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第5話「模写(ミメーシス)」

 一週間は、拍子抜けするほど静かだった。




 追手は来なかった。連の情報網にも、マーケットが動いている気配はない、という報告が続いた。嵐の前の静けさか、それとも本当に引いたのか——どちらかはわからない。ただ時間だけが、ネオ東京の雨の中を流れていった。




 カイはその一週間を、試すことに使った。




 模写ミメーシスを、意図的に発動させること。それだけを考えながら、毎朝廃ビルの屋上に上がって、右手を開いて、意識を集中した。




 うまくいかなかった。




 一日目も、三日目も、六日目も——何も起きなかった。指先に熱はない。炎も、引力の感触も、何もない。あの夜の引力能力の残滓はとっくに消えていた。端末の触媒なしに、自力で発動させる方法がわからない。




 七日目の朝、カイはまた屋上に上がった。




 今日でトウジが来る。約束の一週間。




 それとは関係なく、もう一度だけ試してみた。右手を開いて、目を閉じて、内側に意識を落とす。模写とは何か。触媒の端末が起動させた力は、今も自分の中にあるはずだ。消えたのではなく、眠っているだけのはずだ。




 何も起きなかった。




 カイは目を開いた。




 ネオ東京の朝は白い。雨が霞のようになって、三百メートルのビル群を滲ませている。第十三区の空は狭い。ビルとビルの間の細い帯だけが空で、その空も今日は灰色だった。




 降りよう、と思った。




 その時。







 気配が来た。




 一つではない。複数。しかも——上からだ。




 カイが顔を上げる前に、影が落ちた。廃ビルの屋上に、黒いコートを着た人間が三人、音もなく降り立った。ドローンで降下したのか、飛翔系の能力を使ったのか。いずれにせよ、完全に包囲されていた。




 三人のうち一人が、一歩前に出た。




 背が高い。カイより頭一つ上。年齢は二十代後半か。顔に表情がない。ただ目だけが動いていて、その目がカイを——値踏みするように見ている。




「鏡ヶ原カイだな」男は言った。声は低くて、感情がない。仕事の声だ。「模写ミメーシス能力者。マーケットがお前を欲しがっている」




 カイは答えなかった。




「抵抗するな。傷つけるつもりはない。ただ来てもらうだけだ」




「断る」




 男は少し間を置いた。「なぜ断る。今のお前には何もない。能力も安定していない。仲間もいない。マーケットに来れば、力の使い方を教えてやれる。能力の完全制御も、代償の軽減も——全部できる」




「おれの力の使い方は、おれが決める」




「感情論だな」男はまた一歩近づいた。「お前の能力は、感情論で動くには危険すぎる。代償で感情を失う。そのうち自分が何のために戦っているかもわからなくなる。我々は——」




「うるさい」




 カイは右手を開いた。




 何もない。炎も引力も、何も宿っていない。それはわかっている。それでも構えた。構えるしかない。逃げ場はここでもない——屋上の端まで三メートル、そこは十五階分の空中だ。




 男が手を上げた。




 後ろの二人が動いた。一人の右腕が変形した。金属化——硬化系の能力か、腕が刃のように鋭くなっている。もう一人の足元から、黒い霧のようなものが這い出してきた。視覚阻害か、あるいは物理的な拘束か。




 まずい。




 接触しなければ模写できない。接触するには近づかなければならない。近づけば刃に当たる。そもそも発動できるかどうかもわからない。




 カイは冷静に状況を把握した——感情が薄いからこそ、恐怖より先に計算が動く。出口は一つだけある。真後ろ、屋上の縁。飛び降りれば死ぬ。でも廃ビルのこの高さから飛んで、隣のビルとの間に張ってある錆びたケーブルに引っかかれば——助かる可能性はゼロではない。




