第13話「能力売買の実態」
返信は、三日後の夜に来た。
連が端末を見て、少し止まった。止まり方が、いつもと違った。情報屋として情報を受け取る時の止まり方ではなく——何かに驚いた時の、人間の止まり方だった。
「来た」連はやがて言った。
「買い手からか」
「ああ」連は端末をカイに見せた。「読んでくれ」
短いメッセージだった。
「会いたい。場所はこちらが指定する。来られるなら、今夜。一人で来るなら、危険はない。複数で来るなら、こちらも準備する。選択はそちらに任せる——ユウ」
ユウ。
カイは一文字を見た。名前の一文字だけが署名として書かれている。
「フジサキ・ユウだ」連は言った。静かに、でも確信を持った声で。「本人が、出てきた」
◇
ソウが「一人で行くな」と言った。即答だった。
「危険はないと書いてある」
「そういう文句を信じる人間が生き延びられるなら、この街はもっと平和だ」ソウは言った。「せめて二人で行け。俺が一緒に行く」
「複数で来るなら準備する、と書いてある」
「それは脅しじゃない」連が言った。「読み方の問題だ。複数で来るなら、向こうも複数で備える、ということだ。来るなとは言っていない。選択はこちらに任せる、と書いてある。つまり——複数で行っても、会う意思はある」
「連の読み方が正しいとは限らない」ソウは言った。
「正しくない可能性もある」連は認めた。「でも——フジサキが今さら罠を仕掛ける理由がない。罠なら、もっと早く動けた。おれが最初に接触した時点で、動けた。それをしなかった」
カイは二人の話を聞いていた。
感情が薄い。だから、怖いという感情より先に、計算が動く。フジサキが罠を仕掛けるメリットとデメリット。メリットは——カイを捕まえること。でも、それはマーケットがやることで、フジサキがやる理由にはならない。フジサキはマーケットから逃げた側だ。デメリットは——信頼を失うこと。長年隠れて生きてきた人間が、今さら信頼を捨てることを選ぶ理由がない。
「行く」カイは言った。「ソウも来ていい。ナナセは残れ」
「あたしも行く」ナナせは言った。
「危険かもしれない」
「カイだって危険かもしれない」ナナせは静かに言った。「でも行くんでしょ。あたしも——フジサキさんに直接、聞きたいことがある。能力返還のことを」
カイはナナセを見た。
ナナセは迷っていなかった。
「わかった」カイは言った。「全員で行く」
◇
場所は第七区の地下だった。
指定された住所を連が地図で確認すると、廃棄された地下鉄の旧路線上にある場所だった。ネオ東京の地下には、三十年前まで動いていた地下鉄の路線がいくつかある。新路線に切り替わった後、旧路線の一部は封鎖された。でも封鎖されただけで、壊されてはいない。
「地下鉄の廃線跡か」連は言った。「十年間、そこに隠れていたということか」
「隠れるには向いている」ソウは言った。「電気は通っていないが、構造物は残っている。雨もしのげる。地上からのアクセスが難しい」
「その割に、おれたちへの連絡は取れた」カイは言った。
「ネットワークは持っている、ということだ」連は言った。「情報を遮断して隠れているのではなく、情報だけは持ちながら、姿を消している。それは——能動的に隠れているということだ。見つかりたくないのではなく、準備が整うまで待っている、という可能性もある」
「何の準備だ」
「わからない」連は言った。「でも今夜、聞ける」
◇
第七区は第九区より静かだった。
夜の十時を回ると、人通りがほとんどなくなる。能力登録率は高いが、歓楽街ではない。工場区域に近い第七区の夜は、機械の低い音だけが響いている。
四人で歩いた。
指定された入口は、古いビルの地下駐車場だった。封鎖の札が貼ってあったが、連が触れると簡単に外れた。裏から誰かが外してある、と連は言った。
地下駐車場から、さらに下へ続く階段があった。
降りた。
暗かった。連が小型ライトを出した。コンクリートの壁に、古い路線図が貼ってある。黄ばんで、端が剥がれかけているが、まだ読める。三十年前のネオ東京の地下鉄路線図だった。
さらに降りると、プラットフォームがあった。
旧地下鉄のプラットフォーム。レールは錆びている。天井が高い。空気が冷たくて、かすかに金属と土の臭いがする。ホームの端に、光があった。
ランタンの光。
その前に、人が立っていた。
