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 悪い夢だと思いたかった一日が終わろうとしていた。


 起き抜けからブラの手洗いの教えを請うという大失態から、平穏無事で終えられるだろうかと気が気じゃなかった。


 けれど夕食のパスタで空腹が満たされた頃には遠い昔の出来事みたいな気さえしてきた。だからといって思い出の1ページに加える気なんて毛頭ないけれど。


「風呂溜まったぞ、先に入れよ」

 夕食の後、隣の部屋に引っ込んでスマホをいじっていると襖越しに声をかけられた。


「……うん」

「バスタオルは新品しかなかったから水吸わないだろうけど今日は我慢しろ。一回洗濯すれば良かったんだが今朝は誰かさんのブラ――」

「うっさい!」

 どうして癒えてきた傷を思い出させるのよ! 恥ずかしさと惨めさが蘇ってくるでしょ!


 ぴしゃりと言葉尻を遮って黙らせ、今日買った化粧水と乳液を準備していざお風呂に挑む。


 別に普段から入浴でいちいち意気込んでいるわけではないけれど、状況が一変して仕方ないとはいえクラスの男子がいる部屋でこれから入浴しなければならないのだ。


 全身に緊張が張り詰める。そろそろと襖を滑らせると、仁井谷(にいや)真潮(ましお)は座卓に肘をついて座り込み手元のスマホに視線を落としていた。幸いにもこちらを気にする素振りはない。


 手渡されたバスタオルに着替えと下着を畳み込んで、足音を忍ばせながら脱衣所へと続く古くさいアコーディオンドアを開く。


 そして自分の眼前に広がった光景に言葉を失った。


 いったん振り返り、湯飲みでお茶を啜っている仁井谷真潮の背中を見つめ、もう一度アコーディオンドアの中を覗き込み、

「……え? もしかして、ここってランドリールームだったの?」

 つい先ほど二人で晩ご飯を食べた座卓の置かれた部屋を指差す。


「ランドリールーム? ひょっとして脱衣所のこと言ってんのか? だったらそっちだ」

 怪訝そうな顔で答えながら、わたしが開け放ったアコーディオンドアの奥を指し示す。


「え、……洗濯機が置かれてるけど?」

「ん? ああ、そうだな。それがどうかしたか? そこが脱衣所だ」

「ええ!? ここが脱衣所!? こんな腕も伸ばせない狭いスペースが!?」

「いや充分だろ? お前、どっかの部族みたいに入浴前にダンスでもするのか?」

「誰が部族よ!? けどこんなの、ちょっとした大型犬の犬小屋より狭いじゃない……」

 示された脱衣所には存在感たっぷりに洗濯機が鎮座して半分くらいの面積を占拠している。


「お前ちょっとした犬小屋に入ったことあるのかよ? いいか、良い機会だからわかるように説明してやる。築年数まで詳しくは知らないが、このアパートはとても古い」

「そうね。昨日、外から見た時は倉庫かと思ったもん」

「……言うじゃねえか。まあいい、話を進めるぞ。つまりだな1DKって言えば理解しやすいか? いま俺がいるこの部屋は、あえて言うならばダイニングキッチンだ」

「ダイニングキッチン!?」

 驚愕の事実にさすがに冗談だろうと疑いの眼差しを向けると、仁井谷真潮は腰を下ろしているフローリングの床を指差している。


 その一切笑っていない表情から冗談である可能性は音もなく崩れ去ってしまった。


「そうだ。ただし、あえて例えるならば1DKってだけで、どこからどう見ても古き良き昭和時代の六畳二間っていうのが正しいけどな」

「六畳二間……、広さ的にパウダールームなのかと思ったわ……」

「二間しかない貴重な一部屋をまるっと洗面所扱いすんな。さっきもここで飯食っただろ?」

「そういう特殊な家庭なのかと思ってたわ……」

「どんな家庭だったら洗面所で飯食うんだよ! 特殊すぎるだろ! とにかく、お前の目にどう映ってるか知らねえがそこが脱衣所だ」

「す、すごい環境で生活してるのね……。なんて言うか、前時代的っていうか……」

「あのな、お前の家がどんだけ豪邸だったかは知らねえが、この程度の間取りなんて全然普通だからな? 風呂とトイレが別になってるだけありがたいくらいだ。しかもそのアコーディオンドアは後付けだ。本来はそこに間仕切りなんてないんだからな?」

