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第16話「廃工場の秘密」

 連が情報を持ってきたのは、移動から四日後だった。




 フジサキの地下鉄拠点に落ち着いて、返還を一日一本続けて、分離制御の訓練を再開して——ようやく生活のリズムができ始めた頃だった。感情値は十六から十八に上がっていた。少しずつ、確かに上がっていた。




「第六区に廃工場がある」連は言った。「そこに、マーケットから逃げてきた者たちが集まっているという情報が入った」




「逃亡者たちか」ソウが言った。




「数は七人から十人程度。マーケットの実戦要員だった者、取引に使われていた能力者、能力を抽出されて捨てられた者——いろんな立場の人間が混ざっている」




「なぜそこに集まっている」




「安全な場所がない者たちが、自然に集まったらしい。第六区の廃工場は、マーケットの監視網の隙間にある。昔から、逃げた者たちが一時的に身を潜める場所として使われてきた」連は端末を見ながら言った。「問題は——マーケットがその場所を特定しつつある、という情報も同時に入ってきた。早ければ三日後に、踏み込まれる可能性がある」




「助けに行くのか」カイは言った。




「それを判断するために、話を聞きに行く方が先だと思う」連は言った。「ただ——一つ、気になることがある」




「何だ」




「廃工場にいる者の中に、炎の能力者がいるという目撃情報がある。背が高くて、顔に古い傷がある、三十代の男」







 炎獄、とカイはすぐに思った。




 第八話で追い払った男。マーケットの実戦要員。縛られた理由があって、それでも一度だけカイに賭けた男。「二度目は任務を遂行する」と言っていた男が——逃亡者として廃工場にいる。




「炎獄か」ソウが言った。




「確証はない」連は言った。「でも特徴が一致する」




「あいつが逃げた、ということは」カイは言った。「縛られていたものが、切れたか。あるいは——切られたか」




「どういう意味だ」




「炎獄には、マーケットに縛られている理由があった。感情を読んでわかった。家族か、大切な誰かを握られていた。それが切れる理由は——二つある。縛られていたものを自分で解いたか、あるいは——握られていたものが、失われたか」




 部屋が静かになった。




「行く」カイは言った。「確認する」







 第六区は工場地帯だった。




 ネオ東京の中でも古い区域で、かつての重工業施設が並んでいる。今も動いている工場もあるが、廃工場の方が多い。煙突が錆びて、壁が崩れかけたビルが、夜の中に影を作っている。




 連に案内されて、四人で歩いた。フジサキは「俺は残る。二百四十七本の管理がある」と言って拠点に残った。トウジも「足手まといになる」と言って残った。




 廃工場の入口は、古い鉄扉だった。鍵はかかっていなかった。中から光が漏れている。




「七人いる」連は小声で言った。「さっきから気配を確認していた。敵意はない。でも警戒している」




「当然だ」ソウは言った。「逃亡者が集まっている場所に、見知らぬ四人が来れば警戒する」




「先に声をかける」カイは言った。「扉を開ける前に」







 カイは扉の前に立った。




「入ってもいいか」カイは言った。大きくはない声で。でも静かな工場の中には届く声で。「敵意はない。話がしたい」




 返事がなかった。




 三十秒待った。




 扉が、内側から少し開いた。




 顔が見えた。若い女性だった。二十代か。目が疲れていた。長い間、眠れていない目。でも、武器を構えている様子はなかった。




「何人いる」女性は言った。




「四人」カイは言った。「全員、マーケットと戦っている。仲間ではないが、敵でもない」




「どうして、ここを」




「情報屋が知っていた。あなたたちを助けたいわけじゃない。話を聞きたい。それと——炎獄という男がいるなら、彼に会いたい」




 女性は少し間を置いた。




 扉が、全部開いた。







 中に入った。




 広い空間だった。かつては機械が並んでいたのか、床に油の染みが残っている。天井が高い。奥に向かって、人影が散らばっていた。




 七人いた。




 年齢も性別もバラバラだった。子どもはいない。全員が大人で、全員が——疲れていた。目が疲れていた。体も疲れていた。でも、諦めた疲れではなく、動き続けてきた末の疲れだった。




 奥に、一人だけ立っている影があった。




 背が高かった。







 炎獄だった。




 黒いコートを着ていた。顔に古い傷がある。目が、第八話の時と少し違った。あの時は仕事の目だった。今は——違う。空っぽに近い目だった。感情が抜けた後の目ではなく、何かを失った直後の目。