◇
一人だった。
六十代か、もう少し上か。中背で、白髪が多い。着ているのは地味なジャケットで、手に何も持っていない。目が——目だけが、違った。老いているのに、どこかまだ燃えているような目。研究者の目だ、とカイは直感した。長年、何かを見続けてきた人間の目。
男はカイを見た。
長い間、見た。
「カイ」男は言った。声が、わずかに震えていた。「大きくなった」
カイは少し止まった。「知っているのか、おれを」
「知っている」男は言った。「生まれた時から」
ユウ、という署名。フジサキ・ユウ。母の兄。
「フジサキ・ユウか」
「そうだ」男は頷いた。「お前の叔父になる。サキの兄だ」
◇
プラットフォームの端に、木箱が並べてあった。
四人が座った。フジサキが向かいに立った。ランタンが二人の間を照らしている。
「十年間、どこにいた」カイは言った。
「ここだ」フジサキは言った。「第七区の地下。ずっとここにいた」
「十年間、ここに」
「一人ではない。数人、同じ状況の人間が、この地下に住んでいる。マーケットから逃げた者、CCAの腐敗組織に追われた者——何人かが、この場所を共有している」
「なぜ今まで出てこなかった」連が言った。「カイが第十三区にいることを知っていたなら、もっと早く接触できたはずだ」
「できなかった」フジサキは言った。「接触するには、相手の能力が発現していることが必要だった。カイが端末に触れて、模写ミメーシスが起動するまで、接触する意味がなかった。端末の中のデータは——カイの能力が起動した後でないと、意味をなさない設計になっている」
「なぜそういう設計にした」
「マーケットとCCAの腐敗組織が狙うのは、能力者だからだ」フジサキは言った。「カイが能力者でない間は、狙われない。NAのままでいれば、安全だった。でも能力が起動した瞬間から——狙われる。だから、できるだけ遅く接触させたかった。お前の能力が固まってから、準備が整ってから」
「準備が整った、というのか」
「整っていない」フジサキは首を振った。「整う前に、お前が動いた。マーケットと戦い、CCAに追われ、ここまで来た。俺の計画より、ずっと速かった」
◇
カイはフジサキを見た。
感情が薄い。怒りも、懐かしさも、安堵も——どこまであるかわからない。でも、この目を見ていると、何かが動く気がした。消えない核のあたりで。
「サキのことを、話してほしい」カイは言った。
フジサキは少し目を伏せた。
「話す。でも——その前に、見てほしいものがある」フジサキは立ち上がった。「ここではない。もう少し奥に、来てくれ」
◇
旧地下鉄のトンネルを、百メートルほど歩いた。
ランタンを持ったフジサキが先を歩く。四人がついていく。トンネルは真っすぐで、床が乾いている。壁に古いポスターが貼ってあった。三十年前の広告が、黄ばんで剥がれかけている。
突き当たりに、扉があった。
フジサキが扉を開けた。
中に入った瞬間、カイは足を止めた。
◇
広い部屋だった。
旧地下鉄の車両基地か、整備室か。天井が高くて、広い。その中に——棚が並んでいた。
棚の上に、ガラス管が並んでいた。大きさは様々で、小さなものは親指くらい、大きなものは腕ほどの長さがある。ガラス管の中に、光が揺れている。青や緑や赤や、色が違う。ゆっくりと動いている。生きているもののように。
「何だ、これは」ソウが言った。
「能力だ」フジサキは静かに言った。「マーケットが抽出した能力を——ここに持ってきた」
「持ってきた?」連が言った。「どういう意味だ」
「マーケットが抽出した能力は、保存媒体に格納される。ガラス管型の保存容器に入れて、取引される。俺はその一部を——マーケットの倉庫から、盗み出した」
カイは棚の前に立った。
ガラス管の中の光を、近くで見た。青い光が揺れている。生き物のように、ゆっくりと。これが——誰かの能力だ。誰かの体から抜き取られた、感情と能力のエネルギーが、ここに閉じ込められている。
「何本ある」カイは言った。
「二百四十七本」フジサキは言った。「十年かけて集めた。一度に盗めば発覚する。少しずつ、少しずつ。取引記録を追って、保管場所を特定して、少しずつ抜いてきた」
「なぜ」
「返すために」フジサキは言った。「能力を取り戻させるために。俺の研究では——返還の技術が完成していた。でも実際に返すためには、何が必要か」
