改造ビールと二重のステーキ
『夏は暑い』
喪服を着た私が火葬場の釜に入る祖母の棺を見ながら頭に浮かんだのは、そんなくだらない真理だった。
『夏は暑い』
考えない様にしても目の前に明確な文字が浮かんでくるかのように、こびり付いたワードが頭から離れない。
吸い込む空気すら熱い中、背中に汗をツツーッと滴らせながら、こびり付いたワードに対抗する為に一つの事を頭に思い描く。
〝チンチンに冷えたビールを喉に流し込む〟
なぎら健壱氏の定番フレーズ「チンチン」である、「チンカチンカのルービー」だったか?暑さに沸いた頭の中をどーでも良い物事がグルグル回る。
唯ひたすらに近未来の幸福を思い描く事によって、爆熱光線を放つ真夏の太陽に熱せられた地上の中でも、狂った様な熱を放つ火葬場の釜などという局地的地獄から、せめて精神だけでも逃避した。
祖母は100歳を超え、親族は皆、悲しむよりもお祝いムードだった。
皆口々に、
「良く生きたね、一世紀だよ。人間って凄い」
「苦しまずにポックリ逝くとは羨ましい」
「私は絶対無理だわ」
「明治って少し前まで江戸だぜ」
などと本音を吐露して些かも取り繕う事は無い。
先日も老人ホームの職員さん達が自宅まで来て涙に鼻を啜ってはお悔やみを言ってくれたが、それを受ける親族はにこやかに会釈をするという逆転現象が起きていた。いや、逆転でもないか、まあ良しとする。
祖母が死後の為にと用意していた箱の中に入っていた賛美歌を皆で歌ったが、30枚も刷ってあった紙を見て、
「おばあちゃんどんだけ来ると思っとんねん」
とのツッコミに老人ホームの責任者が思わず笑ってくれた時から、しんみりムードは掻き消えて和やかなムードとなった。
更に箱に入っていた70代の頃の写真に皆で「誰やねん」とのツッコミが入る事で場の結束感が高まる。
仲間となった職員さん達には、お土産として持ってきた、有名産地の桃一箱を友情の証としてプレゼントした。
翌日の老人ホームの良いおやつになると言っていたから、お仲間に振る舞えた祖母も本望だろう。
そんな和やかムードの通夜が明けた今日、出棺の時に感極まった叔母が、
「お婆ちゃんありがとう!」
と叫んで棺桶にすがり付いた姿に、不覚にも胸を突かれて、危うく涙を流す所だった――
という事は今はどうでも良い! 夏は暑いのだ。それが問題だ。
釜で焼かれる間も太陽は容赦無く照りつけ、離れても熱を持つ釜で左半身を遠火焼きされながら、若手は年長者に日陰を譲りジッと耐える。ただ耐える。
二本足で立ち続けるとはどういう事か、人間の影とはこんなにも濃いのか、太陽光線に被爆したこの頭皮は十年後にどのような惨状を呈するのか。ネクタイという物は何の為に存在するのか?発明した奴は誰だ、出てきてここで土下座しろ。
取り留めの無い妄想が暴走してこんがらがる頭、生命の危機に脳内分泌物が溢れ出したのか、冷静な思考はアドレナリンの海に沈んだ。
焼き始めてから一時間、とっくにパンツはビショビショに濡れ、生ぬるい股間の神経は痒みを訴えてうるさい。
カスカスに焼かれた祖母の遺骨が取り出される頃には、精神をカスカスにすり減らされた私は、骨拾いもそこそこに、急かされる様に家路に急いだ。
もう我慢の限界だ。いや、限界はとっくの昔にブッチギリ、裏返って気持ち良くすら感じ始めている。やばい、このままでは新たなステージの扉を開ける事になってしまう。
舌や乳首、果ては陰部にまでピアス穴を開けるビジョンがチラついて、身震いしながら家路を急ぐ。
途中のゴミ箱に百均で買った黒ネクタイを憎しみを込めて叩き捨てると、少しは仇をとった気がした。
軽くなった頭の中は冷蔵庫に並んでいるはずの黄金水の事でいっぱいになる。
アパートの三階角部屋のわが家に辿り着いた時、体は完全にビールを迎え入れる準備が出来上がっていた。
その手はビール缶のプルトップを開ける為に、その舌はホップの苦味を味わう為に、その喉は容赦ない炭酸に洗い流される為に、その胃は発泡し続ける液体を受け止める為だけに存在していた。
解錠してドアノブを回す手は焦りに震え、ドアを開け――られない。おかしい、いくら回しても開かない。と、その時、
「あいてるよー」
間延びした女の声が聞こえてくる。いや、閉まってるし。
『なんだマキちゃん来てたのか』
マキちゃんこと長谷川真紀は、七年付き合っている腐れ縁の彼女だ。
彼女とはいえ看護師のマキちゃんとは、平均的サラリーマンの私とは休みが合わず、いつも夜の居酒屋か、夜勤明けにそのまま転がり込んでくる時しか会う事は無い。
そうか、今日は夜勤明けだったか――
そんな事はどうでもいい! ビールだ! ビールを飲まねば狂い死ぬ。
震える手で鍵を回すと、奥の方で後ろ手を振る彼女を無視して冷蔵庫にダッシュする。
勢いに任せて開けた冷蔵庫の下段には買い置きのビールが――無い!
