第6話「代償の痛み」
三日間、眠り続けた。
夢は見なかった。
正確には、夢と呼べるものがあったかどうかわからない。何かはあった。光のない、音のない、感情のない——ただの暗闇。その中を、カイは漂っていた。溺れているでも眠っているでもなく、ただそこにいた。
目が覚めた時、最初に感じたのは天井だった。
見慣れない天井。コンクリートの、低い天井。廃ビルの屋上ではない。倉庫の中か。ランタンの光が揺れている。どこかで雨の音がしている。
体を起こそうとして、できなかった。
力が入らない、という感覚ではなかった。力はある。でも——起き上がる理由が、すぐに出てこなかった。起き上がって何をするのか。どこへ行くのか。何のために。
その問いに、答えが出るまで、少し時間がかかった。
ナナセ。端末。フジサキ・ユウ。マーケット。
答えが出てから、体が動いた。
◇
「起きた」
ナナセの声がした。壁際に座っていたらしく、立ち上がってこちらに来る気配がある。カイは上半身を起こした。頭が重い。でも痛みではない——重力の向きがわずかにずれているような、奇妙な感覚だった。
「何日だ」
「三日」ナナセは短く答えた。「ずっと眠ってた。息はしてたから、死んではいないと思って、放置した」
「放置したのか」
「連は毎日見に来てた。アイさんも一回来た」ナナセはカイの横に座った。「水、飲む?」
「ああ」
ナナセが金属の器を差し出した。カイは受け取って、一口飲んだ。冷たい。第十三区の水は金属の味がするが、今日は特にそれを感じた。味覚も、どこかで薄くなっているのかもしれない。
カイは自分の右手を見た。
あの夜の白い光は、もうない。皮膚は普通に見える。でも——何かが、確かに違った。違う、という感覚そのものが正確かどうかもわからない。今のカイに感覚を測る基準がない。
「どのくらい、薄くなった?」ナナセが言った。
カイは少し驚いた。見透かされた、と思った。
「見ればわかる」ナナセは静かに続けた。「目が、違う。前に比べて——もっと遠くを見てるみたいな目になってる」
「遠くを見てる、か」
「感情のない人の目って、焦点が遠いんだよ」ナナセは膝を抱えた。「あたしが抽出された後も、しばらくそうだった。今でも時々なる」
カイはナナセを見た。
「お前も、か」
「能力を抜かれると、感情も一緒に抜けていく気がする」ナナセは言った。「最初は関係ないと思ってた。でも——水の能力を使う時、あたしはいつも何かを感じてた。楽しい、とか、好き、とか。そういうわけじゃないけど、何か確かなものがあった。それが能力と一緒になくなった」
「感情と能力が、繋がっているということか」
「繋がってるというか——同じものだと思う」ナナセは静かに言った。「能力って、感情が形になったものじゃないかな。あたしの水は、あたしの何かが外に出た形で。だからなくなると、感情も減る」
カイは黙った。
トウジが言っていた言葉が浮かぶ。フジサキ・ユウの研究——感情そのものが能力の燃料になっているという理論。感情が媒介になっている、というより、感情と能力は同じ根を持つ。ナナセが今言ったことと、ほぼ同じだ。
十四歳の少女が、研究者と同じ結論に至っている。
体で知っているから、だろうと思った。理論ではなく、実体験として。
「模写ミメーシスの代償は」カイはゆっくり言った。「他者の感情を受け取って、能力を使う。その代わりに、自分の感情が削れる」
「そうなんだと思う」
「なぜそうなる」
「わからない」ナナセは少し首を傾けた。「でも、想像はできる。あなたの能力って——他人の感情を受け取る能力だよね。受け取ることで、能力も使える。だとしたら、使えば使うほど、自分の感情の容量が——他人のもので埋まっていく」
「自分のものが、押し出される」
「かもしれない」ナナセは言った。「あくまで想像だけど」
◇
連が来たのは、その日の昼過ぎだった。
カイが起きていると知ると、「生きてたか」とだけ言って、いつものように壁にもたれた。感情を表に出さない連だが、今日は少しだけ、何かが緩んでいるような気がした。
「三日間、何かあったか」カイは聞いた。
「マーケットの動きはない」連は言った。「ただ——アイさんから伝言がある」