「能力そのもの、が必要だ」カイは言った。「抽出された能力が、ここにある」
「そうだ」フジサキは言った。「でも、返還の技術を実行できる者が——俺にはいなかった。一人ではできない。媒介が必要だ」
◇
カイはフジサキを見た。
「媒介が何か、わかる」カイは言った。
「わかるか」
「模写ミメーシスだ」カイは言った。「おれの能力が——能力を受け取って、返す。その媒介になれる」
フジサキは少し目を細めた。「研究書を読んだわけではないのに、なぜわかる」
「感覚だ」カイは言った。「自分の能力を使っていると——受け取る方向だけじゃなく、逆方向の感触も、たまにある。うまく言えないが、流れが双方向な気がする」
「正確だ」フジサキは言った。「模写ミメーシスは、接触によって能力と感情の流れを作る。その流れは——方向を制御できれば、逆転させられる。送り返すことができる」
「だからおれが必要だったのか」カイは言った。「媒介として」
「お前が必要だ」フジサキは言った。「でも——強制はしない。選択はお前にある。これは、俺のための頼みではない。ここにある二百四十七人分の能力を、本来の持ち主に返すための話だ」
カイは棚を見た。
二百四十七本のガラス管。二百四十七人の、誰かの感情と能力。
ナナセを見た。ナナせが、棚を見ていた。目が動かない。どのガラス管が自分のものかを探しているのか、あるいはただ、同じ経験をした人間の数に圧倒されているのか。
「連」カイは言った。「リンの能力は、ここにあるか」
連が、フジサキを見た。
「リン——」フジサキは少し間を置いた。「レンの妹か。七年前に、第十三区で抽出された子どもの能力」
「知っているのか」連が言った。
「記録は把握している。二百四十七本の中に——あると思う。本体がどこにいるかは、取引記録を見なければわからない。でも能力は、ここにある可能性が高い」
連は棚を見た。
表情が動かなかった。でも、体が少し——固まった。七年間探してきた妹の能力が、この場所にある可能性がある。その事実に、体が対応しきれていない。
「連」ナナセが連の横に立った。何も言わなかった。ただ、横にいた。
◇
フジサキが話し始めた。
カイが「サキのことを話してほしい」と言っていた。フジサキはそれを覚えていた。
「サキは——研究者ではなかった」フジサキは言った。「俺の妹で、感情伝導の能力を持っていた。俺の研究を手伝ってくれていた。被験体ではなく、協力者として」
「おれの父、鏡ヶ原ジンは」
「ジンは——サキが施設で出会った男だ。NA登録者で、模写素体を持っていた。能力は発現していなかったが、遺伝子レベルでの素体は確認できた。二人は俺の研究とは別に、自然に出会った。俺が介在したわけではない」
「二人の子どもとして、おれが生まれた」
「そうだ。俺が模写ミメーシスの研究をしていた時、お前が生まれた。両親の能力が組み合わさって、理論上は最高の模写能力者になる可能性がある子どもが——研究室の隣に生まれた」フジサキは目を伏せた。「俺はその事実を、プロジェクトに開示しなかった。隠した。でも——CCAの腐敗組織が知った。マーケットとの連絡役が、知った。サキとジンが狙われた」
「なぜ二人は死んだ」
フジサキは長い間、黙っていた。
「俺が守れなかったから」フジサキはやがて言った。声が低かった。「CCAの腐敗組織が動いた時、俺はデータを持って逃げた。サキとジンを逃がす計画があった。でも——間に合わなかった。二人が死んで、お前は施設に送られた。俺は——逃げた。逃げることしかできなかった」
カイは何も言わなかった。
感情が薄い。怒りが来るべき場面かもしれない。でも来なかった。来なかった理由が、感情が薄いからなのか、それとも別の何かがあるのか、カイには判断できなかった。
「十年間、ここで何をしていた」カイは言った。
「準備をしていた」フジサキは言った。「能力を集めた。返還の技術を完成させた。お前が十六になるのを待った。篠崎に端末を渡した。——全部、お前に繋げるための準備だった」
「おれに媒介になってほしかったから」
「それだけじゃない」フジサキは言った。「お前に、サキとジンの死の真相を知ってほしかった。お前に、選択してほしかった。俺が逃げた時、お前を置いていった。それは——どう詫びても、詫びられない」
