第8話「最初の選択」
炎獄えんごくが第十三区に来たのは、夜中の二時だった。
連の情報網が先に察知した。「来る」という報告が入ったのが夜の十時。カイたちは準備を始めた。ソウが体の使い方の最終確認をして、連が逃げルートを確認して、ナナせが「あたしは何もできないけど邪魔にはならない」と言って壁際に座った。
アイには連絡しなかった。
巻き込みたくなかった。それだけだった。アイはCCAの実習生で、組織の中で立場が危うい。これ以上、カイのために動かせるわけにはいかない。
午前二時、連が戻ってきた。
顔が、いつもと違った。連がこういう顔をすることは、珍しい。感情を外に出さない情報屋が、珍しく——緊張している。
「カイ」連は言った。「問題がある」
「炎獄以外に何かあったか」
「炎獄が、子どもたちを連れてる」
◇
第十三区の東側に、廃墟の集合住宅がある。
かつては低所得者向けの公営住宅だったが、二十年前に機能を停止した。今はNA——無能力者の家族が不法占拠して住んでいる。子どもが多い。能力が発現しなかった親から生まれた子どもたちが、この区で生きている。カイが子どもの頃に住んでいた施設も、同じようなものだった。
炎獄はその集合住宅に踏み込んで、子どもを五人、路地裏に連れ出していた。
「人質か」ソウが低い声で言った。
「囮だと思う」連は言った。「カイをおびき出す囮。子どもたちを路地裏に並べて、待ってる」
「なぜ子どもを使う」
「マーケットのやり方だ」連の声が、わずかに硬くなった。「価値のある商品を傷つけずに回収したい時——本人が動かない場合は、周囲の価値を人質にする。人質の価値が低いほど、扱いも荒くなる。NAの子どもは……マーケットにとって価値がない」
カイは黙った。
行かない、という選択肢はなかった。
ただ——行く理由を、カイは自分で言葉にしようとした。怒りがあれば「腹が立つから」と言えた。正義感があれば「許せないから」と言えた。でも今の自分に、それがどこまであるかわからない。感情が薄い。怒りの感触が、霞の向こうにある。
それでも、行かないという選択が、出てこなかった。
「行く」カイは言った。
「理由は」ソウが聞いた。試すような聞き方ではなく——確認するような聞き方だった。
カイは少し考えた。
「子どもが、路地裏にいる。夜中に、怖い思いをしている。おれが行けば、終わる可能性がある」それだけだ、とカイは思った。「感情がなくても、それはわかる。行けばいいとわかる。だから行く」
ソウは何も言わなかった。でも、目が変わった。
◇
路地裏は静かだった。
静かすぎた。第十三区の夜は、いつも何かしら音がある。遠くの工場の機械音、誰かの怒鳴り声、雨が屋根を叩く音。でも今夜は、それが全部消えていた。生き物が息を潜めているような静けさ。
角を曲がると、見えた。
路地の突き当たりに、五人の子どもが並んでいた。年齢は四歳から十歳くらい。全員がNA——能力者の気配がない。ただの子どもたちが、夜中の路地裏に並んで、座っていた。泣いていない。泣けないほど怖いのか、それとも泣いても意味がないと学んでいるのか。
その前に、男が一人立っていた。
炎獄。
背はソウより少し低い。でも体積が違う。厚い体だ。格闘家ではなく、戦争をしてきた体という感じがある。全身が黒い装備で覆われていて、顔だけが出ている。年齢は三十代か。目が、油断なく動いている。
炎は、まだ出ていない。
でも右手の周囲の空気が歪んでいた。熱がある。炎を抑えているのではなく、いつでも出せる状態で待っている。
「来たか」炎獄は言った。声は低くて、穏やかだった。怒っていない。仕事をしているだけだ、という声。「鏡ヶ原カイ。想像より若いな」
「子どもを解放しろ」
「解放する」炎獄は言った。あっさりと。「お前が来てくれれば、彼らには用がない。子どもを脅すのは趣味じゃない」
「ならなぜ使った」
「来てくれなければ困るから」炎獄はカイを見た。「マーケットはお前の能力を必要としている。来てもらうだけだ。抵抗しなければ、傷はつけない」
「断る」
「わかっていた」炎獄は静かに言った。「だから来た。説得じゃなく、連行のために」
右手の空気が、さらに歪んだ。
◇
炎が来た。
細い。棒状の炎。拡散させていない、精密な炎だ。カイの足元を狙っている。足を焼いて動けなくしようとしている——殺すつもりがないから、急所は狙わない。
カイは後退した。ソウが教えた重心移動で、体が自然に動いた。五日間の訓練が、体に入っている。炎が石畳を焼いた。熱が顔に当たる。
「速い」炎獄は言った。感情なく、観察している。「前の報告より動ける。誰かに習ったか」
