そのまた向こう
その日を境に、私と高倉が会社で会うことはほとんどなくなった。
唯一会えるのは昼食くらいのもので、朝も、仕事中も、帰りも、ずっと私は一人である。
寂しいとは思わなかった。高倉は気の合う同僚に過ぎないし、残業の疲れで、何も考える気は起きない。
あれから数日が過ぎ、孤独な一日にも慣れた頃の話になる。
私はずっと英語のメールのことばかり考えていた。家では、押入から大学受験のテキストを引っ張り出して読んでいたし、朝には、電車内で電子辞書を使う学生を横目で見ていた。私はやはり紙の辞書を使っている。
昨日もそうで、もちろん今日の朝もそうしていた。空いた座席に座り、膝の上にノートパソコンを広げる。 どういうメールを送ろうかと考えていると、ちょうど一通のメールが私の元に届いた。
よいクリスマスを。ロンドン本社のエリート社員からのメールの文末にはそう書いてあった。
私にとって、今日は二十四日であって、クリスマスイブではなかった。彼にとってはクリスマスイブらしい。
ロンドン支社は余裕があっても、日本支社では暴風雨が吹き荒れていた。仕事は消しても消しても現れる。
まるでゴキブリだ。私は、朝のメールの内容などほとんど忘れてひたすら仕事に没頭していた。
みなが黙っていた。ペンとキーボードの音だけがオフィスに響く。たまにアクセントとして立ち上がる音が聞こえる。そんな状態が何時間も続いた。
夜の九時を回った頃、私は、眠気覚ましのコーヒーを買いにオフィスの非常階段をのぼった。
自販機から缶を取り出そうとしたとき、怒声が耳に入る。思わず聞き耳を立てると、確かに高倉の声だった。
「十時からでいいんです! 帰らせてくださいよ!」
「おまえ、今がいつか分かってんのか? 決算日の前だぞ!」
「こっちは来年からスイスに転勤なんだ! 準備くらいさせてくださいよ!」
「決算日が終わってからにしろ!」
「それじゃ間に合わないんです!」
ひときわ大きな声で叫び、オフィスの扉が開いて、中から高倉が出てきた。
缶コーヒーを手に立ち尽くす私と目が合って、二人とも動きが止まった。
「……大変だな」
「まあ、上司の言うこともよくわかるんだけど、事情があるから」
「一生モノの事情だもんな。今日、楓さんに渡すんだろ?」
私は高倉が抱える包みを指さした。パステルカラーの包装紙にピンクのリボンは、あまりにも女性的すぎて高倉には似合わない。それを後生大事に抱えるも、残業の疲れがにじみ出ている高倉の姿は、シュールなのに目を引く。
哀愁漂う笑顔で高倉は頷いたが、目の下には隈が出来ていて、普段の色気は全くない。
「いいんだ。無理矢理にでも休んでやるさ」
高倉の息はあがっていた。
寒さをこらえるかのように、深呼吸をしているようでせわしなく息をついていた。
「だから、もう俺は帰る。笹原も頑張れよ」
高倉は私の肩を何度か優しく叩いて、オフィスの扉に手をかけた。
「高倉」
私は思わず声をかけていた。高倉が振り向いて、不思議そうに私を見る。その表情を見て、高倉がもう私と同じところにはいないということに気がついた。彼は向こうに行ってしまう。いや、すでに彼の人生は、私とはぜんぜん違うところにあるのだ。
一瞬で私の中に落ちてきた様々な感情を隠して、私は手を振る。
「メリークリスマスイブ」
高倉は意外そうに笑って扉を開けた。私はコーヒーのプルタブを開けた。
まだ、今日中に終わらせなければならない仕事はたくさん残っている。




