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第15話「記憶の洪水」

 移動は、朝の五時に始めた。




 人が少ない時間帯を選んだ。連が最短ルートを確認して、ソウが先頭を歩いた。カイが荷物を持って、ナナせが連の後ろに続いた。フジサキの地下鉄拠点まで、地上を二十分、地下に入ってから五分の距離だった。




 十分で問題が起きた。




 第八区と第七区の境界付近で、連が止まった。




「気配がある」連は低い声で言った。「前方。少なくとも二つ。こちらの動きを知っている」




「昨夜から張っていたのか」ソウが言った。




「たぶん。昨夜の報告を受けて、逃げるルートを予測した。第七区に向かうとしたら、ここが最短だ」




「迂回は」




「迂回すれば——」連は端末を素早く確認した。「三十分以上かかる。その間に別の場所でも気配が出る可能性がある」




 カイは周囲を見た。




 夜明け前の第八区。人通りは少ない。ビルの合間から、灰色の空が見えている。雨は今日は降っていないが、空気が重い。降る前の重さだ。




「このまま進む」カイは言った。




「前方に二人いる」ソウは言った。「お前は戦えるか。昨夜消耗しただろう」




「問題ない」




 嘘ではなかった。昨夜の消耗は大きかったが、今朝は少しだけ回復している気がした。感情値が正確にいくつかはわからないが——まだ動ける。それだけはわかった。




「行く」カイは言った。







 前方の二人は、路地の出口で待っていた。




 カイたちが角を曲がった瞬間に、動いた。最初から戦うつもりで来ている。交渉の気配がない。




 一人が地面から黒い液体を出した。粘性の高い黒い物質が、路地の石畳を覆い始めた。足を取られれば動けなくなる。拘束系の能力だ。




 もう一人が両手を広げた。透明な壁が現れた。前方を塞いでいる。引き返せ、ということか。いや——後ろにも気配が来ている。挟み込む算段だ。




 後ろから二人。前から二人。




 四人。




「後ろに回れ」ソウがナナせと連に言った。「俺が後ろを押さえる」




「俺も戦う」連は言った。




「お前の仕事はナナセを守ることだ」ソウは言った。「今すぐ」




 連は一瞬だけ止まった。それから頷いた。ナナせと一緒に後退した。ソウが背後に向き直った。




 カイは前方の二人に向かった。




 黒い液体が広がっている。足に触れると、引力のように引き寄せられる感触がある——液体が靴底に絡みつく。走り続ければ剥がせるが、速度が落ちる。




 透明な壁が近づいてくる。壁ごと押し込んでくるつもりらしい。能力者が後ろに立って、壁を前進させている。


 


 カイは止まらなかった。




 透明な壁に、右手を当てた。壁の表面に触れた瞬間——壁が固定された。動かなくなった。壁を操作していた男が、手に力を込めた。でも動かない。カイが壁を掴んでいる。壁そのものを「接触」として使えるかどうか、わからなかったが——壁越しに、能力者の感触が来ていた。




 感情が来た。




 壁の能力者の感情——驚き、と焦りが混ざっている。壁を動かせなくなった驚き。計画が崩れた焦り。




 能力が来た。透明な壁を生成する力。空間に固定された面を作る。密度は調整できる。複数の壁を同時に展開できる。




 カイは壁の向きを変えた。前方を塞いでいた壁が、横に回転した。黒い液体の男を、壁で押した。液体の男が後退した。バランスを崩した。




 その隙間に踏み込んだ。黒い液体を壁でガードしながら前進した。壁の男との距離が縮んだ。




 二歩で届いた。壁の男の肩を掴んだ。







 感情が来た。二人目。




 壁の男は——疲れていた。マーケットの任務が続いて、休めていない疲労が、感情の底に溜まっていた。怒りや恐怖よりも、重い疲れが支配していた。使命感も義務感もなく、ただ動いている疲れた人間の感情。




 能力が来た。




 と同時に——液体の男の能力も、まだカイの中にあった。壁の能力と液体の能力が、同時に体の中にある。二種類が混在している。干渉しないかどうかは、やってみるまでわからなかった。




 試した。




 二つが同時に動いた。




 頭が、割れそうだった。




 それが最初の感覚だった。二種類の能力の「使い方」が、同時に流れ込んでいる。二種類の感情も同時にある。黒い液体の男の感情と、壁の男の感情が、カイの中で混ざった。混ざり合った感情が——カイ自身の感情の残滓と区別がつかなくなっていく。