「何だ」
「CCAが動き始めた。プロジェクト・ミメーシスの関連文書を内部で洗っているらしい。お前が自発動した報告がマーケット側から漏れて、CCAに伝わった可能性がある」
「マーケットとCCAが情報を共有しているということか」
「の、一部が」連は言った。「全部じゃない。CCAの中でも、まともな人間とそうじゃない人間がいる。アイさんはまともな側にいるが、上官がどちらかはわからない、とも言っていた」
カイは少し考えた。
自発動が外に漏れた。それは想定内だ——あの三人の男が報告すると言っていた。問題は、その後どう動くかだ。マーケットはより強い追手を寄越す。CCAの腐敗組織は、カイを「回収」しようとするかもしれない。挟まれる形になる。
「アイは今どこにいる」
「仕事中だと思う。でも、連絡はつく」連はポケットから小さなメモを出した。「暗号化した通信端末の番号。CCAの追跡がかかっていない個人回線だ」
カイはメモを受け取った。アイが五日前に渡した個人端末の番号と、同じものだった。
「アイ自身が渡してくれたのか」
「今朝、ここに来た。お前が眠ってる間に。ナナセと少し話して、それを置いていった」
カイはナナセを見た。ナナせは「話した」とだけ言った。何を話したかは言わなかった。カイも聞かなかった。
◇
夕方、カイは一人で屋上に上がった。
雨はやんでいた。珍しいことだった。ネオ東京では、雨がやむことはほとんどない。でも今日は雲の切れ間から、夕焼けに近い色の光が差し込んでいた。橙色とも赤とも言えない、曖昧な色。
右手を開いた。
炎を出そうとした。
何も来なかった。
引力を出そうとした。
何も来なかった。
重力を試した。
何も来なかった。
自発動は、三日間の昏倒で消えた。あの夜一瞬だけ溢れたものは、もうない。接触なしで発動できたのは——感情の一点が極限まで高まったあの瞬間だけだったのかもしれない。再現性がない。
カイは手を下ろした。
感情が薄い。今日は特に薄い。三日間の昏倒の後だから当然かもしれない。怒りがない。焦りもない。焦るべき状況なのに、焦りの感触がどこにあるかわからない。
ただ。
ナナセの言葉が、頭の中で繰り返されている。
「能力って、感情が形になったものじゃないかな」
感情が形になったもの。
模写ミメーシスで他者の感情を受け取る。その感情が形になった能力を、一緒に使える。使えば使うほど、自分の感情が削れる。削れた場所に、他者の感情が入ってくる。
それを繰り返すと——いつかカイ自身の感情は、ゼロになる。
そうなった時、何が残るのか。
カイには答えがなかった。でも——考えること自体は、できた。考えられるうちに、考えておかなければ、という感覚だけはある。感情が薄くても、それだけは残っていた。
◇
日が暮れた。
屋上から降りようとした時、背後に気配があった。
振り返ると、アイが立っていた。今日も私服だった。グレーのパーカー。昨日と同じ。あるいは着替えていないのかもしれない——目の下に、薄い翳りがある。
「仕事中じゃなかったのか」
「非番」アイは言った。「でも来た」
「なぜ」
「あなたが起きたって、連から聞いた」アイはカイの隣に立って、ネオ東京の夕景を見た。「三日間、心配だった」
「心配するな。おれは——」
「大丈夫、って言うつもりだったの?」アイは穏やかに遮った。「言わなくていい。見ればわかる。大丈夫じゃないことは」
カイは黙った。
「感情が薄くなってる」アイは続けた。「私の感知で、少しわかる。三日前のあなたと、今のあなたは——同じ人なのに、何かが違う」
「何が違う」
「温度」アイは言った。「内側の温度が、少し下がってる。感情が熱だとしたら——その熱量が、少し減った」
内側の温度。
カイはその言葉を、しばらく口の中で転がした。感情を「熱」と呼ぶのは、確かに近い気がした。怒りは熱い。悲しみは冷たい。あるいは逆かもしれない。でも何であれ、「ある」と「ない」の違いは——温度の差だと言えるかもしれない。
「アイ」カイは言った。「お前の感知は、能力の流れを読む。感情も読めるのか」
「完全には読めない。でも、輪郭くらいは」
「おれの今の感情の輪郭を、読んでみてくれ」
