起動音
引っ越し先のワンルームには、まだ段ボールが積まれたままだった。パソコンは実家に置いてきた。この部屋には、テレビもスマートスピーカーも、音の出るものはほとんどない。
夜、荷解きをしていた小坂の耳に、あの音が届いた。
タララララーン、という、柔らかく上がっていく和音。
パソコンの電源を入れたときの、Windowsの起動音だった。誰の耳にも馴染みのある、条件反射で「電源が入った」と分かる音だ。
小坂は反射的に、部屋を見回した。パソコンはない。デスクさえまだ組み立てていない。段ボールの山と、床に置いたスマートフォン、それだけの部屋だった。
隣の部屋の音だろう。壁は薄い。小坂はそう考えて、荷解きを再開した。
しばらくして、また鳴った。
タララララーン。
さっきよりも近い気がした。小坂は手を止め、耳を澄ませた。隣室からだとしたら、こんなにはっきり聞こえるだろうか。音は、壁の向こうというより、部屋の中、それもかなり近い場所から聞こえたように思えた。
小坂はスマートフォンで、Windowsの起動音を検索し、実際に鳴らして聴き比べてみた。同じ音だった。音程も、和音の重なりも、完全に一致していた。
その夜はそれきり鳴らず、小坂は荷解きを終えて眠った。
翌晩も、同じ時刻に鳴った。
タララララーン。
三日目には、二度続けて鳴った。まるで、電源を入れて、一度シャットダウンして、また入れ直したかのような間隔だった。
小坂は不動産会社に電話をかけ、この部屋で以前パソコンを使っていた人物について尋ねた。担当者は、前の住人については個人情報のため答えられないと言いながらも、一つだけ教えてくれた。
「前の方パソコンを置いていったみたいです。かなり古い機種だったらしいですが……」
見つかったとき、部屋の中には、ノートパソコンが一台、開いたままだったという。電源はとうに切れていたはずだ、と担当者は付け加えた。
小坂は電話を切り、静まり返った部屋を見渡した。パソコンはどこにもない。それでも、その夜も同じ時刻になれば、あの音は鳴るのだろうと、なぜか確信していた。
タララララーン。
もう驚きはしなかった。ただ、体だけが、いまだにその音を「電源が入った合図」として、正確に覚えていた。




