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第7話「路地裏の王者」

 噂というのは、止められない。




 第十三区の路地裏では、情報が水のように流れる。地下水脈のように、見えないところを伝って、気づいた時には区全体に染み渡っている。誰が最初に話したかはわからない。でも三週間もあれば、知らない者はいなくなる。




「能力を盗む奴がいる」




「NAのくせに、炎を出した」




「マーケットの連中を三人追い払った」




「顔は若い。たぶん十代」




 噂には尾ひれがつく。いつのまにか「百人の能力者を一晩で全滅させた」という話になっていたり、「目が光る」という描写が加わっていたりした。どこまでが事実でどこからが創作か、カイ自身にも判別がつかなくなっていた。




 ただ一つ確かなことがある。




 第十三区の能力犯罪者たちが、怯えていた。







 それを実感したのは、物資を買いに行った日だった。




 カイがフードを目深にかぶって、第十三区の端にある小さな店に入ると——店の奥にいた二人組の男が、立ち上がって逃げた。カイのことを知らなくても、第十三区の路地裏でフードを深くかぶった十代の少年を見れば、今なら反応する。「あいつかもしれない」という恐怖が、この区全体に広まっていた。




 店主の老人だけが、カウンターの後ろで動かなかった。




 白髪で、痩せていて、右手に古い義手をつけている。老人はカイをじっと見てから、「物資カードか?」と聞いた。




「そうです」




「買いな」老人は言った。「うちは誰にでも売る」




 カイは缶詰と乾パンと、それから包帯を買った。物資カードを渡すと、老人は釣りを返しながら、ぼそりと言った。




「お前が例の子か」




「違います」




「嘘つくな。目が似てる」




 カイは少し止まった。「似てる、とは」




「昔、同じ目をした人間を知ってた」老人は義手の指先でカウンターを叩いた。「感情が薄くなってるのに、奥だけ燃えてる目。そういう目をした人間は、たいていろくな死に方をしない」




「忠告ですか」




「事実だ」老人は言った。「気をつけな」




 カイは礼を言って、店を出た。







 連が「今日も誰か来た」と言ったのは、その夜のことだった。




 廃ビルに戻ると、連が入口の前に立っていた。いつもの無表情だが、どことなく呆れたような色がある。




「また来たのか」




「三人目だ、今週」連は言った。「どいつも『能力を奪う少年と話がしたい』とか言ってくる。今日のは——少し様子が違ったけど」




「どう違う」




「強かった」連はあっさり言った。「気配が、さっきまでのとは全然違う。カテゴリーで言えば、Aランク以上だと思う。でも、敵意はなかった。ただここで待つと言って、動かなかった」




「今もいるのか」




「中に通した。ナナセが一緒にいる」




 カイは連を見た。お前が中に通したのか、という目を向けると、連は肩をすくめた。




「そいつを外に置いとく方が危険だと判断した。敵意はないって言っただろ」







 中に入ると、男がいた。




 二十代の後半か、三十前後か。身長はカイより高くて、肩幅が広い。筋肉質だが、ごつごつとした感じではなく、動くために作られた体という印象がある。格闘家か、軍人か、あるいは——能力者の戦闘訓練を受けた者か。




 服は動きやすい黒のジャケットで、胸元に古い傷痕が見えた。能力戦の傷だ。面積が広い、熱か電撃の跡。




 男はカイが入ってきた瞬間から、値踏みをやめなかった。目が動く。体格を見て、歩き方を見て、重心を見て——全部、戦闘者の目で読んでいる。




 ナナせが壁際に座って、男を静かに観察していた。怯えた様子はない。




「鏡ヶ原カイか」男は言った。




「そうだ」




「ソウ」男は自分の名前だけ言った。苗字はなかった。「元能力者格闘家。今は無所属」




「元、というのが重要か」




「重要だ」ソウは短く言った。「今は格闘家じゃない。ただの男だ」




「なぜ来た」




「噂を聞いた」ソウは腕を組んだ。「模写ミメーシスの能力者が第十三区にいる。マーケットの連中を追い払った。自発動もできた。——それを聞いて、見に来た」




「見て、どう思った」




「荒削りすぎる」ソウは言った。即答だった。




 カイは少し眉を動かした。




「お前の戦い方を、連と老人から聞いた。接触で相手の能力を奪って、借り物の力で戦う。代償で感情が削れる。自発動は一回使ったら三日間落ちた。——そのやり方で長期戦をやるつもりか?」




「やり方を選べる立場じゃない」




「だから、荒削りだと言ってる」ソウは立ち上がった。座っていても大きかったが、立つと更に存在感が増す。「お前の能力の本質は接触だ。接触するためには相手に近づく必要がある。近づくためには体の使い方が要る。今のお前に、それがない」