 まずい、と思った。




 でも止められなかった。







 後ろで戦闘音がした。ソウが後方の二人と戦っている。一人は制圧したらしい音がした。もう一人の能力の気配が強くなっている。




 カイは壁を展開した。透明な壁を複数、路地の左右に立てた。黒い液体の男が迂回しようとするのを壁で制限した。後方から来ている能力者の攻撃を遮断した。同時に、液体の能力で——地面に薄く液体を広げた。黒い液体は、カイが操作すれば、こちらの自由になる。後方の能力者の足元に広がった。




 二つの能力を同時に使っている。




 感情の洪水が続いていた。




 黒い液体の男の疲労と、壁の男の疲れと——後方の二人の気配から、まだ何かが流れ込んでくる。接触していない相手の感情は来ないはずだった。でも——周囲の感情の圧が、強すぎて、皮膚から染み込んでくるような気がした。




 これが、複数同時の代償だ。




 接触した相手の感情だけでなく、周囲の感情まで受け取り始めている。感情の境界が、薄くなっている。自分とそれ以外の境界が。




 カイは目を閉じた。




 一瞬だけ。




 感情を、整理した。自分のものと、他人のものを、分ける。今まで訓練してきた分離制御——能力の層と感情の層を分けることだけでなく、自分の感情と他者の感情を分けること。それが、今必要だとわかった。




 線を引いた。




 内側に。自分の感情と他者の感情の間に、薄い線を引いた。完全には引けない。でも——少しだけ、分けられた。







 後方の戦闘が終わった。




 ソウの声がした。「こちらは終わった。お前は」




「もう少し」カイは言った。




 前方の二人は、もう戦闘不能に近かった。黒い液体で足が固定されている。透明な壁で行動を制限されている。二人とも、動こうとしているが動けない。




 カイは壁と液体の能力を、同時に解除した。




 頭の中で、何かが崩れた。




 能力が抜けた時の空白ではなく——能力が抜けた後に残った感情の残滓が、一気に動いた。二人分の感情が、解放された瞬間に押し寄せてきた。液体の男の疲労と、壁の男の疲れが——カイの感情の中に混ざり込んできた。




 石畳に膝をついた。




 気づいた時には、膝をついていた。







 ソウが来た。




「カイ」ソウの手がカイの肩に触れた。「どうした」




「……感情が、混ざった」カイは言った。声が、いつもより遅かった。「二人分が同時に来て——自分のものと、区別がつかなくなった」




「感情値は」




「わからない。でも——下がった。かなり」




「立てるか」




「立てる」カイは壁に手をついて立った。体は動く。でも——内側が、いつもの空白とは違う状態になっていた。空白ではなく、混濁している。他人の感情が入り込んだまま、出ていかない。




 連が来た。「前方は通れる。急いで移動しよう」




 ナナせが来た。カイの顔を見て、少し目を細めた。何かを言いかけて、止めた。今は移動が先だと判断したのか、あるいは——言葉で整理できない何かを感じ取ったのか。







 フジサキの地下鉄拠点に着いたのは、朝の七時過ぎだった。




 フジサキが入口で待っていた。カイの顔を見て、すぐに何かを判断した。「こちらに来い」と言って、奥の部屋に通した。




 プラットフォームの奥に、小さな部屋があった。旧地下鉄の資材置き場だったらしく、棚が並んでいる。そこにカイを座らせた。フジサキが端末を取り出した。




「感情値を測る。アイさんが機器を置いていった」




 測定した。




 画面を見たフジサキの表情が、固まった。




「いくつだ」カイは言った。




「……十二」フジサキは言った。




 十二。




 二十三から十二。一夜で十一下がった。




 カイは数字を聞いた。怖い、という感情が来るかと思った。でも——来なかった。来なかったことが、むしろ怖かった。感情値が十二になって、怖いという感情も薄くなっている。




「複数模写の代償が、予測より大きかった」フジサキは言った。「二人同時は、一人の二倍ではなく——三倍か四倍の消耗になる。干渉が起きるから」




「わかっていたのか」




「理論上はわかっていた。でも、お前がこれほど急速に進めるとは予測していなかった」フジサキは言った。「申し訳ない」




「お前のせいじゃない」カイは言った。「状況がそうだった」







 アイに連絡が入ったのは、その日の昼だった。




 フジサキの拠点に暗号化した通信が届いた。アイからだった。




「感情値を聞いた。連から。今すぐ行きたいが、副長官の監視が続いている。セキが別ルートで向かわせてくれる人間がいる。今日の夕方に着く。待っていてくれ」




 セキが送る人間、とは誰か。




 夕方になってわかった。




 トウジだった。







 トウジが来た。ツールバッグを持って。普段より少し足が速かった。地下の階段を降りてきて、カイを見て、眉間に皺を寄せた。




「十二か」トウジは言った。




「測ったのか」




「顔を見ればわかる」トウジは荷物を置いた。「ツールバッグに、アイさんが使っていた機器と同じものを持ってきた。セキが手配した。こちらで測定と管理を続けろ、という話だ」




