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第3話「マーケット」

 連から二度目の紙が届いたのは、翌朝のことだった。




 今度は廃ビルの扉ではなく、カイが使っていた寝床の枕元——といっても古い段ボールを折り畳んだだけのそれだが——の隙間に挟まっていた。いつ入ったのかわからない。物音一つしなかった。




 紙には一行だけ書いてあった。




「今夜、第十三区の東端に来い。一人で」







 第十三区の東端は、他の路地裏より空気が澱んでいる。




 ゴミの山と廃材が混然一体となった迷路のような区画で、能力者も無能力者も、ここには近づかない。理由は単純で——臭いからだ。工場廃液と腐敗物が混ざったような悪臭が、常に漂っている。NAの溜まり場と呼ばれる第十三区の中でも、さらに底にある場所。




 カイはフードを鼻まで引き上げて、奥へ進んだ。




 目印は「赤いスプレーで×が書いてある鉄扉」と書かれていた。見つけるのに十分もかかった。錆びた扉に、確かに赤い×がある。




 ノックをする前に、扉が開いた。




「遅い」と連が言った。




「迷った」




「この区を三年生きてて迷うのか」




「臭いに気を取られた」




 連は少し顔をしかめて、中に入るよう顎をしゃくった。カイは扉をくぐった。







 中は、思ったより広かった。




 元は倉庫か何かだったらしい。天井が高くて、薄い採光窓から夜の光がわずかに落ちている。床に小型のランタンが置いてあって、その光の中に——人がいた。




 子どもだった。




 いや、子どもとも言い切れない。十三か十四か、そのくらいの少女。壁に背を当てて、膝を抱えて座っている。髪は薄い茶色で、ひどく乱れている。着ている服は一サイズ大きくて、まるで誰かのものを借りているみたいに見えた。




 目が、カイを見た。




 灰色の目だった。普通の色なのに、なんだか違う印象を受ける。空っぽ——ではない。でも、何かが欠けているような目。




「名前は?」カイは連に聞いた。




「自分で聞け」と連は言った。「俺が聞いても答えなかった」




 カイは少女の前にしゃがんだ。目線を合わせる。少女は視線をそらさなかった。それが警戒なのか、それとも諦めなのか、判断できなかった。




「おれは鏡ヶ原カイ。この区に住んでる」




 少女は何も言わなかった。




「名前がなければ、何か呼ぶものがあるか」




 しばらく間があった。




「……ナナセ」




 かすれた声だった。喋り慣れていない声。




「七瀬?」




「七瀬、ナナセ」




 カイは頷いた。それ以上聞くのをやめた。聞くべきことは、まず連から聞いた方が早い。立ち上がって、少し離れたところに移動した。連が小声で話しかけてくる。




「三日前から東端をうろついてた。マーケットの工作員に追われてた形跡がある。能力は……元々あったらしい。でも今は使えない状態だ」




「奪われたのか」




「たぶん。詳しくは話せないって言う。でも体の状態は見ればわかる。マーケットの連中がやる『抽出』の後遺症に似てる」




 抽出。




 その言葉が、カイの頭の中で何かと繋がった。昨夜、流れ込んできた感情の残滓——チューブに繋がれた腕。白衣の人影。子どもの泣き声。




「……あの感情は」カイは小声で言った。「ナナセから流れてきたのか」




「何?」




「いや。続けてくれ」




 連は怪訝そうな顔をしたが、続けた。「マーケットの末端が今夜、この区に来る。ナナセを回収しに来るんだと思う。追手が二人か三人。能力者だ」




「なぜ今夜だとわかる」




「情報屋だから」連は淡々と答えた。「で、どうする? 俺には戦う力がない。ナナセを連れて逃げることはできる。でもお前が追い払えるなら、その方がいい。次に来た時により大勢連れてくる前に、この区は危険だと思わせておいた方がいい」




 追い払う、か。




 カイは自分の右手を見た。




 あの夜から一度も発動できていない。端末に触れた瞬間だけ、炎が灯った。でも今は何も起きない。戦えるかどうか、正直わからない。




 でも。




 ナナセの目が、頭の中にある。空っぽではないけれど、何かが欠けている目。あの目は、カイが知っている目に似ていた。第十三区で育ちながら、持つべきものを持てないまま生きてきた者の目に。




「やってみる」カイは言った。







 追手は三人だった。




 夜の十時を回ったころ、東端の入口から入ってきた。三人とも、能力者特有の気配を持っている。能力を登録している者は、何か違う。空気の圧の持ち方が違う。第十三区で生きてきたカイには、それが感覚的にわかった。




