第2話「路地裏の掟」
三日後も、雨だった。
ネオ東京では、いつも雨だ。でも今週の雨はいつもより重くて、ビルの合間を縫う風も冷たかった。第十三区の路地裏には、雨が作る無数の小川が流れていた。錆の色をした水が、石畳の隙間を埋めながら、低いところへ低いところへと流れていく。
カイは屋根の下にいた。
廃ビルの三階。床が半分抜けた部屋の隅で、壁にもたれながら自分の右手を見ていた。雨音が屋根を叩く。ネオンの光が割れた窓から差し込んで、手のひらをまだらに照らしている。
その手に、炎は灯らなかった。
あの夜から三日間、一度もうまくいっていない。端末に触れたあの瞬間は確かにあったのに、今はもう何も感じない。あれは錯覚だったのか。疲弊と痛みで見た幻だったのか。でも、指先に炎が宿った感触は——あまりにも鮮明だった。
カイは膝を抱えて、端末を取り出した。
三日間、肌身離さず持っている。読み取る機器がないから中身はわからない。表面に傷一つない、古びた金属製のストレージ。あの男が命がけで守っていたもの。
追手が来る、と男は言った。
来なかった。少なくとも、今のところは。
それが安心材料にならないことをカイは知っていた。来ないのではなく、まだ来ていないだけだ。CCAのバッジをつけた男を追いかけられる相手が、三日で諦めるはずがない。ただ時間をかけているだけか、あるいは——もっと静かな方法で、網を張っているか。
廃ビルの外で、何かが動いた。
気配、というほど大げさなものではない。ただ、雨音のリズムの中に、それとは違う何かが混ざった。靴底が石畳を踏む音。一人。軽い。
カイは端末をポケットに押し込み、壁から体を離した。音を立てずに立ち上がる。三日間、ほとんど寝ていないのに、体は動いた。第十三区で生き延びてきた体は、こういう時だけは素直に動く。
足音は階段を上ってくる。
カイは部屋の隅に体を押しつけた。出口は一つ。逃げ場はない。窓から飛び降りることはできるが、三階だ。今の体の状態ではまずい。
扉が開いた。
◇
入ってきたのは、子どもだった。
正確には、子どもではない。カイと同じくらいか、少し下か。十四か十五といったところ。やけに小柄で、大きすぎるジャケットを羽織っている。フードを深くかぶっているが、顎のラインと口元が見えた。細い。街に住む子どもの顔をしている——つまり、あまり笑わない顔。
子どもはカイを見て、動じなかった。
「やっと見つけた」と言った。声は低くて、年齢に比べて落ち着いていた。「三日、かかったな」
「何者だ」
「情報屋」子どもはフードを少し下げた。くせのある短い髪。右耳に小さなイヤーピース型の端末がある。「連レンって呼んでくれ。第十三区の情報は大体把握してる。そのへんの路地裏のことは全部、俺の耳に入る」
「それで?」
「お前の話も入ってきた」連は部屋の中に入って、カイの反対側の壁に背をもたせた。警戒を解いた様子で、でも距離は保っている。「三日前の夜、第十三区の路地裏で——能力者三人を追い払った無能力者がいるって」
カイは何も言わなかった。
「炎を出したって話も聞いた。NAが炎を出した、って。まあ、木下のやつらが言いふらしてたんだけど」連は肩をすくめた。「あいつら、口が軽いんだよな。恥をかかされたのに、なんで自分から喋るかな」
「俺が炎を出したことを、お前は誰かに売るつもりか」
「違う」連はすぐに言った。「買いに来た」
カイは眉を動かした。
「情報を、買いに来た。お前が持ってる情報を」連の目が、ポケットのあたりに向いた。一瞬だけ。でもカイは気づいた。「CCAの男から何かを受け取っただろ。あの夜、路地裏で倒れてた男から」
「……見ていたのか」
「見てない。でも、そういう情報が流れてきた。お前のことを調べたら、点と点が繋がった。それだけだ」連はジャケットのポケットに手を入れた。出てきたのは、小さな布袋だった。「対価は出す。この区で使える物資カード、五万円分。食えるだろ、しばらく」
五万円。
NAにとって五万円がどういう価値か、カイはよく知っている。能力登録がなければ、まともな仕事に就けない。第十三区でできる仕事は限られていて、日銭を稼ぐだけで精一杯だ。五万円は、ひと月以上を生き延びられる金額だった。
「端末の中身が何か、俺には教えられない」カイは言った。「読み取る機器がない。何が入ってるかもわからない」
「わかってる」連はあっさり言った。「それでもいい。端末そのものの、現物確認だけさせてくれ。ナンバーを控えたい。それだけで、五万は払う」
「なぜそれだけで五万払う」
「買い手がついてるから」連の声のトーンが、少し変わった。「お前に売れとは言わない。ただ、現物が存在することを確認したい相手がいる。それだけで、十分らしい」