カイは答えなかった。右手を伸ばした。接触が必要だ。今のカイに使える能力は——ソウから受け取った赤い炎だけだ。でもこの距離では、接触する前に炎獄の炎に当たる。
距離を詰めるためのルートを、カイは計算した。感情がないせいで、冷静に計算できる。恐怖が邪魔をしない。路地の幅は三メートル。炎獄との距離は七メートル。左の壁に廃材が積んである。右の壁は平坦。頭上に——錆びたパイプが走っている。
ソウが言っていた。「能力者は空中を警戒しない。地面からの攻撃に慣れすぎている」
カイは走った。
地面ではなく、左の廃材を踏み台に壁へ。壁を一歩蹴って、頭上のパイプへ手を伸ばす。錆びたパイプを掴んで、体を振る——炎獄の真上を取る軌道。
炎獄が顔を上げた。想定外、という反応が一瞬あった。
その一瞬で、カイは落下しながら右手を伸ばした。
炎獄の左肩に触れた。
◇
感情が来た。
今まで受け取ってきた中で、一番多かった。
怒りがある。でも怒りの下に、もっと深い何かがある。義務感——違う、義務感より重い何かだ。使命感とも違う。諦め、に近い何かが、感情の一番底に沈んでいる。この男は、マーケットのために戦うことを、好きでやっているわけじゃない。やめられない理由がある。縛られている何かが。
それを読み取るより先に、能力が来た。
炎獄の炎は——カイが今まで触れてきたどの炎とも違った。木下の炎は子供の火遊びだった。ソウの炎の記憶は、失われた後の残滓だった。でも炎獄の炎は——制御された、成熟した力だった。温度を精密に調整できる。形を自在に変える。面で攻撃も、点で貫通もできる。
その全部が、一瞬でカイの中に流れ込んだ。
右手に炎が灯った。
炎獄の炎だ。深いオレンジ、ほとんど白に近い高温の炎。カイの指先から手のひら全体に広がっている。
「——模写が、これほど精度が高いとは」炎獄は初めて、声の調子を変えた。驚いていた。「本当に完全にコピーしている。温度まで」
カイは着地した。子どもたちから炎獄を挟む位置に立った。
「子どもを、先に行かせろ」カイは言った。
炎獄は動かなかった。カイの炎を見ている。計算している。自分の炎を模写されれば、同じ力同士の戦いになる。だとしたら——体格も経験も、炎獄の方が上だ。でも。
「行かせろ」カイはもう一度言った。
炎獄は子どもたちを一瞥した。それから、手を振った。「行け」
子どもたちが立ち上がった。走った。カイの横を通り過ぎる時、一番年上らしい十歳くらいの子が、一瞬だけカイを見た。何かを言おうとして、言わずに走った。
五人が、路地の角を曲がって消えた。
路地に、カイと炎獄だけが残った。
◇
静かだった。
「お前に聞くことがある」炎獄は言った。
「答える義務はない」
「ない。でも——聞く」炎獄の目が、真剣になった。仕事の目ではなく、別の何かの目だ。「模写した後、相手の感情が流れ込んでくるだろう。今、俺の何が見えた」
カイは少し間を置いた。
「縛られている、と思った。マーケットに。やめたいのに、やめられない理由がある」
炎獄は答えなかった。
「家族か」カイは言った。「マーケットに、何かを握られている」
「……」炎獄は長い沈黙の後、静かに言った。「関係ない話だ」
「関係ある」カイは言った。「おれの仲間にも、同じ人間がいる。マーケットに能力を奪われた人間が。妹を握られている人間が。お前が戦う理由と、似ている」
「だから何だ」
「だから——おれは、お前と戦いたくない」カイは言った。「でも、子どもたちを人質にするような組織のために動くお前を、このまま通すわけにもいかない」
炎獄は黙って、カイを見ていた。
「選べ」カイは言った。「今夜ここで決着をつけるか。それとも——お前が縛られているものを解く方法を、一緒に考えるか」
「甘いことを言う」炎獄は静かに言った。
「感情が薄いから、甘い計算はできない。損得で言ってる」カイは言った。「お前はマーケットの戦力だ。そのお前が内側から崩れる方が、外から倒すより、マーケットへのダメージは大きい」
炎獄は少し間を置いた。
「お前の感情は、本当に薄いのか」
「ああ」
「なのに、なぜ子どもを助けに来た」
カイは少し考えた。
「感情がなくても、行くべきかどうかはわかる」カイは言った。「子どもが路地裏で怖い思いをしていた。おれが来れば終わる可能性があった。だから来た。それだけだ」
「それだけ、か」炎獄は低い声で繰り返した。
「それだけだ」
路地が静かだった。遠くで雨が降り始めている音がした。ネオ東京の雨は、いつも唐突に始まる。