「アイは来られないのか」




「今はまずい」トウジは椅子に座った。「副長官の動きが強くなっている。アイさんが動けば、こちらの場所が特定される可能性がある。しばらくは、おれが代わりを務める」




 カイはトウジを見た。




 七十近い老人が、地下鉄の廃線跡まで来た。足が少し不自由そうだったが、来た。




「ありがとう」カイは言った。




「礼はいい」トウジは言った。「ただ——もう一度、フジサキと二人で話してきた。返還のペースを上げることを考えた方がいい、という話になった」




「感情値の回復を優先するために、か」




「そうだ。一日一本のペースを、状況が許せば増やす。ただし——無理はするな。感情値が十を下回れば、返還自体が危険になる可能性がある。フジサキが言っていた」




「十を下回れば、どうなる」




「制御が——難しくなる。感情が薄すぎると、逆流を防ぐ防壁が機能しなくなる可能性がある。返還中に能力が逆流して、カイの中に留まってしまう。出ていかなくなる」




 カイは自分の右手を見た。




 今も、昨夜の二人分の感情が混濁している。出ていかない感情の残滓。あれが、もっと深刻になる。




「十二から十まで、あと二だ」カイは言った。「時間がない」




「だから今夜から返還を再開する」フジサキが入口から言った。「休んでから、今夜。無理はしなくていい。一本でいい」







 夕方、カイは一人でプラットフォームに出た。




 ランタンを持って、錆びたレールの前に立った。旧地下鉄のレールが、暗い向こうに延びている。どこかへ続いている。でも、どこへ続くかはわからない。




 自分の右手を見た。




 感情値十二。




 昨夜の混濁が、まだ残っている。二人分の他者の感情が、自分の感情の残滓に混ざり込んでいる。整理できていない。




 怖い、という認識は——まだある。論理としてでも、ある。十二になっても、まだある。




「消えたくない」カイは小声で言った。




 暗いトンネルに、声が吸い込まれた。




 ナナせが後ろに来た気配がした。振り返らなかった。でも気配はあった。




「昨夜のこと、教えてくれる」ナナせは言った。「複数模写の時、何が起きたか」




「感情が混ざった」カイは言った。「二人分の感情が同時に来て、自分のものと区別がつかなくなった」




「怖かった?」




「怖いと思う前に、なっていた。気づいた時には、なっていた」




「今は」




「混濁が残っている。他人の感情が出ていかない。液体の男の疲労と、壁の男の疲れが——まだある」




 ナナせは少し間を置いた。




「それ、どんな感じ? 他人の感情が出ていかないのは」




「……重い」カイは言った。しばらく考えてから、言った。「荷物を持ったまま、降ろせない感じ。誰かの荷物を預かって、返せなくなった感じ」




「辛い?」




「辛い、というのが自分の感情なのか他人の感情なのか、判断できない。だから——辛いのかどうかも、よくわからない」







 ナナせは隣に立った。




 しばらく、二人でレールを見ていた。




「あたし」ナナせは言った。「水の能力が戻った後、少し感情が戻った気がした。言ったよね、前に」




「言っていた」




「あの時——水が動いた瞬間に、最初に来たのが嬉しいとか安堵とかじゃなかった。一番最初に来たのは——悲しみだった」




「悲しみ」




「三年間、水がなかった。その三年間の悲しみが、一気に来た」ナナせは言った。「戻ったことで——失っていた時間の重さが、わかった。戻らなければ、その重さはわからなかった。戻ったから、重さがわかった」