 黒い霧が足に絡んできた。




 思ったより速かった。足首から膝にかけて、黒い霧が巻きついて、硬化していく。樹脂のように固まる霧。動きが止まった。




「大人しくしろ」男は近づいてくる。「お前の能力は価値がある。壊すつもりはない」




 カイは動けなかった。




 足が固定されている。両膝まで霧が上がってきている。右手を開いたまま、男が腕を伸ばしてくる——触れようとしている。捕まえようとしている。




 嫌だ。




 感情が薄いのに、その一点だけが、はっきりと動いた。




 奪われたくない。使われたくない。おれの力は——おれが決める。ナナセを助けるために使う。守るために使う。それだけのために。




 右手が熱くなった。




 突然だった。触媒もない。接触もない。誰の能力も流れ込んでいない。ただ——カイ自身の内側から、何かが溢れてきた。




 炎だった。




 木下から奪った橙色の炎ではなかった。もっと白くて、もっと熱い。右手の指先から手のひらへ、手首へ、前腕へ——炎が広がっていく。カイが経験したことのない熱さが、痛みとして来る前に、力として来た。




「——模写が、自発動?」男が初めて声の調子を変えた。「触媒なしで——」




 カイは男の手首を掴んだ。







 感情が来た。




 今までと違った。




 この男の感情は、驚くほど少なかった。恐怖も、怒りも、ほとんどない。ただ仕事への集中と、計算と——その奥の、深いところに、何か一点だけ熱いものがある。使命感に似た何か。でもそれが何のためかは、一瞬では読み取れない。




 能力が流れてきた。




 「重力操作グラビティ」。引力より広い、重力そのものを操る力。自分と対象にかかる重力の方向と強さを変える。空間全体に干渉できる。引力能力の上位互換に近い。




 カイは手を離した。同時に重力を反転させた——足を縛っている黒い霧に、逆向きの重力をかける。固まった霧が、地面ではなく上に向かって引っ張られて、剥がれた。足が自由になった。




「後退しろ!」男が怒鳴った。




 霧の男が動いた。でも遅かった。カイは重力を使って自分の体を横に弾き飛ばした。通常では出せない横加速。霧が追いつけない。金属腕の男が刃を振るう。カイは重力で軌道を曲げた——刃が弧を描いて外れる。




 三人が散った。




 カイは屋上の中央に立った。右手にまだ炎がある。重力の感触が体に馴染んでいく。使い方が、また流れ込んでいる——男の記憶の断片が。




「次は——」カイは言った。「おれが行く」




 男が目を細めた。計算している。勝てるかどうかではなく、リスクとリターンを計算している。マーケットの人間らしい計算だ。




「……今日は引く」男は静かに言った。「だが報告はする。お前の自発動を、上は知りたがる」




「知らせろ。来るなら来い」




 三人が空中に飛んだ。ドローンが待っていたのか、飛翔系の能力か——あっという間に見えなくなった。







 能力が消えたのは、ほぼ同時だった。




 炎が消えた。重力の感触が抜けた。代わりに——空白が来た。




 今回の空白は、今までと違った。




 深かった。




 膝が折れた。カイは屋上の床に手をついた。感情が消えただけじゃない。何か、もっと根本的なものが削られた感覚がある。自発動は代償が大きい——本能的に、そう感じた。触媒や接触を介した模写より、自分の内側から絞り出した分、失うものも多い。




 右手が震えていた。




 息を整えながら、カイは自分の右手を見た。




 異変に気づいたのは、その時だった。




 右手の指先が——光っていた。




 正確には、光っているというより、皮膚の下に何かが透けて見えるような。血管の走り方が、青白く浮き上がっている。ネオンのような色だった。橙でも引力の金でも重力の銀でもない、白に近い青。




