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第11話「逃走」

 セキから連絡が来たのは、深夜の十一時だった。




 アイの個人端末に着信した。アイが出て、三十秒ほど話して、切った。




 振り返った時のアイの顔を、カイは見た。




 まずい、とわかった。感情を読む能力がなくても、十六年の経験でわかった。アイがこういう顔をする時は——本当にまずい時だ。




「何があった」




「CCA本部が動いた」アイは言った。声が低くて、速い。「セキの上官——副長官のカミジョウという人間が、カイの身柄を求める緊急命令を出した。今夜、第十三区の連絡所に人員が来る。セキが先に知らせてくれた」




「いつ来る」




「一時間以内だと思う」アイは言った。「セキは命令を止めることができなかった。副長官の命令は、連絡所クラスの権限では覆せない」




 ソウが立ち上がった。連が端末を操作し始めた。ナナセが素早く荷物をまとめた。




「副長官のカミジョウという人間は」ソウは言った。「どちら側だ」




「わからない」アイは言った。「でも——カイの情報がマーケットから本部に伝わって、その翌日に副長官が動いた。それだけで、おおよそ見当はつく」




「つく」ソウは短く言った。「出るぞ」







 五分で準備した。




 カイは端末と最小限の物資を持った。ナナせは何も持っていなかったから、連が物資カードを渡した。ソウは武器は持たなかった——能力がなくても、体が武器だという人間の持ち方をしていた。




 廃ビルを出る前に、アイがカイの腕を掴んだ。




「カイ」アイは言った。「一つだけ確認する」




「何だ」




「逃げることには同意する。でも——逃げた後、どこへ行くか、セキに伝えてほしい。全部じゃなくていい。生きているかどうかだけ、わかるようにしていてほしい」




 カイは少し考えた。




「お前は来るのか」




「来たい」アイは言った。「でも私がいると、CCAが追いやすくなる。今夜は別々に動いた方がいい。私は連絡所に残って、副長官の人員が来た時に対応する。時間を稼ぐことはできる」




「どのくらい」




「一時間か、二時間か」アイは言った。「それだけあれば、第十三区を抜けられる」




「一人で対応するのか」




「セキがいる」アイは言った。「セキは、私の味方だ」







 連が先頭に立って、路地裏を走った。




 第十三区の地図は、カイよりも連の方が詳しかった。情報屋として何年もこの区を動いてきた連は、CCAが張るであろう監視網の外側のルートを頭に入れていた。




 雨が降っていた。




 いつものネオ東京の雨で、ネオンを滲ませて、石畳を光らせながら流れていく。走る四人の足音が雨音に消えていく。




「どこへ向かう」カイは走りながら言った。




「第十三区を出る」連は言った。「目的地は第九区。トウジ爺さんの知り合いが持ってる倉庫がある。一時的な隠れ場所として使える」




「トウジは」




「今日は別の場所にいる。後で連絡を取る」




 路地の角を曲がった。正面から、二人の人影が来た。




 カイは止まった。能力者の気配だ。でも——CCAの装備ではない。マーケットの連中でもない。雰囲気が違う。




「そっちじゃない」連が素早く方向転換した。「こっちだ」




 別の路地に入った。狭い。肩が壁に当たりながら走る。ナナセが連の後ろで小さく走っている。ソウが最後尾で、全体を見ながら走っている。




 突き当たりに出た。




 行き止まりだった。




「連」カイは言った。




「ちょっと待て」連はイヤーピースを触った。何かを確認している。「……回り込んでる。二方向から来てる。CCAじゃない」




「マーケットか」ソウが言った。




「たぶん。こっちがCCAに動いたことを知って、乗じてきた可能性がある。CCAが来る前に回収しようとしている」




 三十秒で三人の方向から気配が来た。




 逃げ場がなかった。




 突き当たりの壁。高さは三メートル。能力がなければ超えられない。左右は塞がれている。後ろから来ている。




 カイは右手を開いた。




 接触できる相手がいない。誰にも触れていない。今カイの手の中にある能力は——ソウから受け取った赤い炎の記憶だけだ。接触なしで出せるかどうかは、状況次第だった。




「来るぞ」ソウが言った。低い、静かな声。格闘家の声だ。







 最初に来たのは、電撃だった。




 路地の入口から、光のロープが飛んできた。幅が広い。避けるのが難しい。ソウが反射的に動いた——能力がなくても、体の動きが違う。体の軸をずらして、電撃の端をかすりながら通り抜けた。カイとナナせと連を庇う位置に入る。




 続いて影が来た。三人。マーケットの人員。電撃のほかに、もう二人が能力を纏っている。一人は体が膨張して硬化している——鋼体化系か。もう一人は宙に浮いている。飛翔系だ。




「カイ」ソウが言った。振り向かずに。「一人でいい、触れられるか」




「やってみる」




「電撃を使ってる奴だ。電撃は当たれば動けなくなる。最初に消せ」




 カイは電撃の男を見た。七メートル。路地の幅で言えば一直線だが、その間にソウが立っている。ソウを通り過ぎなければならない。ソウが盾になるということは——ソウに当たる可能性がある。