 カイは少し考えた。




「感情が戻ることで、失っていた時間の感情も一緒に来る、ということか」




「うん。だから——カイの感情が戻る時も、たぶん一気に来ると思う。今まで感じられなかった分が、重なって来るかもしれない。それが怖くないか、心配してる」




「怖いかどうか、今は判断できない」カイは言った。




「そうだね」ナナせは言った。「でも——来た時に、一人にならないようにする。あたしがいる。ソウさんもいる。連もいる。アイさんも。みんないる」




 カイは何も言わなかった。




 言葉が出なかった。感情が薄いからではなく——出てくる言葉が、今の自分には持ちきれない何かを含んでいる気がして、うまく出せなかった。




「わかった」カイはやがて言った。それだけ言えた。







 夜、返還を一本やった。




 フジサキが選んだのは、記録上「第十三区の女性、二年前の抽出、風の能力」というガラス管だった。持ち主は今、第十二区にいると連が確認してくれていた。今夜は本人を呼べない。持ち主に戻す前に、一度カイが開放して——感情の補充だけを受け取る形で試した。




 返還先がない場合、フジサキが用意した「受け皿」に一時的に保管する方法がある。完全な返還ではないが、カイの感情値を補充することはできる。




 ガラス管を開放した。




 風の能力が流れ込んできた。軽い。炎や重力とは違う、軽くて広い感触。風が吹く時の感触——どこか自由な感触がある。




 感情が来た。




 風の能力を持っていた女性の感情の断片。喜びが多かった。能力を使うことへの、純粋な喜び。失われた後の悲しみも来た。でも——失われる前の喜びの方が、重かった。




 カイは受け取った。




 今日は——感情と能力を同時に受け取った。分けようとしなかった。分離制御を使わずに、全部を受け取った。混濁している内側に、新しい感情の流れが加わった。




 混濁が、少しだけ、整理された気がした。




 他者の感情が出ていかない状態に、新しい感情の流れが加わることで——動かなかったものが動いた。川に新しい水が入ることで、溜まっていたものが流れ出すような。




 完全ではない。でも——少しだけ、混濁が薄くなった。







 測定すると、十二から十四になっていた。




 二上がった。




 フジサキは「予想通りだ」と言った。「昨夜の消耗が大きかったが、返還で補充された。このペースを維持すれば——感情値の下落は止まる可能性がある」




「止まる、だけか」




「上昇するかどうかは——分離制御の完成次第だ。消耗を限りなくゼロに近づければ、返還で得る補充が純粋なプラスになる。そうなれば、上昇する」




「分離制御は、まだ完成していない」




「わかっている」フジサキは言った。「でも、方向は見えている。焦らずに進める」







 深夜、全員が眠った後で。




 カイは旧地下鉄のプラットフォームに一人で出た。




 ランタンなしで、暗闇の中に立った。錆びたレールが足元にある。どこかへ続いている。




 昨夜の複数模写の感触が、まだ体にある。二人分の感情の混濁が、少しだけ薄くなったが、まだある。液体の男の疲労と、壁の男の疲れが——薄く、残っている。




 でも。




 風の女性の喜びも、残っていた。




 軽くて広い、風の喜び。能力を使うことへの純粋な喜び。それが——混濁の中に、小さく光っていた。他者の感情が混ざっていることの、これは——別の側面かもしれない。




 他者の感情が出ていかない。それは混濁だ。重さだ。荷物を降ろせない状態だ。でも——その荷物の中に、喜びもある。悲しみだけじゃない。三年間水がなかった女性の喜びが、カイの中に残っている。




 それを、カイは——自分の感情として受け取れるか。




 わからない。他者のものを自分のものと言えるかどうか。




 でも——ある。確かにある。混濁の中に、喜びが光っている。




 カイは右手を開いた。




 何も出なかった。炎も、壁も、液体も——今夜は出さなかった。ただ、手を開いて、暗闇の中に向けた。




 自分の内側に、何があるかを確認するために。




 感情値十四。臨界まで、あと四。




 でも——風の喜びが、混濁の中に光っている。




 液体の男の疲労も、壁の男の疲れも、カイの中にある。でもそれは——他者の重さを、カイが引き受けているということでもある。




 引き受けている。




 奪う、とは違う。受け取って、引き受ける。返せる時に、返す。それがカイの能力の本当の形かもしれない。




 フジサキが言っていた。返還の時、媒介者に感情の一部が残る。でもその一部は——消耗ではなく、補充として来る。




 奪うのではなく、預かる。預かって、返す。




 その過程で——少しだけ、残る。




「そういうことか」カイは暗闇に向かって言った。




 答えは来なかった。当然だった。でも——何かが、少し整理された気がした。







 翌朝、トウジが測定した。




 十五になっていた。




 一晩で一上がっていた。返還なしに、上がっていた。




「なぜ上がった」カイはトウジに聞いた。




「昨夜、何かあったか」トウジは逆に聞いた。




「考えていた。他者の感情を預かる、ということについて」




 トウジは少し間を置いた。




「フジサキの理論に、一つある」トウジは言った。「感情は、意味を持つことで補充される。受け取った感情に——意味を見出した時、それが補充になる。昨夜、お前は受け取った感情に意味を見出したのかもしれない」