カイは黙って考えた。
この子どもは嘘をついていない、という確信があった。理由はわからない。ただ、連の目が——あの夜の男の目に少し似ていた。見下していない。値踏みはしているが、それはビジネスとしての値踏みであって、NAだからというものではない。
「買い手は誰だ」
「言えない。情報屋の原則」
「お前の情報網で、CCAのバッジをつけた男のことは調べられるか」
連が、初めて表情を変えた。わずかに目を細めた。
「調べて、どうする」
「あの男が今どこにいるか知りたい。生きているかどうかも」
しばらく沈黙があった。雨が屋根を叩く音だけが続く。
「……等価交換でいい」連はゆっくり言った。「端末のナンバーと引き換えに、男の情報を取ってくる。物資カードは、その上乗せだ」
「わかった」
カイは端末を取り出した。連が近づいてくる。イヤーピースを操作して、カメラを起動した様子だった。端末のナンバープレートを三秒ほど撮影して、それだけで離れた。物資カードを差し出す。
「二日くれ」と連は言った。「男の情報、取ってくる」
「助かる」
「礼はいらない。ビジネスだ」連はフードを戻して、扉に向かった。足を止めて、振り返った。「一個だけ、タダで教えてやる」
「何だ」
「この区に、CCAの実習生が来てる。昨日から。現場調査名目らしいけど、目的はたぶんお前だ。気をつけろよ」
それだけ言って、連は出て行った。
◇
CCAの実習生。
カイはその言葉を反芻しながら、廃ビルを出た。雨はまだ降っている。フードを深くかぶって、路地裏を歩く。第十三区の地形はすべて頭に入っているから、視線を伏せたまま歩ける。
鏡ヶ原アイ。
その名前が、脳裏に浮かんだ。
アイは、カイの姉だ。二つ上の、十八歳。去年、CCAの実習採用枠に通った。この街では珍しい、NAの家系から出た能力者だった。能力は「感知フィール」——周囲の能力の流れを感じ取る、索敵系の力。戦闘向きではないが、調査や追跡には向いている。
会いたくない、とカイは思った。
単純に、今の状態を見せたくない。あの夜の端末のことも、炎のことも、何も話せない。話せば、アイは守ろうとする。そしてそれは必ず、アイの立場を危うくする。NAの家系というだけで、アイは組織の中でいつも余分な重さを背負っている。これ以上、載せたくない。
路地の角を曲がった。
そこに、立っていた。
「カイ」
声は変わっていなかった。二年ぶりに聞いたのに、すぐにわかった。
鏡ヶ原アイは、紺色の実習生コートを着て、路地の真ん中に立っていた。傘はさしていない。濡れた黒髪が頬に張りついている。カイより少し高い身長。カイとよく似た顔立ちで、でも目の色だけが違う。アイの目は緑がかった灰色で、今その目が——カイをまっすぐ見ていた。
「なんで来た」
「調査だよ」アイは言った。淡々と、でも声の奥に何かがある。「三日前の夜、第十三区でCCA職員が重傷を負った。現場の目撃情報がいくつかあって、絞り込んだらこの区の路地裏に行き着いた」
「俺には関係ない」
「嘘つかないで」
アイの目が、カイの右手に向いた。
ほんの一瞬。でもカイには十分だった。アイの「感知」が、何かを拾っている。普段は何もないはずのカイの右手に、かすかな能力の痕跡が残っているとしたら——アイには、それが見える。
「……何を感じた」とカイは低い声で言った。
「火の残熱。三日前のものだけど、完全には消えてない」アイは一歩近づいた。「カイ、能力が発現したの?」
答えられなかった。
正確には——何と答えるべきかわからなかった。これは自分の能力ではない。模写ミメーシスで借りてきた、木下の炎だ。今はもう使えない。あの一瞬だけ宿って、消えた。それを「能力が発現した」と言えるのか。
「アイ」カイはゆっくり口を開いた。「今は、調べるな」
「カイ——」
「お前の立場が、まずくなる」
アイは黙った。
カイは続けた。「俺のことを調査対象にしたら、お前が書く報告書にアイの名前が入る。NAの家から出た実習生が、弟の調査をした。組織の中で、どう読まれるか、わかるだろ」
「それは」
「お前が心配することじゃない」カイは言った。「俺のことは俺がやる。首を突っ込むな」
アイの目が、細くなった。
怒っているのか、悲しんでいるのか、カイには判断できなかった。二年間、顔を見ていないと、表情の読み方も錆びる。
「……一つだけ聞かせて」アイは静かに言った。「今、危ないところにいる?」
「わからない」
「正直だね」
「嘘をつく理由もない」
アイはしばらくカイを見ていた。それから、コートのポケットに手を入れて、何かを取り出した。小さな通信端末。CCAの支給品ではない、個人の端末だ。