「ソウ」カイは言った。「一秒だけ、右に動いてくれ」




「わかった」




 カイは走った。




 ソウが右に動いた一瞬で、直線が開いた。電撃の男との間に、何もない。男がロープを放つ。カイは体を低くして滑り込んだ。ロープが頭上を通り過ぎる。石畳が顔の近くを流れる。手が先に地面につく。そこから反転して、男の足元に手を伸ばした。




 足首を掴んだ。




 感情が来た。




 この男の感情は——怯えていた。仕事の怯えではなく、もっと原始的な怯え。何かを追いかけているのではなく、何かに追われている感覚の怯えだ。この男もまた、縛られている。炎獄と同じ種類の怯えが、底に沈んでいる。




 能力が来た。電撃が流れ込んでくる。




 今日の訓練が、頭にあった。感情の層と能力の層。分ける。表層を押しのけて、底流だけを取り出す。




 試みた。




 完全にはできなかった。でも——感情の消耗が、少し抑えられた。電撃だけが、より鮮明に来た。男の怯えは来たが、薄かった。




 カイは立ち上がって、電撃を放った。




 男自身の電撃を、男に向けた。逃げる間もなく、男は自分の電撃を受けて、石畳に倒れた。意識はある。でも動けない。




 一人、消えた。




「上だ」連が叫んだ。




 飛翔系の男が落下してきた。真上から。空中から直撃する攻撃は、地面での駆け引きとは軌道が違う。カイは反応が遅れた。




 ソウが動いた。




 能力なしの、格闘家の体が——飛翔系の男を受け止めた。空中から来る相手を、腕一本で軌道をずらして、壁に叩きつける。音がした。壁に当たった男が、崩れた。




 鋼体化の男が残った。




 硬化した体は、電撃も炎も通りにくい。物理的な衝撃も通らない。接触模写が有効かどうかも、鋼体化した状態では不明だ。




「逃げろ」ソウが言った。




「お前は」




「行け」ソウは鋼体化の男に向かって歩いた。「こいつは俺が止める。三分稼ぐ。その間に壁を越えろ」




「壁は三メートルある」




「お前には電撃がある」ソウは言った。振り返らずに。「壁の横に金属のパイプが通ってる。電撃で飛ばせ。乗れ。壁を越えられる」







 連が先にパイプを見つけた。




 確かにあった。壁に沿って走る古いガス管。太さは十センチほど。長さは二メートルくらい突き出ている。




「電撃で動かせるか」連が言った。




「やってみる」カイは電撃を右手に集めた。今日の訓練の感触を使った。感情の層を薄くして、能力の層だけを。完全にはできないが、さっきよりできる気がした。




 パイプに電撃を流した。




 パイプが振動した。固定されていた金具が外れた。パイプが壁から突き出る角度が変わった。斜め上を向いた。




「乗れ」連がナナせの手を引いた。二人でパイプに飛び乗った。パイプがしなって、二人を上に弾いた。壁の上に手がかかった。連がナナせを引き上げた。




 カイが乗った。パイプが弾いた。壁の縁に指がかかった。引き上げた。




 後ろでソウと鋼体化の男の戦いの音がした。ぶつかる音。壁が割れる音。ソウの息が荒い。でも——倒れる音は、しなかった。




「ソウ」カイは壁の上から言った。




「行けと言った」ソウの声が来た。「三分、まだある」




 カイは壁の向こう側を見た。第十三区の外側に続く道が、雨の中に延びている。




「絶対に来い」カイは言った。




「わかってる」ソウの声は、平静だった。格闘家の平静さで。「先に行け」







 壁を飛び降りた。




 三メートルの落下を、石畳に膝を曲げて受けた。衝撃が来た。痛い。でも動ける。ナナせが連に支えられて降りた。




 走った。




 第十三区の外縁を走った。雨が強くなってきた。ネオンの光が遠くなって、それでも第十三区の境界の向こうは暗かった。能力登録率が高い第十二区との境界線は、監視カメラが多い。連がルートを指示した。カメラの死角を縫うように走った。




 走りながら、カイは右手を感じた。




 電撃が、まだ残っている。ソウの炎も、底の方にある。今日の訓練の感触も。感情は削れている。でも——削れた量が、いつもより少ない気がした。分離制御が、少しだけ機能した。




 第十二区に入った。




 気配が変わった。こちらには監視カメラがある。でも追手の気配は、今のところない。CCAは第十三区側に展開している。マーケットは三人が動けなくなった。少なくとも今夜は、時間がある。




