第12話「情報屋レン」
新しい拠点は、第九区の地下倉庫だった。
木箱が並んで、天井が低くて、電気は来ていない。でも雨がしのげる。乾いている。第十三区の廃ビルより、ある意味では整っていた。トウジの知り合いが管理している倉庫で、普段は使われていないらしかった。「一週間は大丈夫だ」と連が言った。
翌朝、カイは地上に出た。
第九区は、第十三区とは違った。能力登録率が六十パーセントを超える、いわゆる「中層区」だ。路地裏はあるが、ネオンが多い。人も多い。第十三区の重くて澱んだ空気とは違う、もう少し速い空気が流れている。
でもカイには、居心地が悪かった。
第十三区の路地裏なら、どこが安全でどこが危険か、体で知っていた。でもここは知らない。人の流れも、監視カメラの位置も、能力者の多さも——全部が、第十三区の基準では測れない。
早足で戻った。
地下に降りると、連が一人でいた。
珍しかった。連はたいてい動いている。情報を集めに出ているか、端末を操作しているか、何かを計算しているか。でも今朝は、木箱の上に腰かけて、膝の上に小さな端末を置いて——動いていなかった。
「何を見てる」カイは言った。
「古い写真」連は端末の画面を少し傾けた。カイには見えなかった。「昔のやつ」
連が「昔」という言葉を使うのを、カイは初めて聞いた気がした。情報屋は現在と未来の話しかしない——そう思っていた。
◇
ソウとナナせが起きてくるまで、カイと連は二人だった。
連は端末を閉じた。いつもの表情に戻っていた。でも、何かが残っている。感情を読む能力がなくても、空気の質が違う。
「連」カイは言った。「妹がいるんだろう」
連は少し止まった。
「トウジから少し聞いた。マーケットに能力を奪われた、と」
「……爺さんは喋りすぎる」連は言った。でも否定はしなかった。「聞いたなら、話す。どうせそのうち話すことになると思ってたし」
連は木箱からおりて、壁際に背をつけた。カイも同じ壁際に立った。
「妹の名前はリン。七つ下だから、今は八歳のはずだ」
「はず、というのは」
「今どこにいるかわからないから」連は言った。感情を抑えた声だったが、その抑え方が、普通の抑え方ではなかった。「七年前にいなくなった。おれが八歳の時、リンは一歳だった。マーケットの連中が来て、リンの能力を抽出した。それだけじゃなく、リンごと連れていった」
「連れていった」
「売ったんだと思う」連は静かに言った。「能力だけじゃなく、本体ごと。マーケットには、能力者の子どもを丸ごと買う需要がある。将来的に何かに使うための、先物買いみたいなものだ」
カイは何も言えなかった。
「一歳の子どもに能力が発現することは稀だ。でもリンにはあった。水を動かす能力。ナナセと似てる。マーケットが目をつけた理由もそこにあると思う」
水の能力。
ナナセと同じ。
カイは、第三話でナナセに「どんな能力だった」と聞いた時の答えを思い出した。「水を、動かせた」。それがまったく同じ言葉で頭の中で重なった。
「連」カイはゆっくり言った。「ナナセとリンは——関係あるのか」
「わからない」連は即座に言った。でもその即座さが、考えていなかったからではなく、長く考えてきた末の答えのように聞こえた。「関係あるとは思っていない。水の能力は珍しいが、ゼロではないから。でも——ナナセのことを最初に聞いた時、少し止まったのは事実だ」
「教えてくれれば——」
「教えたら、おれの判断が歪む」連は言った。「情報屋が感情で動いたら、精度が落ちる。だから黙ってた。今も、関係ないと思いながら——正直完全には分けられていない」
◇
連は続けた。
「おれが情報屋になったのは、リンを探すためだ。第十三区で情報を集め始めた時、七歳だった。子どもが情報屋になれるわけがないと思うかもしれないけど——第十三区の路地裏では、子どもの方が動ける場面がある。大人が見ない場所、大人が入れない隙間を、子どもは通れる」
「七年間、一人でやってきたのか」
「ほぼ。途中でいくつかのネットワークに繋がったけど、基本は一人だ」連は言った。「リンの痕跡は三回だけ見えた。最後は二年前に、第七区のマーケット末端組織の取引記録に、それらしい記述があった。でも追い切れなかった」
「なぜ」
「その取引記録を持っていた情報源が、翌日に死んでいた。事故という処理だったが——事故じゃない。マーケットに消された」連の声が、わずかに低くなった。「その後は痕跡が切れた。どこにいるかわからない」
◇
カイは少し間を置いてから、言った。
「フジサキ・ユウを七年探してきた、とも聞いた」
「そっちも本当だ」連は言った。「リンを探すうちに、マーケットの構造が少しずつ見えてきた。組織の上の方に何があるか、末端から逆に辿っていくと——プロジェクト・ミメーシスという名前が出てきた。そのプロジェクトの創設者がフジサキ・ユウだと知ったのは、四年前だ」
「フジサキがリンの行方を知っている可能性があると判断したのか」