◇
沈黙があった。
カイは棚を見た。二百四十七本のガラス管。揺れている光。
「一つ聞く」カイは言った。「おれが媒介になって、全部の能力を返したとして——どのくらいかかる」
「一本ずつ返す場合、能力によって時間が異なる。早いもので数分、難しいもので一時間以上かかる場合もある。感情の消耗は——接触の強度による」フジサキは言った。「お前の感情値を聞いたが、二十三という値では——全部を返すことはできない。代償が大きすぎる」
「分離制御を訓練している」カイは言った。「感情の消耗を抑える方法を、アイと一緒に試している」
「知っている」フジサキは言った。「それが完成すれば——可能かもしれない。でも、まだ完成していないなら、焦ってはいけない」
「時間がない」カイは言った。「感情値が下がり続けている」
「だから——お前に来てほしかった」フジサキは言った。「返還の技術の中に、逆の効果がある。返す時に、送り返す能力の感情が——お前の感情値を補充する可能性がある」
カイは少し止まった。
「能力を返すことで、おれの感情値が回復するかもしれない、ということか」
「理論上は」フジサキは言った。「実験はしていない。お前が最初の被験体になる。リスクはある」
「リスクの内容は」
「逆流する可能性がある。送り返す方向を制御しきれなければ、能力と感情が逆にお前の中に入ってくる。感情値がさらに下がる可能性もある」
「やってみる価値はある」カイは言った。
「お前が決めることだ」フジサキは言った。「俺には強制する権限がない」
◇
カイはナナセを見た。
「ナナセ、お前から始める。まず一本、試す」
ナナせは少し驚いた顔をした。それから、頷いた。
「怖くないのか」カイは聞いた。
「怖い」ナナせは言った。「でも——カイが言うなら、やる」
「ちゃんと考えてから言え」カイは言った。「おれが言うからではなく、ナナセ自身が決めろ」
ナナせは少し間を置いた。
「やる」ナナせは言った。今度は迷いなく。「あたし自身の選択として、やる。水が戻るかもしれないなら——試す」
◇
フジサキがナナセの能力のガラス管を探した。
記録と照合して、三本目の棚の四段目に見つけた。青いガラス管。揺れている光が、他のものより少し——静かだった。水のように、静かに揺れていた。
「これだ」フジサキはガラス管をカイに渡した。
カイは受け取った。冷たかった。金属の端末と似た冷たさ。でも——手のひらに乗せた瞬間、何かが来た。感情ではない。能力の残滓のような、かすかな熱。
「どうやってやる」カイはフジサキに聞いた。
「ガラス管を割って、能力を開放する。同時に、ナナセに触れる。模写の方向を逆転させて——送る。返す。お前の体を通じて」フジサキは言った。「今までやったことがないことだ。感覚に従うしかない」
「感覚に従う」カイは繰り返した。
「お前の模写は——感情と能力の流れだ。今まで受け取る方向で使ってきた。逆方向は、受け取る時と逆の意識を持てばいい。押し出す。外へ向ける。返す方向に、流れを向ける」
カイはガラス管を握った。
ナナセが前に出た。右手を差し出した。カイの手が届く位置に。
カイはナナセの右手を握った。同時に、もう一方の手でガラス管を強く握った。
割れた。
◇
流れが来た。
受け取る流れだった。ナナセの水の能力が——外に解放されて、カイの中に入ってこようとしている。いつもの模写の感触。
カイは逆にした。
感覚に従って。流れを、逆に。受け取るのではなく——送り出す。水の能力を、カイの中を通り抜けさせて、ナナセに向けて押し出す。
難しかった。
川の流れを逆に向けるようなものだ。自然な方向に抗う。でも——アイとの訓練が、ここで繋がった。感情の層と能力の層を分ける訓練。底流だけを意識する訓練。その感触を使って、水の能力の流れだけを——逆に向けた。
ナナせが、息を呑んだ。
「……」ナナせは何かを言おうとして、言えなかった。
カイは逆流を維持した。感情の消耗が来た。でも——いつもより少なかった。分離制御が働いている。能力の流れを送り返す間、感情の消耗が最小限に抑えられている。
そして——何かが、逆にカイの中に来た。
ナナせの感情の断片が。水が動く時の感覚。波の感触。静かで、広い——水の感情。それがカイの中に、わずかに入ってきた。
消耗ではなく、補充として。