 連が立ち止まった。「こっちだ」と言って、細い階段を指した。地下に続く階段。古いビルの駐車スペースの入口らしい。




「トウジの知り合いの倉庫は地下か」




「この下の五つ先のビルの地下に繋がってる」連は言った。「地下は昔、全部繋がってたんだ。区が分かれる前の設計図で、工事の時に壊すはずが壊し忘れた通路がある」




「お前はなぜそれを知ってる」




「情報屋だから」連は言った。それ以上の説明はしなかった。







 地下通路は暗くて、狭かった。




 連がランタン代わりの小型ライトを出した。三人で並べない幅を、一列で進んだ。足元に水が流れている。雨が地下まで染み込んでいる。壁が古いコンクリートで、所々が崩れている。




 三分ほど歩いて、扉があった。




 錆びた扉をソウの……連が蹴った。一回では開かなかった。二回目に開いた。その先が、倉庫だった。




 広さはそれほどない。でも雨がしのげる。床が乾いている。古い木箱が積まれている。電気は来ていないが、連が追加のライトを置いた。




 三人で入った。扉を閉めた。




 静かになった。




 カイは壁にもたれた。息を整えた。感情の空白が来ている。深くはない——今日の分離制御が、少しだけ機能した結果だと思う。でも疲れていた。体の疲れではなく、何かもっと根本的なものが疲れていた。




 ナナせが隣に座った。「大丈夫?」と聞いた。




「大丈夫だ」




「ソウさんは」




「来る」カイは言った。「来ると言った」




「うん」ナナせは言った。「そうだね」




 連が端末を操作していた。「アイさんに連絡する。生きてる、と伝える」




「頼む」カイは言った。







 四十分後、ソウが来た。




 地下通路の入口から声がして、扉が開いた。ソウは右腕から血を流していた。コートの肩が切れている。でも歩いていた。普通に歩いていた。




「遅かった」連が言った。




「鋼体化は時間がかかる」ソウは言った。「膝の裏だけは硬化できない。見つけるのに二分かかった」




「怪我は」カイは言った。




「たいしたことない」ソウは木箱に座った。「骨は折れていない。肉が少し切れただけだ」




 ナナせが包帯を出した。物資カードで買ってあったものだ。ソウは少し驚いた顔をしたが、黙って受け取った。ナナせが包帯を巻き始めた。手つきが慣れていた。施設で覚えたのか、あるいは逃亡の過程で覚えたのか。




「ソウ」カイは言った。




「何だ」




「今夜、お前の炎を使った」




「わかってた」ソウは言った。「感じた。遠くから、俺の炎の感触が走るのが」




「役に立った」




「そうか」ソウは少し間を置いた。「お前が使うたびに、俺の失ったものが少し、行き場を見つける気がする」ソウは静かに言った。「悪くない感覚だ」







 夜が深くなった。




 連がアイからの返信を読み上げた。




「『今夜は大丈夫。副長官の人員は連絡所に来たが、セキが対応した。カイの行方は不明として処理した。ただし——副長官は諦めていない。次の一手を考えているはずだ。しばらく第十三区には戻れない。セキと連絡を取り合う。落ち着いたら連絡して』」




 カイは聞いた。




「アイは大丈夫か」




「それは書いてない」連は言った。「でも、こういうメッセージを送れる状態だということは——今夜は大丈夫だと思う」




 カイは頷いた。




 第十三区を出た。




 そのことが、頭の中に重みを持っていた。生まれてからずっとあの区にいた。路地裏の形も、臭いも、雨の流れ方も、全部知っていた。それが今夜、失われた。一時的かもしれない。でも戻れる保証はない。




 失ったもの、か。




 ソウの言葉が頭にある。失ったものが行き場を見つける、という言葉。カイは第十三区を失いかけている。感情を失いかけている。でも——今夜新しい場所にいる。新しい地下通路と、新しい倉庫と、同じ人間たちがいる。




 場所は変わった。




 でも、消えないものは、移動した。







 眠る前、カイは端末を取り出した。




 母と父の記録。篠崎の追記。フジサキ・ユウへの手がかり。




 今夜の逃走で、フジサキを探すことがより必要になった。感情値の回復。能力返還の技術。分離制御の完成。全部が、フジサキの持っているデータに繋がっている可能性がある。




 連が探してくれている。でも時間がかかる。




 カイは端末を握った。




 フジサキ・ユウ。母の兄。消えた研究者。どこかにいる、かもしれない人間。




 その人間が持っているものを、おれは必要としている。




「奪いに行く」カイは小声で言った。誰にも聞こえないように。「でも、それは守るためだ」




 ランタンの光が、木箱の並んだ倉庫を照らしていた。雨の音は、地下まで届いていた。ネオ東京では、いつも雨だ。




 でも今夜の雨の底に——かすかに、何か別の音が混ざっている気がした。遠くで何かが動いている音。それが何かは、まだわからない。




 でも動いている。




 確かに、動いている。




◇ ◇ ◇




次話 第十二話「情報屋レン」


新しい拠点で、連が初めて自分の過去を話す夜。妹がマーケットに能力を奪われた、という話。情報屋として動き続けてきた理由と、フジサキ・ユウの痕跡を探して七年、という事実。連の動機が、カイの動機と重なる。

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