「お前が教えるというのか」




「そうだ」ソウは言った。「俺が鍛えてやる」







 理由を聞いた。




 当然の問いだった。見知らぬ男が、なぜカイを鍛えると言う。マーケットの人間ではないと直感でわかる——敵意の質が違う。でも、善意だけで動く人間もこの街にはいない。




「理由は」




「お前に借りがある」ソウは言った。




「おれに? 会ったことはない」




「お前にじゃない」ソウは少し間を置いた。「お前の親に、だ」




 カイは動けなかった。




「フジサキ・サキを知っている。サキには十年前に、命を助けてもらった。返せないままになっていた。死んだと聞いた時——俺にはどうすることもできなかった」ソウは真っすぐカイを見た。「お前がサキの息子だという話が、トウジ経由で入ってきた。だから来た。返せなかった借りを、お前に返す。それだけだ」




 トウジが話した、か。




 カイはトウジを責める気にはなれなかった。おそらく、トウジなりの判断があった。ソウという男を信頼に足ると判断したから、話した。




「トウジとは長い付き合いなのか」




「十五年」ソウは言った。「あの爺さんは、俺が格闘家だった頃からの知り合いだ。口は重いが、嘘はつかない」




 カイは少しの間、ソウを見た。




 感情が薄い。だから、好意や親しみよりも先に、情報が入ってくる。ソウという男について、今見えていること——戦闘経験が深い。格闘家として一線にいた。何らかの理由で引退した。傷痕は複数あって、全部が能力戦の跡だ。でも今は能力の気配がない。能力者だったのに、今は使えない状態——あるいは、失った。




「お前も、能力を失ったのか」カイは言った。




 ソウは少し目を細めた。




「元格闘家、という言い方だった。でも今は気配がない。能力者の気配が」




「……」ソウは短く沈黙した。「鋭いな。感情を読む能力の副作用か」




「答えなくていい」




「いや」ソウは言った。「話す。隠しても意味がない。——俺の能力は、五年前にマーケットに抽出された。格闘家として頂点に近いところにいた時に、狙われた。抵抗したが、負けた。今は能力がない」




 ナナセが壁際でわずかに動いた。




 カイはナナセを見た。ナナせも同じだ、と思った。能力を奪われた者たちが、この部屋に集まっている。連は元々能力がないが——マーケットから逃げている妹がいる。全員が、マーケットに何かを奪われている。




「能力がないのに、鍛えてやると言うのか」




「体の使い方と、戦術は残ってる」ソウは言った。「能力がなくても、接触距離を縮める方法はある。重心の崩し方、死角の作り方、相手の出方を読むこと。それはお前には今、何もない」




「それを教えられる」




「教えられる」ソウは断言した。「俺が格闘家として積み上げてきたのは、全部そういうことだ。能力は失ったが、技術は残ってる」







 その夜から、訓練が始まった。




 いや、訓練とは呼べないかもしれない。ソウが最初にやったことは、カイに立たせることだった。




「立ってみろ」




 カイは立った。




「重心がどこにある」




「真ん中」




「違う」ソウは言った。「右寄りだ。疲れている時に人間は利き手側に重心が寄る。お前は常に右手で能力を使うから、無意識に右重心になっている。接触の瞬間に、それが読まれる」




 カイは少し考えてから、重心を意識した。




「左足に少し乗せろ。均等じゃなくていい。ただ、右寄りを治す」




 言われた通りにした。




「歩いてみろ」




 歩いた。




「止まれ」




 止まった。




「どこが変わった」




「……安定した気がする」




「正解」ソウは言った。「それだけで、接触を試みる時の最後の一歩が、五センチ伸びる。五センチは、能力戦では致命的な差になる」




 五センチ。




 その数字が、カイには意外だった。もっと大きなスケールの話をすると思っていた。でもソウの話は全部、細かかった。足の置き方、腕の振り方、視線の向け方——一つひとつが、地味で、具体的で、でも確かに意味がある。




 三時間後、カイは床に座り込んでいた。




 能力を使っていないのに、疲れていた。体を意識的に動かすことが、これほど体力を使うとは思っていなかった。感情が薄いせいで、疲労感の輪郭もぼんやりしているが——確かに疲れている。




「今日はここまで」ソウは言った。疲れた様子が全くない。「明日も続ける」




「お前はどこに泊まるんだ」




「ここでいいか」




 カイは連を見た。連は「場所は足りてる」とだけ言った。ナナせは何も言わなかった。




「好きにしろ」カイは言った。







 翌朝から、日課になった。




 ソウが起こしに来る。カイが起きる。ナナセが眺めている。連がどこかへ情報収集に行く。午前中は体の使い方。午後は戦術の話。夜は各自休む。




 二日目の夜、ソウが言った。




「お前の能力の制限時間を延ばすことを考えろ」




「どういう意味だ」




「接触した能力の持続時間が、今は短い。感情が削れるほど、短くなるかもしれない。それを延ばすには——能力を使い切る前に手放すことだ」




「手放す?」




「全力で使って、代償を全部払う。そうじゃなくて——七割で使って、三割残す。残した三割は次に繋がる」ソウは言った。「格闘でも同じだ。一発で仕留めようとする奴は、外した時に終わる。七割の力を十回当てる方が、確実に勝てる」