「来るとは思わなかった」炎獄は言った。




「逃げたと聞いた」カイは言った。




「逃げた」




「縛られていたものが、切れたのか」




 炎獄は少し間を置いた。




「切られた」炎獄は言った。「マーケットに」







 話を聞いた。




 炎獄の縛られていたもの——弟だった。弟がマーケットに能力を抽出されて、その返還を条件に働かされていた。弟の能力が返ってくれば、自分も自由になる。そういう契約だった。




「でも」炎獄は言った。「一週間前に、弟が死んだ」




「マーケットに」




「病気だった。抽出の後遺症で、体が弱っていた。能力を抜かれた後から、ずっと体調が悪かった。マーケットの施設で、医療を受けながら生きていた。でも——先週、知らせが来た。弟が死んだ、と」




 部屋が静かだった。




「縛るものがなくなった」炎獄は言った。淡々と。感情が薄い声だった。でもゼンの空洞とは違う——感情が薄いのではなく、感情が多すぎて、表に出てこられない状態の声だ。「だから逃げた。もう従う理由がなかった」




「なぜここに来た」




「行く場所がなかった。マーケットに追われている。一人では長持ちしない。ここにいる者たちも、同じ状況だと聞いた。集まっていれば、少しは持つかもしれないと思った」




「三日後に、マーケットに踏み込まれる可能性がある」カイは言った。




「知っている」炎獄は言った。「知っていて、まだここにいる。逃げる気力も、正直なくなってきていた」







 カイは炎獄を見た。




 第八話の時——感情を読んだ。底に沈んでいた怯えを読んだ。縛られた人間の怯え。炎獄はあの時、カイに賭けた。一度だけ目を瞑った。その理由が——弟への思いだったとしたら。




「弟の名前を教えてくれ」カイは言った。




 炎獄は少し止まった。




「なぜ」




「あなたの弟の能力が、フジサキの持っているガラス管の中にあるかもしれない。もし能力が保存されていれば——弟が死んでも、その能力は残っている。返す相手がいなくなっても、消えるわけじゃない」




「……返す相手がいなければ、意味がない」




「意味はある」カイは言った。「能力は感情が形になったものだ。あなたの弟の感情が、どこかに残っている。それを、どうするかを決められるのは——あなただ」




 炎獄は長い間、カイを見た。




「……リュウ」炎獄はやがて言った。「弟の名前はリュウ。炎の能力を持っていた。おれと同じ、炎だ」







 廃工場にいた七人と、長い話をした。




 全員が、マーケットに何かを奪われていた。能力を。家族を。時間を。誰かがそれをリストアップし始めた。連が端末に書き取った。




 七人のうち三人が、フジサキの持っているガラス管と照合できる可能性があった。連がリストを確認した。「持ち主が見つかった」というケースが三件あるということを、連はフジサキに送信した。




 フジサキから返信が来た。「記録と照合する。明日までに確認する」







 問題は、三日後だった。




「この場所を出なければならない」カイは七人に言った。「三日後に来る前に、別の場所に移動する必要がある」




「どこに行けばいい」一人が言った。四十代の男だった。工場で使っていた重機能力の持ち主らしく、手が大きかった。「この街で、マーケットに追われている者たちが安全でいられる場所なんて、ない」




「一つある」カイは言った。




「どこだ」




「フジサキ・ユウという人間が持っている地下鉄の拠点だ。CCAにもマーケットにも場所を知られていない。今のところは」




「フジサキ・ユウ」炎獄が繰り返した。「プロジェクト・ミメーシスの」




「知っているのか」




「名前は知っている。マーケットが長年探している人間だ。生きていたのか」




「生きている」カイは言った。「今は、同じ方向を向いている。来るかどうかは、あなたたちが決めることだ。強制はしない」




 七人が顔を見合わせた。




 炎獄は少し間を置いてから、言った。「おれは行く」




 それが合図になった。残りの六人も、それぞれに頷いた。







 移動の日程を決めた。




 明後日の朝。二日の猶予がある。その間に、連が安全なルートを確認する。フジサキが受け入れの準備をする。




 廃工場を出る前に、炎獄がカイに近づいてきた。




「一つだけ聞いていいか」炎獄は言った。




「何だ」




「あの夜——第八話の時、お前はおれに言った。縛られているものを解く方法を、一緒に考えると」炎獄は静かに言った。「弟は死んだ。縛られていたものは、最悪の形で切れた。でも——お前が言ってくれた言葉は、あの夜から頭の中にあった」