「そうじゃない」連は少し首を振った。「フジサキが持っているデータに、マーケットの全取引記録が含まれている可能性がある、と思った。フジサキはプロジェクトの創設者だ。マーケットとCCAの共同研究に関わっていた。それが崩れた時、データを持ち出した可能性がある。そのデータの中に——リンの記録もあるかもしれない」
「フジサキのデータを見れば、リンの居場所がわかるかもしれない」
「かもしれない、だ」連は言った。「確証はない。でも、今手がかりがそこしかない」
◇
ソウが降りてきた。
地下の空気を確認するように少し止まって、カイと連の様子を見た。空気を読んで、「話してるなら続けろ」という感じで、木箱に腰かけてランタンに火を入れた。
連は続けた。特に止める理由もなかった。
「端末のナンバーを最初に買い手に売った時——あれは賭けだった」連は言った。「買い手がフジサキかもしれない、と思ってやった。そうじゃなかったとしても、フジサキのデータに繋がる誰かかもしれないと」
「賭けが当たったのか」
「まだわからない」連は言った。「買い手はリンについて何も言わなかった。カイの安否を確認するだけだった。でも——フジサキに近い誰かだとしたら、今も繋がっている可能性がある」
「連絡を取れるか」
「取れると思う。でも——向こうが受けるかどうかわからない。俺の方から動くと、立場が変わる。今まで情報を売る側だったのが、情報を求める側になる。それは——やり方を変えることになる」
「やれるか」
連は少し間を置いた。
「やる」連は言った。短く、はっきりと。「七年待ったが——今が動く時だと思う。カイがいるから」
「おれがいるから、とはどういう意味だ」
「一人で動いても、たどり着けなかった」連は言った。「情報は集められる。でも、集めた先に何があっても、おれには戦う力がない。フジサキを見つけても、マーケットのデータを奪うことも、リンを取り返すことも——一人じゃできない」
◇
ナナせが降りてきた。
連とカイの会話の後半を聞いていたらしく、入ってきた瞬間から表情が違った。連を見た。連は目を逸らさなかった。二人がしばらく、無言で向き合った。
「連」ナナせはやがて言った。「あたしとリンちゃんが同じかどうかは——わからない。でも」
「ナナセには関係ない話だ」連は言った。「感情で動かなくていい」
「関係ある」ナナせは静かに言った。「あたしは能力を奪われた。どこかに、同じ経験をした子がいる。その子を助けられるかもしれない何かを、あたしたちが持っている。それは関係あると思う」
「……」連は何も言わなかった。
「あたしも、フジサキさんを探すことに賛成する。能力返還の技術があるなら——リンちゃんにも使えるかもしれない」
連はランタンを見ていた。表情が動かない。でも、喉が少し動いた。何かを飲み込むような動きだった。
「……助かる」連はやがて言った。声が、わずかに低かった。「感情的に言うわけじゃなく——戦力として、感謝する」
「感情的でいいよ」ナナせは言った。「あたしたちの間では」
連は答えなかった。
でも顔が、少しだけ、普段と違った。情報屋の顔ではない、別の何かが、一瞬だけ表に出た。
◇
午後、四人で話し合いをした。
方針を決めた。フジサキ・ユウを探すことを、最優先の目標にする。そのために必要なことを洗い出した。
連が整理した。
「フジサキの痕跡として確認できているのは三つ。一つ、十年前の失踪直前に、篠崎コウイチに端末を託した。二つ、端末のナンバーを確認した買い手が、フジサキか、フジサキに近い誰かである可能性がある。三つ——トウジが、フジサキが逃げた可能性があると言っていた」
「三つ目は弱い」ソウが言った。「逃げた可能性がある、だけでは手がかりにならない」
「そうだ」連は頷いた。「だから一つ目と二つ目を使う。篠崎コウイチは今、CCAの施設で入院中だ。面会制限がかかっているが——セキ経由でアクセスできれば、話ができるかもしれない。篠崎なら、フジサキがどこに逃げたかを知っている可能性がある」
「セキには連絡取れるのか」カイはソウに聞いた。
「アイを通じてなら取れる」ソウは言った。「ただ——副長官が動いている今、セキも動きを制限されているかもしれない」
「当たってみる価値はある」連は言った。「もう一つの手は——買い手に直接連絡を取ること。俺から動くことになるが、やる」
「リスクは」カイは連に聞いた。
「相手の正体が変わる可能性がある。フジサキじゃない誰かだった場合、情報が漏れる。でも——このまま待っていても状況は変わらない。CCAの副長官が動いている。マーケットも動いている。時間を使えるほど、余裕がない」
感情値、二十三。三か月。
カイはその数字を頭の中で確認した。
「動く」カイは言った。「全部、同時に動く。待っている時間はない」
◇
夜になった。