 カイは廃材の陰に隠れて、接近を待った。




 連はナナセを連れて別の場所に移動している。倉庫の中にはカイだけだ。




 三人の能力は——見ただけではわからない。ただ、一人が左手に細いロープ状の光を纏っているのが見えた。電撃系か、それとも拘束系か。もう一人は体が少し歪んで見える。空間系か知覚阻害か。三人目は何もない。でも一番前を歩いていて、目つきが鋭い。おそらくリーダー。




「この辺にいるはずだ」リーダーが言った。「匂いを辿れ」




 匂い、と言った瞬間、三人目が目を閉じた。追跡系の能力か。嗅覚強化、あるいは気配追跡。




 まずい。時間がない。




 カイは飛び出した。







 リーダーが反応する前に、右手を伸ばした。




 接触が必要だ。それだけはわかっている。あの夜、端末を握った瞬間に炎が来た。木下の炎が、接触によって流れてきた。だから——誰かの体に触れれば、その能力が来るはずだ。




 リーダーの右腕を掴んだ。




 その瞬間。




 感情が、来た。




 怒り。冷たい、計算された怒り。それと、仕事への嫌悪感がある。この男は、自分のやっていることが好きではない。でもやめられない。そういう感情が——洪水のように、一瞬で流れ込んできた。




 カイは構わず、来るものを受け取った。




 能力が、流れてきた。




 体の中に、何かが宿る感覚。重力とも違う、磁力とも違う。でも確かに「力」と呼べる何かが、右手から体幹に向かって広がっていく。リーダーの能力は——「引力」だ。物体を自分に向けて引き寄せる、牽引系の能力。




「な——」




 リーダーが驚愕の声を上げた。カイは手を離して飛び後退した。




 追跡系の男が動いた。カイに向かって駆けてくる。電撃の男が光のロープを伸ばしてくる。




 カイは右手に意識を集中した。




 来い。




 引力が、発動した。




 電撃ロープが、軌道を変えた。カイの手に向かって飛んでいたそれが、弧を描いて外れる。地面に激突して弾ける。追跡系の男が足を止めた。




「コピーしやがった」リーダーが怒鳴った。「アビリティ・スキャナーだ! 引き離せ!」




 三人が散った。




 カイは引力を保ちながら、地面の廃材を一つ引き寄せた。重い金属片。それを手に持って、追跡系の男に向かって投げた。牽引で加速した金属片は、通常より速く飛ぶ。男が避けきれずに横腹を打たれて、呻いて膝をついた。




 問題は、時間だった。




 引力は、木下の炎と同じように——使えば使うほど、自分が消えていく感覚がある。感情が、薄くなっていく。戦闘のアドレナリンに近い何かがまだ残っているが、それすら遠くなっていく。




 早く終わらせる必要がある。




 電撃の男が動いた。今度はロープではなく、両手から直接放電してくる。面攻撃。避けにくい。




 カイは引力を逆に使った。自分の体を後ろに跳ばすように、背後の壁を「引く」——つまり引き寄せる方向に力をかけることで、反動で前に飛ぶのではなく後退する加速をつける。体が流れるように壁際まで下がった。放電が空を切る。




「なんで動きを知ってる」電撃の男が吐き捨てた。「コピーしただけじゃ使い方まではわからないはずだ」




「わかった」




 カイは静かに言った。




 わかったのは、本当だった。引力を発動した瞬間、使い方が「わかった」。正確には——リーダーの記憶の断片が、一緒に流れてきたのだ。この能力をどう使うか、どう体を動かすか。完全ではない。でも基礎は入っている。




 これが、模写ミメーシスの本当の力だ。




 能力だけじゃない。使い方も、込みで「奪う」。




「やめろ」




 リーダーが言った。




 三人が止まった。カイも構えたまま動かない。




「お前の能力は何だ」リーダーが低い声で聞いた。「コピーじゃない。あれは模写だ。感情まで読んでいる。お前——マーケットのスキャナーか?」




「違う」




「じゃあ何だ」




「第十三区の住人だ」




 リーダーは沈黙した。計算している。三人でかかれば勝てるか——そういう計算だろう。カイにはわかった。今のリーダーの感情が、まだ体の中に残っているから。




「……今夜は引く」リーダーはゆっくり言った。「だが、覚えておけ。マーケットはお前の能力に興味を持つ。必ず来る」




「来たら、また追い払う」




「次は俺たちじゃない。もっと上が来る」




 三人が、闇の中に引いた。







 能力が消えたのは、三人の気配が完全に遠ざかった後だった。




 引力がすっと抜けて、代わりに——空白が来た。




 カイは廃材の山に背をもたせた。膝が笑っている。体の疲れより、内側の空洞の方が大きい。感情が薄い。怒りも、安堵も、勝った達成感も——ない。ただ、静かだ。恐ろしいくらい静かな、内側の世界。




