしれない。

 逃げるように店員は立ち去った。

 彼女は料理に口をつけようとしなかった。


「あの」

「秋田です」

「秋田さん、どうぞ食べてください。俺が食べづらいですから」

「いいんですか」

「どうぞ」

「すみません」


 彼女は、慈しむようにサンドイッチをかじった。

 当然、サンドイッチを食べている間、彼女が話し出すわけはなく、口べたな私は話題が見つからない。場が一気に静まりかえった。

 手持ち無沙汰になった私は、こっそり彼女を観察していた。薄々気づいていたが、彼女には妙なところがあった。


 彼女は、ほとんど何も持っていない。だから、男に狙われたのだろう。

 こんな時間に一人でうろついていたのもおかしいが、そもそも、財布を持たずに駅前にいる、ということが不審だった。


「秋田さん、どうして、何もお持ちでないのですか?」

「いえ……あの、慌てて自宅を飛び出してきたんです」

「こんなに夜遅くに?」


 私が怪しんでいることに彼女はおびえだした。

 私だって、あからさまに人を不審がるつもりはなかった。しかし、私には、この状況で感情を隠すなんてことは無理だった。

 これ以上彼女を怖がらせるのは忍びなく、伝票を摘んだ私は席を立とうとした。


「あ、いや、なんでもないんです。すみません。じゃあ俺はこれで。なんか、本当にすみません。

ではーー」

 この言葉で、私の灰色のクリスマスイブは終わるはずだった。

 高倉が妹に精を出そうが、恋人が仲良く歩こうが、私には関係のない話になるはずだった。


「待ってください!」


 彼女は立ち上がって叫んだ。客の視線が一斉に集まる。

 彼女はすぐに椅子に座り直したが、好奇心旺盛な客の視線はまだこちらを向いていた。


「もう少し、もう少しだけ、ここにいて頂けませんか」

「別に、俺は構いませんが」


 訝りながら私も大人しく座り直したが、彼女が私と話をしたいわけではないのはすぐに分かった。

 必死に話題を探しているが、うまく見つからないらしく、うつむきながら震えている。


 彼女は、私に帰られたら困る何らかの事情を持っているらしい。


「どうしたんですか?」

「大したことではないんですが……」

「あの」

「…………」

 疲れていた私の中で、何かが切れたのかもしれない。

「何か隠していませんか、秋田さん」

 無意識にそう訊いていた。


「えっ」

 彼女は絶句した。私は我に返って取り繕おうとしたが、彼女の方が一瞬早かった。

「ごめんなさい」

 彼女はいきなり深く頭を下げた。また涙が流れる。

 私は焦った。口をついて、とんでもない言葉がでていたらしい。


「わたしなんです。わたしが悪かったんです」

 顔を両手で押さえ、嗚咽をあげて彼女は泣き出した。

 ただ泣き出しただけではないことはすぐにわかった。懺悔だ。

 彼女の深い後悔が私ににじりよってきた。


「逃げてきてごめんなさい。お兄ちゃんに会う権利なんてないのに、会いたいなんて思ったのがいけなかった。

 いい歳して、誕生日プレゼントだなんて。やっぱり、私、キリストに嫉妬されてる。誕生日にいいことなんて何もなかった。

 でも、今日だけはあんな夫を振りきってでも、会いたかった。そのために、そのためにわたしはーー」


 いやな予感がした。私の顔から血の気が引く。

 妹にプレゼントを贈ると言って笑う高倉が思い浮かんだ。

 もしかして、いや、もしかしなくてもそうだ。こんなに条件の当てはまる人間が、私の周りに二人もいるわけがない。世界は狭い。

 泣きじゃくりながら、途切れ途切れに彼女は言葉をつなげていた。


「わたしなんです。夫を殴り殺したのは」

 彼女は顔をおさえる。指の隙間から涙が流れ出した。

「わかりません、もしかすると、死んでないかもしれないかもしれない……確認していないから……でも、でも!」


 なんてこった!

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