アイは少し驚いた顔をした。それから、カイの右手に軽く触れた。感知が起動するのを、接触でカイも感じ取る。アイの能力は静かだ。炎のように燃えず、水のように流れず——ただ、そこにある。空気のような感知。
「……」アイは少し黙った。「何かある」
「何が」
「消えてない、何かが」アイはゆっくり言った。「感情の大部分は薄くなってる。でも——一番奥に、小さいけど、強いものがある」
「何だ、それは」
「言葉にするのが難しい」アイは眉を寄せた。「怒りじゃない。悲しみでもない。意志——に近いけど、感情と意志の境界線上にあるもの。消えない核みたいな、何か」
カイは右手を見た。アイの手が触れている。白い光は見えない。でも——アイが言う「消えない核」は、自分でも感じる気がした。かすかに。霞の向こうに。
「それが残ってる限り、大丈夫だと思う」アイは手を離した。「感情が全部消えても、あれが残ってるなら——カイはカイのままでいられる」
「根拠があるのか」
「ない」アイは言った。「でも、そう思う」
◇
夜になった。
三人で夕飯を食べた。連が物資カードで買ってきた缶詰と、乾パンだった。豪華ではない。でも温かかった。ランタンの光の中で、三人で同じものを食べた。
ナナセが缶詰の蓋を開けながら、ふと言った。
「ねえ、カイ」
「何だ」
「あたしの水の能力、もし戻せるとしたら——どうやって戻すと思う?」
カイは少し考えた。
「マーケットが抽出した。抽出する技術があるなら、戻す技術もあるはずだ」
「マーケットに頼むの?」
「違う」カイは言った。「技術を奪う。あいつらから」
ナナセは少し間を置いた。それから、小さく笑った。
笑顔を、カイは初めて見た。かすかな、本当にかすかな笑みだった。口の端が少しだけ上がって、すぐに戻った。でも確かに笑った。
「奪う、って——あなたらしい言い方だね」
「おれにはそれしかない」
「そっか」ナナセは缶詰を口に運んだ。「じゃあ、お願いする。奪ってきて」
「ああ」カイは言った。「奪ってくる」
約束した。
感情が薄い中でも、その約束だけは——確かに、した。
◇
深夜、連が眠った後で。
カイは端末を手に持って、ランタンの光の中に座っていた。ナナせも眠っている。静かだ。
端末の中に、母と父の記録がある。フジサキ・サキと鏡ヶ原ジン。研究者と、何も持たなかった能力素体の男。二人の記録が、三十ページの文書の中に埋まっている。
まだ全部は読んでいなかった。
読む気力がなかった、というより——読んだ後の自分がどうなるか、今の自分には予測できなかった。感情が薄い状態で読んで、何かが壊れたりしないか。感情が薄いからこそ、冷静に読めるのか。
どちらかわからないまま、カイは端末を開いた。
文書の最後のページに、短い追記があった。
篠崎コウイチの手書きテキストで、後から追加されたものらしかった。日付は三週間前——あの雨の夜の、少し前だ。
「カイへ。これを読んでいるなら、お前はもう力を持っているはずだ。模写ミメーシス。それはお前の力だ。誰かが作ったものじゃない。お前の父と母が、お前に渡したものだ。使い方を誰も教えていないのに、すまない。でも——お前の中に答えはある。感情が消えても、最後に残るものを、信じろ。ユウ叔父さんも、同じことを言っていた」
ユウ叔父さん。
フジサキ・ユウが、叔父。
篠崎コウイチは——カイの親族に近い誰かと繋がっていた。あの雨の夜、路地裏で倒れながら端末を渡したのは、使命感だけじゃなかったのかもしれない。
カイは文書を閉じた。
感情が薄い。でも今夜は——胸の奥の、一番深いところに、何かが灯っている。アイが「消えない核」と呼んだもの。ナナセとの約束。篠崎の言葉。
感情が全部消えたとしても。
最後に残るものを、信じろ。
カイは端末を胸ポケットに入れた。
ランタンの光が揺れている。雨が、また降り始めていた。ネオ東京では、いつも雨だ。
◇ ◇ ◇
次話 第七話「路地裏の王者」
「能力を盗む少年」の噂が第十三区に広まっていた。怯える能力犯罪者、好奇で近づく者、そして——噂を聞きつけて路地裏に現れた、一人の男。元能力者格闘家、ソウ。「お前の戦い方は荒削りすぎる。俺が鍛えてやる」。