 連とナナセが戻ってきたのは、それから十分後だった。




「勝ったのか」と連が言った。




「追い払った。殺してはいない」




「十分だ」連は周囲を確認してから、倉庫の中に入った。ナナセはその後ろに続いた。カイの顔を見て、何か言いかけて、やめた。




 カイは壁に頭をもたせたまま、ナナセを見た。




「お前の能力を、奪ったのはあいつらか」




 ナナセは少し間を置いてから、頷いた。




「どんな能力だった」




「……水」ナナセはかすれた声で言った。「水を、動かせた。それだけ」




「それだけ、じゃない」




 カイは言った。




「それが、お前の力だ。奪われたからって、消えるわけじゃない」




 ナナセの目が、わずかに動いた。何かが揺れた。でもすぐに戻った。まだ、何も信じていない。信じるには、傷が深すぎる。それはカイにもわかった——流れ込んできた感情の欠片に、そういうものが含まれていたから。




「今夜は、ここにいろ」カイは言った。「明日、もっと安全な場所を探す」




「なんで」ナナセが言った。「あたしのために、戦う理由が……あなたにはない」




 カイは少し考えた。




 正直に答えることにした。




「理由はない」カイは言った。「でも、流れ込んできた」




「……何が」




「お前の感情が。子どもの泣き声が。おれの中に」




 ナナセが、初めて表情を変えた。驚きに近い何かが、灰色の目を横切った。




「能力を使うたびに、相手の感情がおれに入ってくる。好きでそうなるわけじゃない。でも、入ってきた。だから——他人事にできなかった。それだけだ」




 ナナセはしばらく黙っていた。




 連は何も言わずに、ランタンの光を調整していた。あえて聞こえないふりをしているのかもしれない。




「……水を、返してもらえる?」ナナセはやがて言った。「あたしの能力、どこかにある?」




「わからない」カイは正直に答えた。「マーケットが奪う方法を知ってるなら、返す方法も誰かが知ってるはずだ。探す」




「どうやって」




「まずは端末の中身を読み解く。あの男——CCAの職員が守っていたものだ。マーケットの情報が入ってる可能性がある」




 ナナセはカイのポケットを見た。端末がそこにあることを、何かで感じ取ったのか。それとも気配か。




「……一緒に、いていい?」




「邪魔にはならない」とカイは言った。




 それが、鏡ヶ原カイにできる最大の「いてもいい」だった。温かい言葉は、今の自分には出てこない。感情が薄いから。でも——ナナセは何かを読み取ったらしく、少しだけ、ほんの少しだけ、膝を抱える力を緩めた。







 夜が深くなった。




 連は「俺は帰る、情報が入ったらまた来る」と言って出て行った。残されたカイとナナセは、ランタンの光の中で、たいして会話もせずにいた。




 カイは端末を手に持って、じっと見つめた。




 引力能力の残滓がまだ体の奥にある。時間が経てば完全に消える。消えると同時に、また空白が来るだろう。今もすでに静かすぎるくらい静かだが、もっと深くなる。感情の空洞。




 でも今夜——ナナセを追い払ったあの瞬間。




 引力が発動して、廃材が飛んで、電撃ロープが外れた瞬間。




 一瞬だけ、何かがあった。




 感情と呼んでいいのかわからない。でも、確かに何かが。胸の中心に、小さな火のようなものが——あった。




 使い終わって消えてしまった。でも確かにあった。




 カイはそれを、長い間考えた。考えながら、端末を握りしめた。金属の冷たさが、手のひらに馴染んでいく。




 マーケットは、もっと上を寄越すと言った。




 アイは、まだこの区にいるかもしれない。




 篠崎コウイチは、どこかの施設で治療を受けている。




 端末の中に、何かがある。




 全部、繋がっている。




 鏡ヶ原カイは十六歳で、能力者でも何でもなかった。三週間前まで。でも今は——世界で最も危険な能力者になる途中の、どこかにいる。自分でもまだわからない場所に。




 ただ一つだけわかることがある。




 おれは、奪う。




 守るために。




◇ ◇ ◇




次話 第四話「端末の秘密」


端末の中身を読み取る手段を探すカイ。連が「読める人間がいる」と言って連れてきたのは、元マーケット技術者の老人・トウジだった。端末に記録されていた内容は——カイ自身の名前だった。

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