「それが逃げる理由になったのか」




「逃げる、という考えを持てたのは——お前が選択肢として出してくれたからかもしれない。従い続けることが唯一の選択だと思っていた。でもあの夜、別の選択があると——言葉にして言われた」




 カイは炎獄を見た。




 感情が薄い。でも——この男が今夜ここにいることの重さは、論理としてわかった。弟を失って、縛りが切れて、それでも生きている。逃げることを選んだ。その選択の一端に、カイの言葉があった。




「弟の能力を、探す」カイは言った。「リュウという名前で、炎の能力。二百四十七本の中にあれば、見つける」




「見つけてどうする」




「あなたが決める。返す相手がいないなら、別の使い方がある。弟の能力を——誰かに返してもいい。それが誰かは、あなたが決める」




 炎獄は少し間を置いた。




「……考える」炎獄は言った。




「時間はある」カイは言った。「急がなくていい」







 廃工場を出た。




 夜の第六区を、四人で歩いた。工場の煙突が影を作っている。どこかで機械の音がしている。今夜は雨がなかった。珍しい。でも空気は重かった。降る前の重さ。




 ソウが歩きながら、低い声で言った。「炎獄が来る。他に六人。フジサキの拠点は、人数が増える」




「手狭になるか」カイは言った。




「手狭は問題じゃない」ソウは言った。「人数が増えれば、情報が漏れやすくなる。全員が信頼できるかどうか——確認が必要だ」




「連が確認する」カイは連を見た。




「してる」連は端末を見ながら言った。「七人全員の背景を洗う。マーケットのスパイが混ざっている可能性はゼロではない。二日で全部は無理だが、できる範囲でやる」




「頼む」




「一つだけ言っておく」連は端末を閉じて言った。「炎獄については——おれは信頼していいと思う。弟の死という状況を、偽装するのは難しい。ただ、他の六人については——保留だ」




「わかった」カイは言った。「判断はお前に任せる」







 拠点に戻ると、フジサキが待っていた。




「七人か」フジサキは言った。




「全員が来るとしたら、七人。炎獄という男も含めて」




「炎獄」フジサキは繰り返した。「マーケットの実戦要員の中でも、上位の人間だ。彼が来るなら——戦力として、大きい」




「戦力として見るのは、まだ早い」ソウは言った。「弟を失ったばかりの人間を、すぐに動かそうとするな」




「そうだな」フジサキは素直に言った。「急ぎすぎた」







 その夜、返還を一本やった。




 フジサキが「炎獄の弟——リュウという名前で照合した」と言った。「記録に該当するものが一本ある。炎の能力、十八年前の抽出記録。場所は第三区」




「十八年前」カイは言った。「炎獄の弟は何歳だ」




「わからない。でも十八年前なら——炎獄自身が、まだ十代だったかもしれない。弟はそれ以下だ」




「子どもから奪ったということか」




「マーケットは年齢を問わない」フジサキは言った。声が重かった。「十八年前から、やっていた。それが現実だ」




 カイはガラス管を見た。二百四十七本の中の一本。リュウという名前の炎の能力が入っているガラス管。




「今夜は別の一本を返す」カイは言った。「リュウの能力については——炎獄が来てから、炎獄と一緒に決める」




「わかった」フジサキは頷いた。







 返還後、カイは測定した。




 感情値、十九。




 一本返すたびに、一から二上がっている。下落が完全に止まって、上昇に変わっている。臨界の五まで、あと十四。




 三か月以内にゼロになる、という予測が、今は変わっている。返還を続けながら分離制御を習熟させれば——感情値の上昇が、下落を上回る。




 全部が、ゆっくりと、動き始めていた。







 深夜、カイは端末を開いた。




 篠崎の追記を読んだ。「最後に残るものを、信じろ」という言葉。




 最後に残るもの。




 今の自分の中に、何が残っているか。




 感情値十九。まだ低い。でも——風の喜びがある。電撃の男の「ありがとう」がある。ナナせの「一緒に」がある。炎獄の、弟を失った重さがある。廃工場の七人の、疲れた目がある。