変わりに黒々とした立派な大球が鎮座していた。
「スイカ買ってきたよ!あと、ステーキ有るから食べよ」
上機嫌のマキちゃんが声を上げる。
いや、いやいやいや! ビールは? 昨日買い込んだ六缶入りのキリン一番絞りは?
嫌な予感に打ち震えながらマキちゃんの座る六畳間に向かうと、
「あれっ日曜出勤?」
というマキちゃんの手には俺のビール、更にフローリングには空き缶五個がっ!
驚愕に目を見開く私を見て『?』という顔で手に持ったビールを飲もうとするマキちゃんの腕をガシッと掴むと、
「殺す気かっ!」
と声を荒げる。カラカラの喉に痰がからんで変な発音になったが、そんな事はどうでもいい。現時点での問題はマキちゃんの持つ缶の中身である。
さっきチャポンと揺れた感じからすると、残り半分が良い所か?
「ごめーん、スイカ入れたらビール置くとこなくてさ、冷えてる内に飲まないとビールに悪いと思ったら、全部飲んじゃった」
ヘラヘラと言い訳をかますザル女を無視して缶ビールを取り上げる。
くそっ! くそっ! なんて事だ、500ml缶に半分も残って無い。良いとこ200ml位か。
絶望の淵に立たされた私を見上げるマキちゃんは、夜勤明けにしこたま飲んだせいで赤ら顔を緩ませながら今にも寝そうにユラユラと揺れている。
悔しいが、普段から飲み始めると止まらなくなる性分を知っている私は、力無く全てを受け入れるしか無かった。彼女とて悪気があったわけでは無いのだ。拳を固めて言葉を呑み込む。
こうなったら、残されたこの200mlをいかに美味しく飲むかにシフトチェンジするしかない。
早速冷蔵庫に向かった私は、冷凍庫で凍らせたビールジョッキを取り出すと缶の中身を注いだ。大きなジョッキに頼りなく溜まるぬるくなり出したビール。泣きそうだ。こんなんじゃ舌も喉も胃も喜ぶ間も無く飲み干してしまう。
そして酔うこともなくパーティーは終了してしまうだろう。
肩を落としかけたその時、開けっ放しの冷凍庫に鎮座ましますウォッカの瓶が目に入った。
天啓頭をよぎる。
次の瞬間、瓶をとりだすと躊躇無くジョッキに注ぎ入れる。200mlが300mlには増えただろうか?
たまらずグビリと一口飲むと――美味い!
冷えた改造ビールが五臓六腑にしみわたる。予想外のうまさに舌が震え、喉は洗われ、胃がガツンと酒を受け止める。
そして後から上がってくるウォッカの強烈な酔い。
意気揚々とテーブルに戻った俺は、マキちゃんが作ってくれたステーキを見る。
何枚買ったのだろうか? 既に食べた形跡の有る皿の上には分厚いステーキが二枚丸々残っていた。
改造ビールをもう一口グビリと飲んでゲップをかますと、皿にかかったナイフを掴み、フォークで抑えながら一気に二枚とも切って口に頬張る。
肉汁が溢れ出て口を満たす。おおぶりに切った肉片に咀嚼するのも一苦労しながら顎をワシワシと動かすと、後から後から脂が染み出てくる。
これは駅前の丸精の国産単角牛か? 隣で眠り始めたマキちゃんを見ながら、もう一口グビリとやって肉を流し込んだ。
『こんなに良い肉を買ってスイカも買ったら夜勤手当もふっ飛ぶだろうに』
人間とはままならない生き物だなぁとつくづく思う。ビールと肉に癒されてまともな思考の戻り始めた私は、幸せそうに眠るマキちゃんを見ながら黙々と肉を食い、酒で流し込んだ。
到底300mlでは足りない私は、ウォッカの瓶を取り出すと、面倒臭いからそのまま口を付けて飲み出す。
ついでに味変を求めた私はスイカを切り分ける。冷え始めのスイカは真ん中が少しぬるいが、シャキッとした歯触りが心地よく、脂にまみれた胃に優しい。
ウォッカの辛さをスイカの甘さが癒し、スイカの甘さをウォッカが洗い流す。延々と止まらないループにはまった私は、酔いつぶれて眠るまで飲み続けた。
翌朝酸っぱい臭いで目覚めるとフローリングで直寝だった私は慌てて時計を見る。大丈夫、まだ出勤まで一時間はあるな、とホッとして床を見ると、酸っぱい臭いの正体が有った。
ピンクのゲル状物質がお好み焼きのようにポッテリと広がり、湿った口を手で拭うと同じ物がこびりついていた。
いわゆる寝ゲロという奴だ。
悪臭を放つピンクのお好み焼きを見つめて茫洋と座る私の横で、マキちゃんが「うーん」と寝返りをうつと、伸ばした手がピンクのブツを叩き飛ばした。
私はイチゴとウォッカ一瓶でピンクのブツを生産した事があります。