 七割で使って、三割残す。




 カイはその言葉を頭の中に置いた。今まで能力を使う時、全力だったか手加減していたかすら意識していなかった。感情が高まった瞬間に溢れて、使い切って、落ちる。それを繰り返していた。




「制御できるかどうかわからない」




「だから訓練する」ソウは言った。「できるかどうかじゃなく、やるかやらないかだ」







 五日目の朝、連が情報を持ってきた。




「マーケットが動いてる」連は言った。顔が、いつもより少し硬い。「末端じゃない。もっと上の話だ。炎の能力者——炎獄えんごく、というコードネームの実戦要員が、第十三区に向かっているらしい」




「炎獄」ソウが繰り返した。「聞いたことがある。マーケットの実戦部隊の中でも、上位の人間だ。俺が現役の頃、一度だけ会ったことがある」




「強いか」




「俺より強かった」ソウは言った。「五年前の俺が、だ。今の俺には能力がない。お前は訓練を始めて五日だ」




「それで?」




「時間がない」ソウは言った。「今日から、やり方を変える」




 カイはソウを見た。




「今まで体の使い方を教えた。今日からは——実際に俺に接触することを練習する。俺の感情と、俺の残滓を、お前の模写で読んでみろ」




「能力はないと言っただろ」




「ない。でも——かつて使っていた能力の記憶は、体に残ってる。感情の記憶も残ってる」ソウは真っすぐカイを見た。「お前の模写が、それを読めるかどうか試してみる価値はある」







 ソウの右腕を握った。




 感情が来た。




 今まで受け取ってきたものと、質が違った。マーケットの追手の感情は冷たくて、計算的だった。リーダーの感情には仕事への嫌悪があった。でもソウの感情は——静かだった。悲しみに近い静けさ。怒りも恐怖も薄くて、その代わりに、何か重いものが沈んでいる。




 失ったものへの重さ、だと思った。




 能力を抜かれた記憶。格闘家として頂点を目指していた時間。全部が、感情の地層として積み重なっている。その一番深いところに——炎があった。




 能力の残滓だ。




 もう使えない、失った炎。でもソウの体の中に、まだその記憶が残っている。熱さとして。感触として。どう発動させるかの、筋肉の記憶として。




 カイの右手が、熱くなった。




 炎が灯った。




 木下の橙色でも、自発動の白でもない——ソウが持っていた炎の記憶から来た、深い赤の炎だった。カイの手のひらで、静かに燃えている。




「……」ソウは炎を見た。長い間、見ていた。




 カイは手を離した。炎が消えた。感情が薄くなる。でも今日は——消え方が、少し違った。全部が消えるのではなく、何かが残った。ソウの「重さ」の一部が、カイの中に留まった。




「感情の残像か」連が呟いた。




「違う」ナナセが言った。「もらったんだと思う。ソウさんの、失ったものの一部を」




 誰も何も言わなかった。




 ソウは目を伏せて、少しの間黙っていた。




「……使ってくれ」ソウはやがて言った。かすかに、声が変わっていた。「俺の炎を。俺には使えないから——お前が使え」




「借りものだ」カイは言った。「いつか、返す」




「返さなくていい」ソウは首を振った。「俺が、お前に渡した。そういうことだ」







 夕方、カイは屋上に上がった。




 右手を開いた。




 ソウの炎が、灯った。深い赤の炎。橙でも白でもない、この色はソウのものだ。使い方が流れ込んでいる——格闘家として磨いた、精密な炎の制御。全力ではなく七割で。残りを、次のために残して。




 三秒。




 五秒。




 七秒。




 消えた。




 感情の空白が来た。でも今日は、空白の中に——ソウから受け取った重さが残っていた。失ったものへの重さ。それがカイの中で、何かに変わっていく感触があった。変わっていく先が何かは、まだわからない。




 でも消えなかった。




 カイは拳を握った。




 炎獄が来る。時間がない。でも——五日前より、確かに何かが変わっている。重心が安定している。接触へのイメージが具体的になっている。ソウの炎が、体の中にある。




「間に合わせる」カイは小声で言った。




 雨が、また降り始めていた。




◇ ◇ ◇




次話 第八話「最初の選択」


炎獄が第十三区に現れる。マーケットの標的はカイだけではなかった——路地裏の子どもたちが人質に取られる。戦うことと逃げること、どちらを選ぶかではなく、何のために戦うかを初めてカイが自分の言葉で選ぶ話。

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