 模写した能力の、残像か。




 それとも——何か別のものか。




 カイは手のひらを握った。光は消えた。







 降りると、連とナナセが待っていた。




 連は屋上での戦いを聞いて、眉をひそめた。「三人を追い払ったのか」




「追い払った」




「自発動できたんだね」ナナセが静かに言った。




 カイは少し驚いた。見ていたのか、と聞こうとして——ナナセの目が廃ビルの入口の方を向いていた。視線の先に、人がいた。




 鏡ヶ原アイだった。




 紺色のコートではなく、今日は私服だった。薄いグレーのパーカーに、黒いパンツ。でも腰のホルスターだけはそのままで、CCAの識別章も外していない。




「聞こえた」アイは言った。「上の戦いが。来てよかった」




「来るな、と言ったはずだ」




「言ってない。連絡が来たら来る、とは言った」アイはカイの右手を見た。「自発動できたんだね。いつから」




「さっき初めて」




「そう」アイは短く答えた。それからナナセに目を向けた。「七瀬ナナセ。捜索リストに名前が出てる」




「捕まえに来たのか」カイは一歩前に出た。




「違う」アイはすぐに言った。「確認に来ただけ。安全でいるかどうか。それだけ」




 連が「買い手の言葉と同じだな」と小声で言った。カイには聞こえた。アイには聞こえたかどうかわからない。




「アイ」カイは言った。「プロジェクト・ミメーシスを知っているか」




 アイの表情が、わずかに変わった。




 変わり方が——複雑だった。驚きでも否定でもなく、何かを整理するような顔。知っていた、とも知らなかった、とも取れる表情。




「……聞いたことは、ある」アイはゆっくり言った。「CCA内部の古い研究プロジェクトだと。詳細は知らない。私には開示されていない機密レベルの話だ」




「おれの名前が入っていた。五年前の文書に」




 アイは答えなかった。




「おれは五年前から観察されていた。CCAは知っていた。それでも接触してこなかった。なぜだ」




「……わからない」アイは言った。「本当に、わからない。でも——」




 アイが一歩近づいた。




 カイの右手を取った。




 急な動作ではなく、静かな動作だった。アイの手がカイの右手首を包む。アイの能力「感知フィール」が起動しているのが、接触でわかった。能力の流れを感じ取る力。今、アイはカイの中に残っている能力の残滓を——読んでいる。




 そして。




 何かが起きた。




 カイの右手に、熱が戻ってきた。能力が消えたはずなのに——アイの感知を通じて、何かが共鳴している。アイの感知能力が、カイの模写能力と干渉して、増幅している。感情の空白が、わずかに埋まるような感覚がある。




「……アイ」




「感じてる」アイは静かに言った。「あなたの模写が、私の感知と共鳴してる。こういうこと、今まで一度もなかった。誰に触れても、こんな反応は」




「なぜ共鳴する」




「わからない」アイは手を離した。「でも——同じ根を持っているみたいな感じがする」




 同じ根。




 その言葉が、カイの中で何かに引っかかった。トウジの言葉と繋がる何かが。でも今はまだ、形にならない。







 その夜、トウジが来た。




 約束通り、一週間後の夜。ツールバッグを持たずに来た。手ぶらで、コートを着て、ランタンの光の中に座った。




 カイの他に、今夜は連とナナセとアイがいた。トウジはアイの顔を見て、少し目を細めた。CCAの識別章を見たのかもしれない。でも何も言わなかった。




「話す」トウジは言った。「全部ではない。でも、知るべきことを」




 誰も口を挟まなかった。




「二十年前、フジサキ・ユウという研究者がいた。プロジェクト・ミメーシスの創設者だ。フジサキは——模写能力者を作ることを目的にしていたわけではなかった。最初は」




「じゃあ何のために」




「感情の伝導を研究していた」トウジは言った。「能力者が力を使う時、感情が媒介になっているという理論。怒れば炎が激しくなる、悲しめば氷が強くなる——そういう話ではなく、もっと根本的な話だ。感情そのものが、能力の燃料になっているという理論」




「模写ミメーシスは、その理論の——」




「副産物だ」トウジはカイを見た。「感情の伝導を研究するうちに、フジサキは発見した。特定の条件下で育った子どもは、他者の感情を受け取る能力を持つ可能性があると。受け取るだけでなく——その感情に付随する能力も、一緒に受け取る」




「その子どもが、おれだということか」




「そうだ」トウジは静かに言った。「お前の母親は、フジサキの研究室にいた」




 カイは黙った。




「名前はフジサキ・サキ。ユウの妹だ。感情伝導能力の保有者だった。他者の感情を読み取り、共有し、増幅させる——非常に稀な能力。そしてお前は、その能力を受け継いだ。受け継いだ上で、父親側の能力と混ざった」




「父親は」




 トウジは少し間を置いた。




「父親の名前は——鏡ヶ原ジン。模写能力の素体を持つ、理論上の能力者だった。能力は生前一度も発現しなかった。でも、遺伝子レベルでの模写素体は確認されていた。二人の遺伝子が組み合わさって——お前が生まれた」




