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 この狭すぎる六畳二間ではいつかは起こりえる事故だった。


 そして実際にその事故に遭遇したところ世に言うラッキースケベなんて桃色な展開なんてことはなく、思わず真顔になるほどの後味の悪さがべったり残っただけだった。


 つい先ほどツナ缶で鼻歌交じりだったやつと同一人物の惨状だとはとても信じられない。だからといって首を捻って直視せずにおく以外に出来ることはなにもない。


 するとカタンッと小さな物音が耳に届き、思わず振り返った俺の目の前に――

「記憶をぉぉ、失えぇぇっ!!」

「うおあぁぁっ!? 危ねえっ!!」

 咄嗟に後退った俺の鼻先を何かが掠めて空を切る。


 下着姿の鳴海(なるみ)がその手に掴んだものを物騒な叫びとともに振り下ろしてきたのだ。なにかと思えば戸棚の置き時計だった。


 渾身の勢いを込めた初撃が空を切り、姿勢を崩しながらも改めて置き時計を振り上げたその形相は涙目で自我を失った狂人そのものだった。

 

 しかし大きく振り上げた追撃は大振りで、俺は振りかぶった狂人の腕をとっさに掴んで押し留める。


「ふぅっ……! うっ、う……、ほっ、うぅふっ、うほっ……! んほっ……!!」

 血が滲みそうなほど唇を噛み締めた狂人が掴まれた腕を振りほどこうと漏らす吐息が、だんだんゴリラじみて聞こえてくる。


 狂人がゴリラに進化しやがった。……進化なのかこれ?


「落ち着け! こんなもんで殴っても記憶を失ったりはしねえ! 地味に怪我するだけだ!」

 片手は申し訳程度に胸元を隠しているので、いくらゴリラ化したとはいえ易々とは振り解かれはしない。

 

 しかしその力強さからは到底冗談とは思えない殺意がひしひしと伝わってくる。


「う、ほっ……、こ、こんな恥かいて、生きていけないっ! お願いだから記憶をなくすか今すぐ死んでっ!! んふっ……! うっ、う、んほっ……!!」

 あいかわらず吐息はゴリラなのだが、ここまでの経緯はきちんと追えているのだろう。


 蜘蛛に驚いて脱ぎかけのまま脱衣所から飛び出してしまい俺の腕にしがみ付いたこと、その全てが自らの失態だと自覚があるからやりきれない惨めさで唇を噛みしめているのだ。


「待て! ちょっとだけ、チラッとしか見てないから記憶にも残ってねえぞ!」

「んぐ、ふぅっ……! よりにもよってお気に入りのチェック柄を見られるなんてっ!!」

「いや待て、お前、今日は地味めのベージュだぞ?」

「ばっちり完璧に見てるじゃんっ!! なにがちょっとよ! 死ねぇぇっ!!」

 くそっ! なんとも小賢しい誘導尋問に引っかかってしまった! こんなことにばっかり頭が回りやがる。


 本日のゴリラの下着はベージュ単色の、おそらく身につけていてもストレスの少ない色気皆無なものだった。


「いやいや、俺はその質素なやつ好きだぞ! 洗濯しやすいからなっ!」

「質素で悪かったわねっ!? 目を潰してやる! ついでに記憶を失えっ!! あと死ねっ!!」

 掴まれた腕を振り下ろすことも振り解くことも出来ずゴリラは牙を剥き出しにして吠える。


「ひとまず落ち着け! そ、そうだ、よく考えたらぜんぜん大丈夫だ、問題ないぞ。そんな凹凸の少ないなだらかな身体なんて見たうちに入らないぞ! ノーカンだ、ノーカン!」

「う、うほぉっ~~っ!!」

 くそっ、説得を間違えたか?


 ただでさえ下着姿を見られた上に、なだらかな体形を指摘されて自尊心を傷付けられたとでも言うのか?


 それともノーカンかどうかの判断は本来ゴリラの方にある事実に気が付くくらいには冷静なのか?


 いずれにしろ、このまま硬直状態が続くとそろそろ風呂に溜めているお湯が溢れてしまう。


 ゴリラの自尊心は正直どうでも良いが、光熱費の無駄は捨て置けない。こうなったら奥の手を出すしかない。


「んほっ、ううっ、んぐっ……!」

「くっ、落ち着け! 落ち着いてよく聞け!」

 掴んだ置き時計を握りつぶしそうな鬼気迫るゴリラをまっすぐに見据え、

「――お肉だ、お肉を料理してやる!」

「うほ……?」

 ゴリラの動きに動揺が生じた。


 思った通りだ。このゴリラは食べ物で釣るのが手っ取り早い。


「今度こそ、本物の鶏の唐揚げを用意してやる!」

「う……、から、あげ……?」

「そうだ、約束する。鶏の唐揚げだ。だから今日のところは風呂に戻れ、な?」

 ゴリラが言葉を思い出し、その力が徐々に弱まる。


 動きの止まったその手から置き時計をそっと取り返し、俺はそろそろと静かに後ずさって脱衣所までの動線を開ける。


 しずしずと無言で脱衣所へと向かうゴリラの後ろ姿を目で追っていると、アコーディオンドアの前で不意にくるりと振り返る。


 瞬時に反応して首を捻って視線を外す。


 目を合わせたらやられる! 俺の本能がそう訴えかけてきた。


「……仕方ないから、……今回だけは、許すわ。特別によっ!?」

「ああ、わかった――」

 俺の返事を待たず叩き付けるようにアコーディオンドアが閉められ、強張っていた全身の緊張が解かれた。


 なぜ許してもらう側になってしまったのかさっぱりわからなかったが、もうゴリラが大人しくなってくれるのであればどうでもよかった。


 ゴリラの手が届かない冷蔵庫の上に置き時計を隠し、長く重いため息が零れる。


 同級生女子の下着姿を目の当たりにしたところで役得だなんて欠片も思わない。


 なにしろ妹の下着姿だ。そんなものに欲情する兄がいてたまるか。


 ひとまず妹の風呂上がりに鶏の唐揚げを間に合わせるため、冷凍庫の鶏肉を解凍しないとな。







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