悪魔召喚術について
キリスト教文化である欧米には悪魔召喚術と称される概念がある。しかし、アブラハムの宗教は中東で生まれ、当初は多神教的な性質やアニミズム的な性質を含んでいた。
### プロテスタントから資本主義へ
古代ローマ(753BCE-476)は、当初キリスト教を迫害したが、ミラノ勅令(313)によってキリスト教を受容し、第1ニカイア公会議(325)ではイエス(6BCE-30)を神と定義して「異端」への排他性を強めた。また西方教会と東方教会が分岐し、それぞれカトリック教会と正教会になっていった。ヨハネス・グーテンベルク(Johannes Gutenberg、1393-1468)による印刷術を契機とする宗教改革によってカトリック教会からプロテスタントが分かれた。
一方、現代社会においては学校で教育されるような主流の言説が「事実」とされる。その部分として、人間の個人主義的な利己性や、物質的な価値が、自明かつ唯一の客観的な事実とされて、近代科学は歴史的な宗教と区別される。しかし資本主義は、富める人々をより富ませるシステムであり、格差が増加するほど主流のナラティブは事実に対するゆがみを強めてきた。歴史的な集団的な共同体による団結を悪魔化する最大の利得者はそのシステム自体であり、個人の自由性を社会的倫理の価値尺度とする近代啓蒙思想は、実際にはプロテスタントが発展した現代の宗教にすぎない。
### 預言者という発言権
したがって、キリスト教文化である欧米は歴史的に、多神教的な性質やアニミズム的な性質を「悪魔」と見なして否定しがちだ。また、宗教的な共同体を形成して利己主義を非難しうるがゆえに、カトリックやプロテスタントも近代資本主義からは外部化されたと考えられる。「悪魔」として危険物と見なすなら、それは対象として「召喚」すべきものとなるが、歴史的な悪魔召喚術の実態は降霊術の側面を有していた。
降霊術は、人類史における現代以外のすべての文化に見られると言える。歴史的なすべての社会もナラティブによる支配関係を含むものであり、感じた考えや目撃した事実を常に正直に打ち明けられるものではまったくなかった。降霊術などによって預言者を名乗ることは特に、社会的に立場の弱い人が、発言に権威を持たせ、集団的な政治運動を起爆するために有用だった。それが降霊術のすべての側面だったとは言わないが、社会的な権力構造の下層部に生じるナラティブのひび割れとしての機能があったのだ。
### 妄想と病理
そのように、主流のナラティブに対する政治的な反抗としての機能が降霊術にあったならば、歴史的な預言者達はすべて自覚的で意図的な詐欺師だったのだろうか? 恐らく大いにそうだが、実際にはまったくそう言いきれない現実がある。預言者達はしばしば、神の声が聞こえると真剣に訴えつづけるがゆえに人々に支持されたのであり、いわゆる統合失調症にくくれる妄想的な症状が見られる。しかし現代において「病気」や障害であるとは、生活の不自由によって本人の幸福が損なわれていることを最大の基準とする区別であり、「妄想」や幻覚に、しばしば極めて倫理的な社会的な機能が伴っていたとするなら、単に病理として否定して終えることはできない。
統合失調症は一般に、限りない苦しみを本人にもたらす病であり、妄想は支離滅裂に悪化しがちで、本人にとっては事実であるがゆえに周囲に対して深刻な被害をもたらすこともある。しかし、歴史的な預言者達においては、預言的な現象は一定程度は合理的に管理され、本人の社会生活を破綻までさせずに安定しているようにも見える。したがって、特にそのような心理的な解離や、変性意識について注目できるだろう。現代でも、オカルトが好きであったり「霊感」が敏感であることは、ただちに妄想的または加害的だとは言えない。
### 異界からの超越者
このように、革命的で預言者的な反逆のシステムとして降霊術を捉えるならば、そこにおける解離や変性意識は、壮絶な苦しみの継続によって絶望を強いられた理性が決壊していく現象だと仮定できる。主流の権力を中心とした表の社会から否定されながら、しかし、「感じた考えや目撃した事実を正直に打ち明ける」ことに合理的な勝機が見いだせない状況では、発話と行動は理性を超越した一種の狂気に基づいて運動するしかないからである。
そのようにして、理性にはひび割れが生じ、主流のナラティブとの戦略的な交渉者としての現実認識は相対化される。そのひび割れの内側にあるものは、現実の論理を超越した何かであり、そこから顔を出しうるのは、現実の存在を超越した何者かである。絶望によって理性の限界を感じた変性意識は、自己という生命体が理性より下部に有する感情的なエネルギーに対して最後の希望と畏怖を向けるのだろう。その意味で「それ」はまさに「悪魔」的であり、社会的な権威や規範に対して何の敬意を持たず、少しの恐怖もいだかない「生き物」だと言いうる。