連が端末の前に座って、買い手への連絡を起草していた。どういう文面にするか、何を書いてどこまで書かないか——情報屋としての判断が要る作業らしく、何度も書いては消していた。
カイはその横に座って、端末を手に持っていた。
今夜は篠崎の追記を、もう一度読んだ。
「カイへ。これを読んでいるなら、お前はもう力を持っているはずだ。模写ミメーシス。それはお前の力だ。誰かが作ったものじゃない。お前の父と母が、お前に渡したものだ」
誰かが作ったものじゃない。
この言葉を、カイは最初に読んだ時、そのまま受け取っていた。でも今夜は、少し違う読み方をした。
フジサキの研究があって、端末があって、その端末が起動させた。プロジェクト・ミメーシスという計画があって、カイはその計画の「被験体」として記録されていた。それなのに、篠崎は「誰かが作ったものじゃない」と書いた。
なぜそう書いたのか。
カイにはまだわからない。でも——篠崎がその言葉を選んだ理由を、篠崎本人から聞きたいと思った。能力の話だけじゃなく、そこを聞きたい。
「連」カイは言った。
「何だ」連は文面の作業を止めずに言った。
「篠崎に会う方法を、セキに頼む時——おれも行きたい。アイと一緒に」
「危険だ。副長官が動いている中でCCA関係者に会えば、位置が特定される可能性がある」
「わかってる。でも——会いたい。篠崎に直接、聞きたいことがある」
連は少し止まった。文面の作業を一時停止して、カイを見た。
「何を聞きたい」
「なぜ十年間、端末を守り続けたのか。フジサキに頼まれたからだけじゃないはずだ。篠崎自身の理由が、何かあったはずだ」
「それを聞いてどうする」
「わからない」カイは言った。「でも、知りたい。おれのために動いてくれた人間の理由を、知らないまま先に進みたくない」
連はしばらくカイを見ていた。
「……わかった」連は言った。「セキへの連絡に、それも含める。ただし——時期は状況次第だ。今すぐは難しいかもしれない」
「わかった」カイは言った。「待てる」
◇
深夜、全員が眠った後で。
カイとソウだけが起きていた。
ソウが腕の包帯を確認しながら、静かに言った。
「お前、今日は連からずいぶん聞いたな」
「ああ」
「どう思った」
「みんな、何かを失っている」カイは言った。「連は妹を。ナナせは能力を。ソウはお前も能力を失った。アイはおれのことで立場が危うくなっている。トウジは——長年、後悔を抱えている」
「お前は何を失った」
カイは少し考えた。
「感情を、失いかけている」カイは言った。「あと——第十三区を失った。今夜」
「そうだな」ソウは言った。「失ったものを並べると、多い。でも——」ソウは壁に頭を預けた。「お前たちを見ていると、集まってきたものの方が多いと思う」
「集まってきたもの」
「俺がいる。連がいる。ナナセがいる。アイがいる。トウジがいる。セキがいる。篠崎も、どこかで同じ方向を向いている。全員が——同じ何かを失っていて、同じ何かを取り戻そうとしている」ソウは言った。「それは、マーケットにはないものだ」
「マーケットには何がある」
「力と金と組織と。でも——失ったものを取り戻そうとする、その動機がない」ソウは静かに言った。「動機は、力より強い場合がある。格闘家として一つ、学んだことがある。本気で守りたいものがある人間は、同じ実力なら負けない」
カイは右手を見た。
暗い倉庫の中で、手のひらはよく見えない。でも、あの白い光の痕跡が——薄く、そこにある気がした。
「守る」カイは言った。「連の妹を。ナナせの能力を。ソウの失ったものを。アイの立場を。トウジの後悔を。みんなが取り戻したいものを——おれが奪いに行く」
「大きく出たな」ソウは言った。でも口調は穏やかだった。
「感情が薄いせいで、損得で考えると、そっちの方が効率がいいとわかる」カイは言った。「一つずつ動くより、全部同じ方向に向けて動いた方が、力が出る」
「それを感情で言うと——『仲間のために戦う』になる」ソウは言った。
「そうなのかもしれない」カイは言った。「感情の言葉で言えば」
◇
明け方近く、連が「送った」と言った。
買い手への連絡を、送信した。返信がいつ来るかはわからない。来ない可能性もある。でも——動いた。
「よく眠れ」連はランタンを消した。「明日からまた動く」
暗くなった。
雨の音が、地下まで伝わってくる。ネオ東京では、いつも雨だ。
でも今夜の雨は——降り続けているのに、どこかで水が流れ始めたような音がした。地面を叩く雨と、流れ出した水の音。違う音が、重なっている。
カイは目を閉じた。
消えないものが、また少し増えた気がした。
◇ ◇ ◇
次話 第十三話「能力売買の実態」
連の送信から三日後、買い手から返信が来た。「会いたい。場所はこちらが指定する」。第七区の地下。そこで目撃するのは、能力が商品として並べられた場所——マーケットの末端取引現場だった。そしてカイは初めて、「奪う」ことの本当の意味を問われる。