 ユニットバスではないというだけのことを誇らしく語ったかと思ったら、信じられない事実を付け加えてくる。


「ええっ!? だったら、このボロッちいアコーディオンドアを挟んでアンタがそこにいるのに、ここで脱がないといけないってことなの!?」

「ボロッちいは余計だが、まあそうだな。脱衣所なんだから当たり前だろ」

「え、このボローディオンドアって鍵とかは……?」

「おかしな略し方すんな。鍵なんてねえ。うちで鍵が付いてるのは玄関と窓だけだ」

「こんなの、わたしが脱いでる最中にボロドア開けられたら一巻の終わりじゃない!?」

「もうボロって言いたいだけだろ? そんな事故が起こらないよう気を付けるしかねえだろ」

「信じられるわけないでしょ!? こんなボロ、ボ、ボ――」

「思い付かないのに無理してボロと掛けようとすんな。そんなに脱ぐのが嫌なら服着たまま風呂入れよ、めんどくせえな……」

「はあっ!? イヤよっ!!」

「もちろん冗談だから真に受けるなよ? お湯が汚れるからやめろ」

「入るわけないでしょ! なんでそんないじわる言うのよ! ……絶対、絶対ぜーったい覗かないでよっ!? ちょっとでも覗いたら警察呼ぶからねっ!!」

「覗かねえから早く入れよ……。俺も入るのに冷めるだろ」

 見るからに頼りないアコーディオンドアの陰から精一杯の威嚇をしてやると、意地の悪さの滲み出た仏頂面のまま再び信じられないことを口にしてきた。


「え……、ちょっと待って? わたしの後にアンタ入るの……?」

「当たり前だろ。どこに疑問を感じる点があったんだよ? お前一人が入るためだけに風呂の湯を溜めたと思ってんのか?」

「……ハッ! わたしの残り湯、飲む気でしょう!? キモ! サイテー! この変態!!」

「飲むわけねえだろっ!? むしろよくそんな発想に至れるな? 感心するわ……」

「そうだわ! わたし出る時にお湯抜くから、アンタもう一回溜めればいいじゃない!」

「なに名案思い付いたみたいな顔してんだ? 水道も給湯器使うガスもタダじゃねえんだから、風呂溜め直してたりしたらどんだけ光熱費がかかると思ってんだよ?」

「うぐぅ……」

 今日何度目かわからない正論を突き付けられてしまい、わたしは例外なく言葉に詰まる。


 それくらいわかってるわよ、わかってる。わかってるけどっ!


 こちとら花も恥じらう女子高生なのよ? こんな頼りないアコーディオンドアだけで仕切られたスペースで、目と鼻の先に男子がいる部屋で全裸にならないといけないなんて拷問じゃない。


 しかも、わたしが入ったお風呂にこの男が入るですって? どんな罰ゲームなのよ……。


「よし、わかった。じゃあ俺が先に入るからお前は後から入れよ」

「えええっ! やだ! それだけは絶対やだっ!」

 なにがわかったのよ!? わたしの後に入られるのも嫌だけど、アンタの後に入るなんてもっと嫌に決まってるじゃない! 繊細な乙女心が欠片もわかってないじゃない!


「だったらさっさと入れよ……。うちの風呂は追い炊き出来ないんだよ」

「うぅ~~~~……」

 悪い夢だと思いたかった一日の最後に、まだこんな追い打ちが待っていようとは。空腹を満たされたくらいで余裕ぶっていた数分前の自分を蹴飛ばしてやりたい。


 こんな惨めな一日の締めくくりはお風呂ですっきりリセットしたかったのに、入浴する前段階でここまで疲れ果ててしまうなんて。服を脱ぐだけでさえ気の休まる瞬間が存在しないとは。


 この張り詰めた緊張感はいったいいつになったら解きほぐされるんだろう……?







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