「二人は今どこにいる」




「死んでいる」トウジは目を伏せた。「十年前に。フジサキがプロジェクトを離脱した時——マーケットとCCAの腐敗組織が動いた。研究者を消した。サキも、ジンも」




 カイは何も言えなかった。




 感情が薄い。だからこそ、情報が直接、脳に刻まれていく。悲しみも怒りも、霞の向こうにある。でも——それが余計に、痛かった。痛いと感じる感情すら、まともに持てない。




「なぜ篠崎コウイチが端末を持っていた」




「篠崎はフジサキ・サキとジンの死を調べていた。彼は正直な捜査官だった。プロジェクトの内部文書をかき集めて、端末に記録した。そして——お前に渡そうとした」




「なぜ、おれに」




「お前が十六になるのを待っていた。能力が発現する年齢に」トウジは言った。「フジサキ・ユウが消える前に、篠崎に頼んだ。『カイが十六になったら、端末を渡してくれ』と。それを篠崎は、ずっと守っていた」







 部屋が静かだった。




 雨の音だけが聞こえる。ランタンが揺れている。




 アイが、かすれた声で言った。「フジサキ・サキという名前——CCAの記録で見たことがある。過去の案件として。でも詳細は開示されていなかった」




「開示されないように処理されている」トウジは言った。「それをやったのが——CCA内部の腐敗組織だ。篠崎はそこと戦っていた」




「フジサキ・ユウは」カイは言った。「今、どこにいる」




 トウジはカイを見た。




「生きているのか」




「……わからない」トウジはゆっくり言った。「消えた、と言ったが——死んだという確証がない。逃げた可能性がある。どこかに、まだいる可能性がある」




 どこかに、まだいる。




 母の兄。プロジェクトの創設者。そして——篠崎に頼んだ人間。




「フジサキ・ユウが、端末のナンバーを確認した買い手だったのか」カイは連に言った。




 連は少し黙った。「……名前は教えてもらえなかった。でも——そうかもしれない」




 カイは端末を取り出した。




 手のひらの上で、金属の端末が静かに光を受けている。母親が研究室にいた。父親が模写の素体を持っていた。二人は十年前に死んだ。篠崎コウイチは五年間、この端末を守り続けた。フジサキ・ユウは今もどこかにいるかもしれない。




 そして——おれは第十三区の路地裏にいる。




 何も知らないまま、十六年生きてきた。




「トウジ」カイは言った。「教えてくれてありがとう」




 トウジは何も言わなかった。ただ頷いた。老いた目に、何か湿ったものがあった。この老人は——ずっと、何かを背負ってきた。プロジェクトに関わったことへの後悔か、二人の死への罪悪感か。




 それはまだ、カイには全部読み取れない。







 夜が更けて、トウジとアイが帰った後。




 カイは屋上に上がった。雨が降っていた。フードをかぶって、ネオ東京の夜景を眺めた。三百メートルのビルが霞の中に光っている。ネオンが滲んでいる。汚れた雨が石畳を流れていく。




 右手を開いた。




 自発動した炎は、今は出なかった。重力も出なかった。でも、手のひらの奥に、あの白い光の痕跡が残っていた。皮膚の下に透けて見える、青白い何か。




 模写ミメーシス。




 他者の感情を受け取る力が母から来て。何も持たない素体が父から来て。二つが混ざって——これが生まれた。




 感情が薄い。でも。




 今夜は——何かがある。




 悲しみ、と呼んでいいのかわからない。でも、胸の奥の、深いところに、重くて温かい何かが沈んでいる。感情が薄い中でも、消えない何かが。




 それが——二人の親から受け継いだものだとしたら。




「守る」カイは雨の中で言った。「おれが奪う。でも、守るためだ。お前らが守ろうとしていたものを——おれが引き継ぐ」




 右手の指先が、わずかに白く光った。




 炎でも引力でも重力でもない、カイ自身の光。




 三秒後、消えた。




 でも——確かに、あった。




◇ ◇ ◇




次話 第六話「代償の痛み」


自発動の翌日、カイは三日間意識を失う。目覚めた時、感情はさらに薄くなっていた。ナナセが「それ、あたしの水の感触に似てる」と言う。感情喪失と能力の代償、そのつながりが初めて言語化される回。

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