「意味、か」




「難しい言い方をすれば——感情の意味論だ。感情値は数字だが、それだけではない。感情が何のためにあるか、を理解することが——感情値を補充する」トウジは言った。「お前の能力は、他者の感情を受け取る。それが消耗になるのか補充になるのかは——お前がそれをどう受け取るか次第かもしれない」




 カイは右手を見た。




 風の喜びが、まだある。液体の男の疲労も、壁の男の疲れも、まだある。でも昨夜より——整理されている気がする。他者のものとして持っているのではなく、預かっているものとして持っている感覚。




「返せる時に、返す」カイは言った。




「そうだ」トウジは頷いた。「返すことで——お前も軽くなる。そして補充される」







 その日の午後、アイから連絡が来た。




「感情値が上がっていると連から聞いた。よかった。副長官の動きは続いているが、セキが情報を遮断してくれている。篠崎の面会が、近日中にできるかもしれない。もう少し待って」




 カイは端末を見た。




 篠崎に会える。「なぜ十年間守り続けたのか」を聞ける。




 感情値は今日で十五。臨界まであと五。まだ余裕があるとは言えない。でも——昨日より一上がっている。方向は、変わった。




 下がり続けていたものが、止まった。




 止まって、少しだけ、上を向いた。







 夕方、返還を一本やった。今日は持ち主が来た。第十一区の男性で、一年前に電撃能力を抜かれたという。




 カイが開放して、返した。




 電撃が男の体に戻った瞬間——男は両手を見た。長い間、見た。それから「ありがとう」と言った。一言だけ。でも——その一言が、重かった。




 返還後、カイの感情値は一上がって十六になった。




 今日で三日連続、上がっている。







 夜、ソウが「今日の訓練ができなかった」と言った。「移動と戦闘と、バタバタしすぎた。明日からは再開する」




「わかった」カイは言った。




「感情値が上がり始めた」ソウは言った。「それは——お前が何かを掴んだからだ。何を掴んだか、お前自身わかるか」




「少し、わかる気がする」カイは言った。「受け取ったものを、預かっているものとして持つ。奪ったものではなく、預かっているものとして」




「奪うのではなく、預かる」ソウは繰り返した。「それが——お前の能力の本当の形か」




「まだわからない。でも——奪う、とだけ言っていた頃より、少し軽い気がする」




「軽い、か」ソウは少し間を置いた。「格闘で言えば——力を抜いた方が速く動ける、ということと似ているかもしれない。力んでいる時より、脱力している時の方が、本当の力が出る」




「力を抜いた方が強い」




「そうだ」ソウは言った。「お前の能力も——奪おうと力んでいる時より、受け取ろうと脱力している時の方が、きっと深く届く」







 その夜のネオ東京は、珍しく霧が出ていた。




 地上に少し出ると、ネオンの光が霧に滲んで、世界がぼんやりとしていた。雨ではなく、霧。柔らかい水分が、空中に漂っている。




 ナナせが外に出て、霧の中に手を伸ばした。




 霧が、ナナせの手のひらの上に集まった。水の能力で、霧の水分を集めている。手のひらの上に、小さな水球ができた。




 それを見て、カイは思った。




 霧は、雨と同じ水だ。でも降り方が違う。雨は地面に叩きつける。霧は漂って、柔らかく、どこにでも染み込む。




 模写ミメーシスは——霧のようなものかもしれない。




 雨のように叩きつけて奪うのではなく、霧のように漂って、触れて、受け取って、返す。




 カイは右手を霧の中に出した。




 霧が、手のひらに当たった。冷たくて、柔らかかった。




 感情値十六。臨界まで、あと六。




 でも——方向が変わった。下ではなく、上を向き始めた。




 ネオ東京では、いつも雨だ。でも今夜は霧だった。




 霧の中で、カイは手を開いたまま、しばらく立っていた。




◇ ◇ ◇




次話 第十六話「廃工場の秘密」




連の情報網が、マーケット末端の拠点を特定した。そこに逃亡者たちが集まっているという。廃工場に踏み込んだカイたちが見たのは——マーケットから逃げてきた者たちと、その中に一人、見覚えのある顔だった。元マーケット実戦要員・炎獄が、逃亡者として廃工場にいた。

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