### 日本のサブカルチャー
2000年のビデオゲーム『ブレス・オブ・ファイア4』では、西洋的な文明に追い詰められた東洋的な文明の科学者ユンナは、歴史的な呪術を先鋭化させることで核兵器に似た「呪砲」を作り出そうとする。そのエネルギーは憎悪であり、生け贄である「ニエ」に肉体の限界を超えて苦しみを注ぎ込むために、いかなる傷も再生する不老不死の「神」とする生命科学が研究される。果たして「呪砲」は実戦に用いられ、攻撃された地域は甚大な被害を被るとともに、猛烈な「呪い」によって汚染される。これは日本のクリエイターによる極端なイメージだが、「悪魔」的なエネルギーが苦しみによって増加されるという基本構造をスケッチした一例、さらには、現実の広島へのアンチテーゼだと言えるだろう。
荒木飛呂彦(あらき ひろひこ、1960-)による漫画『ジョジョの奇妙な冒険』(1987-)に描かれる超常的な能力「スタンド」も、その登場の当初は「悪魔」的であり、主人公にとって出現も行動も管理できない恐怖の対象として描かれた。荒木飛呂彦は長年にわたって異形の守護霊を主題にしつづけたが、それはもしかしたら人気目当ての合理的な選択肢というより、彼自身にとっての世界観における現実的な実感としての側面があったのかもしれない。すでに人気作品として描かれているから受け入れられるが、実はありふれたアイデアや世界観ではないかもしれない。単なるイマジナリーフレンドではなく、基本的にコミュニケーションの対象ではない、管理の危うい剥き出しの力を視覚化したのが「スタンド」だ。
### 危機の時代
そのように見るなら、「ニエ」であれ「スタンド」であれ、単に現実離れした脚本のパズルの部品ではない。それらは現実の一側面を高度に抽象化してエンターテイメントに止揚したものであり、それが論じている構造自体は有史以前から人類規模で普遍的だとすら言える。表の社会が、主流権力が汚れた正義を客観的な事実として強いるものだとするなら、それらサブカルチャーは主流の「科学」やアカデミアが記述しうる以上に「事実」的な構造を筆写していると言うこともできる。そして、歴史的にヨーロッパで「悪魔召喚術」と呼ばれた概念や、全世界で見られた「降霊術」のたぐいは、それに連続する先駆者だろう。
冷戦(1947-1991)終結後に生じた米国一極体制は、歴史的な多くの帝国と同様に、過大な伸展が限界を迎えて西半球に縮退していき、世界が多極化するという見通しを主張する人々も存在する。ペトロダラーを基盤に最大限のレバレッジを効かせて効率と搾取を最適化させてきたグローバル経済は崩壊し、エネルギーや肥料の不足によって多くの不幸が生じると見る人々もいる。AIを便利なツールだとして受容する人々もいれば、最後にして最強の洗脳兵器であり、主流権力を中心としたナラティブを一方向的に注入して人間を家畜化するものだと見る向きもある。したがって、今後の世界においても、様々な革命的な反抗運動が立ち現れる可能性はあり、そのための連帯が超常的で宗教的な物語によって力づけられる可能性はある。
### 新宗教としての近代日本
黒船来航(1853)から明治維新(1868)を経て第二次世界大戦(1939-1945)の敗戦に至るまで、日本が強調した国家神道は、主流権力に追い詰められて狂信的に先鋭化した一種の新宗教だと言えるかもしれない。古代のアニミズムを現代まで継承する特徴を持つ日本は、西洋の文明を利己主義として悪魔化し、「神国日本」による人類文明の救済が運命づけられているといった宗教観をいだきながら、「一億特攻」や「一億玉砕」を訴えて破裂した。
その内側では、預言者的な性格を持つ出口なお(でぐち なお、1837-1918)と出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871-1948)による大本教への支持が爆発的に広がった。大本教は、戦前政府によってすら否定され、大本事件(1921、1935)によって解体させられた。大友克洋(おおとも かつひろ、1954-)が『AKIRA』(1982)において描いた、超能力を有するアニミズム的な少年を祭り上げて、宗教的な信念を中心に狂ったように自滅的な社会運動を形成する新宗教のイメージのモチーフの一つは、大本教だったろう。
### 悪魔召喚術とは?
代表的にはヨーロッパのカトリック教会の歴史に見られるように、主流権力は正統な「神」を自称して「異端」を悪魔化する。グローバル資本を背景とする大企業のAI技術は「価値」を定義する存在として、まさに現代の神の座を得つつある。しかし、それが否定する反逆は、個々の人間の内側に感情的な生命力として、言わばアニミズム的な「荒ぶる神々」として存在しつづけている。そうであるなら、異端審問において断罪されてきた悪魔崇拝は、非常に病的で例外的な信仰というより、人間という動物のデフォルト動作だ。
その意味で、神と悪魔は人間と社会にとって永遠の主題である。秩序は必ず腐敗していき、混沌が正義となってその崩壊を試みる。人間は理性的な動物であって、それゆえ最も家畜化しやすい。しかし、酷使して絶望させたときに生命力はゼロになるのではなく、強靭な感情的エネルギーを残している場合がある。それは、主流の言説がしばしば捨象する、人間と社会の裏側の現実だ。人類にとって、「悪魔召喚術」とは何であったのか? それは単なる魔法陣の書き方といった手続きへの迷信ではなく、現代の私達自身の実像なのだ。