 全部、受け取ったものだ。他者から来たものだ。でも——カイの中にある。カイが預かっている。




 奪うのではなく、預かる。




 その先に——返す、がある。




 返すことで、カイも軽くなる。返すことで、補充される。循環している。受け取って、持って、返す。その循環の中で、カイは生きている。




「そういうことか」カイは小声で言った。




 雨が降り始めた音がした。ネオ東京では、いつも雨だ。




 でも今夜は——雨音が、どこか優しかった。降りかかるのではなく、染み込んでくるような、霧に近い雨だった。







 翌朝、トウジが来た。




 いつものコートで、ツールバッグを持って。感情値を測って、「十九か」と言った。




「上がっている」カイは言った。




「うん」トウジは言った。「上がっている」




 短い言葉だったが——トウジの目が、少し違った。皺の奥の目が、何かを見ているような。遠くを見ているような。




「トウジ」カイは言った。「フジサキが逃げた後、十年間——お前はどこで、何をしていたのか、まだ聞いていなかった」




「聞くか」




「聞きたい」




 トウジは少し間を置いた。




「今夜、話す」トウジは言った。「今日は測定と返還の準備がある。夜に、時間を作ろう」




「わかった」カイは言った。







 夕方、炎獄から連絡が来た。




 廃工場の全員が移動の準備をした、という連絡だった。予定通り、明後日の朝に移動する。炎獄からは「一つだけ確認したい。リュウの能力が見つかったと聞いた。本当か」という一文が追加されていた。




 連がカイに見せた。




「本当だ、と返してくれ」カイは言った。「来てから、一緒に確認する」




 連が返信した。







 夜、トウジが話した。




 フジサキが逃げた後、トウジが何をしていたか。




「後悔していた」トウジは言った。最初にそれを言った。「プロジェクトに関わったことへの後悔。サキとジンが死んだことへの後悔。フジサキが逃げた時、俺はもう組織にはいなかったが——止められなかったことへの後悔」




「止めるとは、どういうことをするつもりだったのか」




「サキとジンを逃がすことが、できたかもしれなかった」トウジは言った。「俺は技術者だった。組織の中の動きは見えていた。二人に危険が迫っていることは、わかっていた。でも——動けなかった。臆病だったから。自分が消されるのが怖かったから」




 部屋が静かだった。




「その後、第十三区に来た」トウジは続けた。「能力を失った者たちが流れてくる場所に来て——小さな修理屋として暮らした。何もできなくても、近くにいることで、何かの役に立てるかもしれないと思った。それだけだ」




「おれに篠崎の情報を提供した時——それも、その一部か」




「そうだ」トウジは言った。「十年間、できなかったことの代わりを、少しずつやってきた。それがお前と会って——少し動き始めた気がしている」




「動き始めた、とは」




「後悔が、動力になる時がある」トウジは言った。「後悔しているから止まっている、のではなく——後悔しているから、動く。そういう動き方が、やっとできるようになってきた気がする」







 その夜、カイは少し長く考えた。




 炎獄の弟が死んだ。縛りが切れた。でも炎獄は逃げた。生きることを選んだ。




 トウジは十年間後悔していた。でも動き続けた。後悔を動力にした。




 フジサキは十年間、準備を続けた。二百四十七本のガラス管を集めた。返還の技術を完成させた。




 篠崎は十年間、端末を守った。




 みんなが何かを抱えながら、動き続けていた。カイだけではない。カイが知る前から、全員が——同じ方向へ、少しずつ、動いていた。




 カイがその輪の中心に来た。輪がある場所に来た。輪を作ったのではなく——もとからあった輪に、入った。




「おれは奪う」カイは小声で言った。「でも、それは守るためだ」




 その言葉が、今夜は少し違う重さを持っていた。守る対象が、具体的になっていた。名前がついていた。顔がついていた。




 ネオ東京では、いつも雨だ。




 でも今夜は——雨の向こうに、霧が来ていた。柔らかい水分が、空気に混ざっていた。




◇ ◇ ◇




次話 第十七話「逃亡者の話」


廃工場の七人がフジサキの拠点に合流した。その中の一人——元マーケット工作員の中年男、ハシバが語り始めた。「組織の実態」を。能力は奪われ、改造され、売られる。そして——マーケットが次に狙っているものが、カイたちの思っていたより、大きかった。

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