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こんなことがあるだろうか。
ほんの数時間前まで住み慣れた自宅で一人、ごろんと横になってスマホを眺めながらそろそろ寝ようかなぁ、なんてぼんやり考えていた。
それは別に今日に限った話ではなく、特に意識することさえないまま消費されていた当たり前の毎日のほんの1ページだった。
普通に晩ご飯を食べて、普通にお風呂を終えて、普通に自室で柔軟体操とこっそり続けているバストアップマッサージを済ませ、普通にベッドに潜り込むまでの時間を過ごす。
ごく当たり前に明日の同じ時間にも同じようなことをして過ごしているだろうと、気にも留めていなかった日常があっさりと崩れ去った。
ママの再婚相手の仁井谷さんが突然やって来て、荷物をすぐにまとめて車に積み込みなさいと慌てた様子で告げられた。
わけもわからず急かされるまま鞄に荷物を詰め込み、仁井谷さんの車に積み込み終えたのと入れ違いに、自宅に大勢の知らない大人がなだれ込んでいった。
いったい何が起こっているのかまるで理解出来なかった。
運転席でどこかに電話をかけている仁井谷さんの険しい表情も合わさって、ただ事ではないことだけは明らかだった。
そのまま車に揺られたどり着いた先は見るからに廃れた感じの建物だった。
「ひとまずここの201号室で待っていなさい」と告げられ、仁井谷さんは慌ただしくどこかに走り去ってしまった。
建物壁面のボロボロの外階段を昇って、一番手前の部屋の扉に201と表示されたプレートを見つけた。
錆び付いた階段が崩れやしないかとひやひやしながら何度か往復して荷物を部屋の前まで運びチャイムを鳴らした。
しばらく間があって、息を飲んで立ち尽くすわたしに扉の中から怪訝な視線を投げつけてきたのは――、誰だっけ? でも知っている顔だった。
ああ、そうだ。学校の男子だ。
なぜだかつい最近、見覚えがある気がする……。必死に記憶の糸を手繰り寄せていると、
「……鳴海? ……なにやってんだ?」
完全に不審者に向ける不躾な視線を下から上へと這わせながらそう問い掛けてきたその声を耳にしてやっと記憶の糸に指先がかかった。
思い出した。わたしに無謀な告白をしてきた身の程知らずの陰キャ男子だっ!
それ以降は急転直下と呼ぶに相応しい展開だった。
細かく思い返すのも面倒なので起こってしまった事実だけをまとめると、『ママが海外出張から帰ってこられなくなり、ママの会社が乗っ取られて倒産して自宅が差し押さえられ、ママの再婚相手の仁井谷さんに連れられて逃げてきたところ、わたしに告白してきた陰キャ男子と兄妹になってしまった』のだ。
え、なにこの酷い惨状……?
よくわたしは発狂することもなく正気を保っていると思う。世の中には様々な極悪人がいるのに、何も悪くないわたしがどうしてこんな目に遭うのよ?
いろいろあって、やっと潜り込んだ布団にくるまって考える。
潜り込む前にざっと見渡したところ変なシミもなかったし、おかしな匂いもしなかったのは幸いだった。
なぜならこの布団はママの再婚相手の連れ子で同じクラスの陰キャの、不愉快極まりないことにわたしと兄妹になってしまった仁井谷真潮の使っている布団なのだ。
失って気が付くかけがえのない日常、なんて言葉が脳裏をよぎる。
そんなのはドラマや映画の中でだけ起こると思っていたし、まさか自分の身に降りかかってくるとは想像もしなかった。
今まで特別に感じることも、ありがたみを抱くことさえなかった日常があっさりと奪い取られ、この古くて狭い部屋での生活を余儀なくされてしまうなんて、ほんの数時間前までのわたしがどうしたら思い描けるだろう。
照明が落とされ薄暗く見慣れない部屋の天井を眺めながら、もしかしたらこれは全部悪い夢なのではないかと考える。
目が覚めたらそこは見慣れた自分の部屋のベッドに違いない。
今夜はなぜだかバストアップマッサージの興が乗って、「がんばれ、わたしのおっぱい!」「まだまだ成長期!」「ここか? ここのツボがええのんか!」と普段にも増してじっくりたっぷりマッサージしまくったせいで、変な熱が出て夢の中でうなされているだけかもしれない。
神様、明日からは黙ってマッサージします。
なんだったらバストアップは諦めます。だからこれがただの悪い夢だと言ってください。
あ、やっぱり諦めるのは嘘です、バストアップの成果はそこそこで我慢します。だからどうか、この悪夢から早く目覚めさせてください……。
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