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灰色の前夜祭

 数日経った。昨日も、今日も、仕事が一段落したときには、既に時刻は十時半を回っていた。


 メールは送った。報告書も出した。あとはもう急ぎではないはずだ。

 もう疲れを感じるというレベルではなかった。机の上のものを手当たり次第に鞄につっこみ、走るようにして会社を飛び出した。

 上司は徹夜のつもりらしい。咎められたくなかったのもあるが、罪悪感が私を急かせた。


 まだ雪が降っていた。高倉と雑貨店に行った日の昼から、細々と雪は降り続けている。

 地面には雪が積もり、道行く人が踏みしめて溶けた雪が靴を濡らす。

 表の繁華街には、太陽放送のアナウンサーが、クリスマスイブに関する取材で盛り上がっている。私はそれを避けるように裏路地に入り込んだ。

 しかし、高倉に教えてもらった裏路地は、私と彼以外、誰も通っていないらしい。足跡にも雪が積もっていた。


 寒くても、両端が高い壁の裏路地にはほとんど風が吹かない。

 あの日から、私は毎日のようにそこを使っていた。


 その私が、昨日までは人っ子一人見かけなかった裏路地に初めて人を見かけた。しかし、ただの通行人ではなかった。


 私より数歳ほど若い、二十歳を過ぎたくらいの男が、女性に詰め寄っていた。

 女性の方も私より少し若く、大人しそうでかなり美人だ。脅しているのか、因縁をつけているのか、暴行寸前なのか分からないが、とにかく不穏な状況ではあるらしい。あかんやつや。


 当初、助けるつもりは全くなかった。疲れていたわけだし、私より体格の良い男に喧嘩で勝てるわけもない。

 営業の高倉ならともかく、開発部の私が口で勝てるとも思えなかった。


 しかし、今、二人と同時に目が合ってしまった。男の顔つきは険しくなり、女性の目が潤む。

 ……ここから逃げ出すのは、高倉でも無理だ。


 私は息を吸った。

 女性に当たる危険性なんて考えもせず、私は鞄を振り回した。武器らしい武器もないが、向こうも生身の人間である。

 ゴルフの接待を思いだし、あのときと全く同じフォームで、鞄をフルスイングした。女性はあっと小さな声を上げた。三十路の疲れ果てた男がいきなり鞄を繰り出してくるとは思わなかったのだろうか、男は顔に鞄を食らってよろけた。

 

 道の向こうを指さして女性の方を見ると、彼女は頷いて駆けだした。

 体勢を立て直そうとした男が女性を振り向いたのを狙って、私はまた鞄で殴りつけた。

 後から考えてみると、帰宅時に私が鞄に詰めたのは、机上のもの全てである。

 私は紙の辞書、それもジーニアス英和辞典を鞄に入れていた。そして、ジーニアスは英語教師の武器、いや凶器である。


 男は意外そうに私の鞄を見た。私の鞄がこんなに重いものとは思わなかったのだろう。ジーニアスが入っているだなんて、思いもしないに違いない。男は得体の知れない重い鞄で、殴られ続けていた。

私も、得体の知れない衝動(おそらくストレスに起因する)に駆られながら殴り続けていた。

 

 私が鞄をまた振り上げたとき、男の目に涙が浮かんでいるのが見えた。恐らく、反撃はして来まい。

 私は座り込んだ男を放って裏路地を駆け抜けた。

 いつの間にか、雪は強くなっている。風は直接当たらないが、寒い。


 なんてこった。

 こんなに遅くまで仕事をしていたというのに、女性に襲いかかる男を倒すだなんて。私は社会に貢献しすぎる。世の中みんな、高倉みたいな奴ばかり褒めるというのに。あーあ、褒めてろ褒めてろ。

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