「今夜は引く」炎獄はやがて言った。「マーケットへの報告は——お前が逃げたとする。見失った、と」
「それでお前は大丈夫なのか」
「問題ない」炎獄は言った。「俺には、失敗を一度誤魔化す程度の信用がある。二度は無理だが」
「二度目が来る前に——」
「来るな」炎獄は遮った。「今夜だけだ。次に会えば、任務を遂行する。それがお互いにとって正直な話だ」
カイは頷いた。
炎獄が路地の奥に消えた。カイの手の中の炎が、消えた。感情の空白が来た。今日は深かった。炎獄の感情を受け取って、使って、解放した。その分の空白が来ている。
でも。
◇
路地の角に、子どもたちがいた。
逃げていなかった。五人全員が、角の陰に隠れて、こちらを見ていた。一番年上の子が、カイの顔を見た。さっきと同じ目だ。何かを言おうとして、言えない目。
「行け」カイは言った。「家に帰れ」
「……お兄ちゃん」一番小さい子が言った。四歳か五歳か、声が高い。「ありがとう」
カイは何も言えなかった。
ありがとう、という言葉を受け取る感情が、今の自分にどこまであるのかわからなかった。でも——何かが動いた。感情の空白の中の、一番奥の、消えない核のあたりで。ほんの少しだけ、何かが揺れた。
「行け」カイはもう一度言った。
子どもたちが走った。
足音が遠ざかって、消えた。
カイは路地の石畳に立ったまま、しばらく動かなかった。雨が降り始めていた。フードを濡らす、ネオ東京の雨。
ありがとう。
その言葉が、空白の中でも、消えなかった。
◇
廃ビルに戻ると、ソウと連とナナセが待っていた。
三人ともカイの顔を見た。傷がないことを確認して、それぞれが息を吐いた。連は「子どもたちは帰った、確認した」と言った。ソウは「怪我は」と聞いた。「ない」と答えた。ナナせは何も言わなかったが、目が違った。
「炎獄はどうした」ソウが聞いた。
「今夜は引いた。次は来る」
「勝ったのか、負けたのか」
「どちらでもない」カイは言った。「選択をした」
ソウは少し考えてから、頷いた。何かを理解したような頷き方だった。
連が「状況を整理する」と言って、何かを書き始めた。ナナセはランタンの光の中で膝を抱えた。
カイは壁にもたれた。
感情の空白は、まだある。深い静けさが、内側に広がっている。怒りも喜びも、霞の向こうにある。でも——あの小さな子どもの「ありがとう」が、消えない核のそばに、まだあった。
守った。
感情がなくても、守ることはできた。
それが——わずかな生の実感だと、カイは思った。実感という言葉の意味を、今日初めて、少しだけ理解した気がした。
◇
夜が深くなった。
ソウが珍しく、カイの隣に座った。
「炎獄の炎を模写した」ソウは確認するように言った。
「ああ」
「どうだった」
「お前のとは違った」カイは言った。「完成されていた。制御が、全然違う」
「そうだろうな」ソウは静かに言った。「あいつは、本来は敵じゃない」
「わかった。感情で見えた」
「俺も昔、少しだけ話したことがある。悪い人間じゃない。ただ、縛られている」ソウは言った。「マーケットに縛られている人間は多い。能力を奪われて、返してもらう条件として働かされている。家族を人質にされている。借金を作られている——いろんなやり方で、縛られている」
「ナナセも、そういう状況だったのか」
「ナナセは逃げた。だから追われている」ソウは言った。「逃げられた者は少ない。たいていは捕まって、戻される。あるいは——」
ソウは続けなかった。続けなくても、わかった。
「今夜の炎獄は、お前に賭けた」ソウは言った。「一度だけ、目を瞑った。それは——お前を信じたからだと思う。感情が薄い奴が、子どもを助けに来た。その事実が、何かを動かした」
「感情がなくても、動機はある」カイは言った。
「そうだ」ソウは言った。「それが——お前の強さだと思う。感情じゃなく、もっと深いところにある動機で動ける。感情がある人間は、怒りや恐怖で判断が歪む。お前は歪まない」
カイは少し考えた。
「歪まないのではなく——歪む感情が、少ない」
「同じことだ」ソウは言った。
同じことか。カイには確信が持てなかった。でも今夜は——それでいいと思った。確信が持てない問いを、今すぐ解く必要はない。
雨が降り続けている。
ネオ東京では、いつも雨だ。
でも今夜の雨は、少しだけ——違う音がした気がした。
◇ ◇ ◇
次話 第九話「アイとの出会い(再)」
炎獄が去った翌日、CCAから正式な接触があった。カイに対して「任意同行」を求める通知が届く。アイが個人として先に来て、選択肢を提示する。「一緒に戦う方法がある」と。カイの答えと、二人の能力が再び共鳴する夜。