「番号、変わってないから」アイは言った。「本当にどうにもならなくなったら、連絡して。調査じゃなくて、姉として」
端末を、カイの手に押しつけた。
そのまま、アイは歩き出した。路地の出口に向かって、振り返らずに。雨の中に、紺色のコートが溶けていく。
カイは手の中の端末を見つめた。
本当にどうにもならなくなったら——その言葉が、胸の奥のどこかに引っかかった。引っかかったまま、なかなか離れなかった。
◇
問題が起きたのは、その夜だった。
廃ビルに戻ったカイは、空腹に耐えながら壁に背をもたせていた。物資カードは手に入れたが、使える店がこの区には少ない。明日、少し離れたエリアまで出なければならない。そう考えながら、目を閉じていた。
右手が熱くなった。
突然だった。じわりと、指先から熱が広がってくる。あの夜と同じ感覚。端末を持っていないのに——あの夜と、同じ。
カイは右手を開いた。
炎は灯らなかった。
でも、何かが来た。
感情が——流れ込んできた。
今度は木下のものではない。見知らぬ誰かの感情。怒り。恐怖。それと、もう一つ——絶望に近い、深くて重い何か。ビジョンが断片的に浮かんでは消える。薄暗い部屋。チューブに繋がれた腕。ガラスの向こうに立つ人影。白衣。書類に書かれた数字の羅列。そして——子どもの泣き声。
消えた。
カイは床に手をついていた。息が荒い。体の芯が冷えている。
何が起きているのか。
あの夜、端末を握った瞬間に流れ込んできた感情と、今のそれは——同じものだと思った。残像ではない。誰かの「今」だ。今、どこかで、誰かがこの感情の中にいる。
その感情が、自分に流れ込んでくる。
模写ミメーシスは、能力を「複製」する力だと思っていた。でも違うかもしれない。もっと深いところに、触れている。能力だけでなく、それを持つ者の感情にも、記憶にも——繋がってしまっている。
カイは自分の右手を見た。
炎は、ない。
でも、感情だけが——他人の感情が、まだ胸の中に残っていた。
使用後は自分の感情が消えると思っていた。あの夜、炎が消えた後は確かにそうだった。全てが静かになって、恐ろしいくらい空っぽになった。でも今は違う。今は消えるどころか、他人のものが増えている。
これが、代償の本当の意味か。
力を使えば自分の感情が消える。でもそれだけじゃない——使う前から、他人の感情が流れ込んでくる。自分と他者の境界が、薄くなっていく。
どこかで、誰かが泣いている。
子どもが。
その泣き声が、カイの耳の奥から離れなかった。
◇
翌朝、連から情報が届いた。
廃ビルの扉の隙間に、折りたたまれた紙が挟まっていた。「二日と言ったが一日で取れた」という書き出しで、短く情報がまとめられていた。
男の名前は、篠崎コウイチ。CCA第一課、能力捜査専門官。年齢三十七歳。現在は都内某所の非公開施設で治療中——意識はある。
意識はある。
カイはその一文を、三回読んだ。
生きていた。あの男が、生きていた。
紙の末尾に、連の走り書きがあった。
「追記:篠崎コウイチが追いかけられていた理由も、少し見えてきた。詳しくは次に会った時に話す。ただ一個だけ言っておく——お前が持ってるものを狙ってる連中は、CCAじゃない。CCAの中の、別の何かだ。気をつけろ」
カイは紙を折りたたんで、ポケットに入れた。
窓の外に、今日も雨が降っている。
CCAの中の、別の何か。
能力売買組織「マーケット」という名前が、記憶の端に浮かんだ。第十三区に流れてくる噂の中にたまに出てくる名前。能力を商品として扱う組織。能力者の力を「切り売り」する闇市場。実態を知っている者はほとんどいない、でも存在だけは確かな——影。
端末が、またわずかに熱を持った。
カイは目を閉じた。
昨夜の感情の残滓が、まだ胸の底に沈んでいる。子どもの泣き声。チューブに繋がれた腕。白衣の人影。
これが全部、繋がっているとしたら。
端末に入っているものと、篠崎コウイチが命がけで守ろうとしていたものと、今カイの中に流れ込んでくる誰かの感情が——全部、同じ一本の線の上にあるとしたら。
「おれは奪う」
カイは小声で言った。誰に聞かせるでもなく。「でも、それは"守る"ためだ」
雨が降り続けていた。
鏡ヶ原カイの「模写ミメーシス」が、本当に何をする力なのか——その答えは、まだ遠くにあった。でも、近づいていた。確実に。
一歩ずつ、近づいていた。
◇ ◇ ◇
次話 第三話「マーケット」
連から「マーケット」の末端組織が第十三区に来ていると知らされるカイ。能力を奪われた少女・七瀬ナナセとの出会いが、カイに初めて「奪う」以外の選択肢を突きつける。そしてカイの模写ミメーシスは、初めて"戦闘"の場で使われることになる。