三十秒ほどで、流れが安定した。カイは手を離した。
◇
ナナせが、右手を見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、右手を少し持ち上げた。
空気が、動いた。
倉庫の隅に溜まっていた水滴が——ゆっくりと、ナナセの手の方に引き寄せられた。一滴、二滴、三滴。空中で丸くなって、漂った。
「……戻った」ナナせは言った。かすれた声で。「水が、動く」
誰も言葉を出さなかった。
連が、棚を見た。二百四十七本のガラス管。その一本が、今——空になった。空になったガラス管は、光が消えて、ただのガラス管になっていた。
「カイ」ソウが言った。「お前の状態は」
「問題ない」カイは言った。「感情の消耗は——少なかった。それより、少し補充された気がする」
「感情値が」
「わからない。でも——何かが来た。ナナせの水の感情が、少しだけ」
フジサキが静かに言った。「理論通りだ。返還の時、媒介者に感情の一部が残る。消耗を上回る場合もある」
◇
ナナせが水滴を空中で操っていた。
三滴が四滴になって、五滴になって、やがて小さな球になった。光を受けて輝いている。ランタンの光が、水の球の中で揺れている。
連がそれを見ていた。
表情は変わらない。でも——目が、少し違った。リンの能力もここにある。一本のガラス管の中に。返せるかもしれない。リンに会えるかどうかはまだわからない。でも、能力は——帰せる場所にある。
「フジサキ」連は言った。「リンの取引記録を、見せてほしい。どこに売られたか」
「見せる」フジサキは言った。「ただし——記録が正確かどうかは保証できない。マーケットは記録を書き換えることがある」
「それでも見たい」
「わかった」
◇
その夜、旧地下鉄の廃線跡で、長い時間を過ごした。
フジサキが記録を出した。連がリンの記録を確認した。取引記録には「第四区の施設への移送」と書いてあった。五年前の記録だ。その後の更新はない。
「第四区の施設」連は繰り返した。「今もそこにいるかどうかは、わからない」
「調べる」カイは言った。
「俺も調べる」フジサキは言った。「十年間、マーケットの記録を追ってきた。第四区の施設については、いくつか情報がある」
連は頷いた。短く、でも確かに頷いた。
◇
帰り際、カイはフジサキと二人で少し話した。
ソウたちは先に外に向かっていた。
「一つだけ聞く」カイは言った。「篠崎の追記に——『誰かが作ったものじゃない』と書いてあった。プロジェクト・ミメーシスが存在するのに、なぜそう書いたのか、篠崎に聞こうとしていた。お前に聞いてもいいか」
フジサキは少し間を置いた。
「篠崎がそう書いたのは——俺が頼んだからだ」フジサキは言った。「お前に伝えてくれ、と頼んだ。研究があって、端末があって、計画があった。でも——カイという人間は、計画の産物じゃない。サキとジンが愛して作った子どもだ。それだけは、伝えてくれと」
カイは答えなかった。
「伝わったか」フジサキは聞いた。
「……ああ」カイは言った。
感情が薄い。でも今夜は——何かが、今まで以上に重く、胸の底に沈んでいた。重さは悲しみではない。怒りでもない。何かもっと——静かで、温かいものの重さだった。
母と父が、おれを作ったのだ、という重さ。計画ではなく、人間として。
◇
地上に出ると、雨だった。
第七区の夜に、ネオ東京の雨が降っている。ネオンの光を滲ませて、機械の低い音に混ざって。
四人で歩いた。
ナナせが歩きながら、右手を少し持ち上げた。雨粒が一つ、手のひらの上で止まった。空中で静止した水滴が、ランタンの光を受けて光っている。
それを見て、連が——初めて、笑った。
かすかに、口の端が上がった。一秒ほど。すぐに戻った。でも確かに笑った。情報屋の顔ではなく、十五歳の子どもの顔が、一瞬だけ出た。
カイはそれを見た。
感情が薄い。でも——見た。確かに、見た。
ネオ東京では、いつも雨だ。
でも今夜の雨は——ナナせの手のひらの上で、一粒だけ、止まっていた。
◇ ◇ ◇
次話 第十四話「二度目の発動」
フジサキとの連携が始まった。能力の返還を進めながら、分離制御の訓練を続けるカイ。そして——マーケットの刺客が、第九区の拠点を特定する。複数の能力者に同時に囲まれた絶体絶命の状況で、カイは複数模写に初挑戦する。




