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第10話「共感感知」

 測定は、朝に行われた。




 アイが小型の端末を持ってきた。CCAの支給品ではなく、私物らしかった。古い型の感応計測器で、能力者の感情値を数値化できる機器だ。アイの「感知フィール」と組み合わせることで、より精度の高い計測ができるという。




「痛みはない」アイは言った。「ただ触れるだけ」




「わかった」




 倉庫のランタン光の中で、アイがカイの右手首に機器を当てた。同時に感知が起動する。アイの能力が、静かにカイの内側に入っていく。昨日より慣れてきた感覚だった。




 計測は三分ほどかかった。




 アイが機器の画面を見た。




 表情が変わった。







 アイはすぐには言わなかった。




 機器を下ろして、数値を見て、また機器を見て——それを二回繰り返した。カイは黙って待った。アイが数値を確認し直しているということは、一度見た数値が信じられなかったということだ。それがどういう意味かは、おおよそ想像がついた。




「言ってくれ」カイは言った。




「……」アイは画面をカイに見せた。「これが、感情値の現在値」




 数値が表示されていた。




 カイには比較する基準がなかった。でも、アイの表情を見れば十分だった。




「低いのか」




「標準値が、成人能力者で六十から八十の間。非能力者は少し高い傾向があって、七十から九十」アイは言った。「カイは——二十三」




 二十三。




 カイはその数字を頭の中に置いた。感情的な反応は来なかった。感情が薄いから、自分の感情値が低いと聞いても、怖いという感情が薄い。それ自体が、数値の低さを証明している。




「最低値はいくつだ」




「能力者の記録上の最低値は——五。それ以下は、記録がない」アイは言った。「五を下回った能力者は、能力の暴走か廃人化のどちらかになった、という報告が過去にある。CCAの機密資料に」




「廃人化」




「感情が完全にゼロになると——自分が何者かの認識が崩れる。動機がなくなる。呼吸や心拍は続くが、人間としての意志がなくなる」アイは言った。「ただし、それは過去のデータだ。全員が同じ経過をたどるとは限らない」




 カイは少し考えた。




「このまま使い続ければ、いつゼロになる」




「それも計算した」アイは画面を操作した。「ここ三週間の使用頻度と、感情値の減少曲線から推測すると——このペースが続いた場合、三か月以内に五を下回る可能性がある」




 三か月。




 ソウが「七割で使って三割残せ」と言っていた。使い方を変えれば、その曲線は変わる。でも変えなければ、三か月。




 部屋が静かだった。




 ナナせが壁際で膝を抱えている。連は外に出ていていない。ソウは隅で腕を組んでいた。アイがカイを見ている。




「恐ろしくないの」ナナセがぽつりと言った。




 カイは少し考えた。




「恐ろしいかどうかを感じる感情が、薄い」カイは言った。「だから正直に言えば——恐ろしいかどうか、よくわからない」




 ナナせは何も言わなかった。




「でも」カイは続けた。「消えたくないとは思う。それだけはある」







 ソウが口を開いた。




「対策はあるか」ソウはアイに聞いた。




「使用頻度を下げること。それが一番確実な方法だ」アイは言った。「それと——」アイは少し迷うような間を置いた。「感情値を回復させる方法が、理論上はある」




「理論上は、というのは」




「フジサキ・ユウの研究の中に、感情伝導の逆方向——感情を補充する、という概念があった。端末の資料に断片的に書いてあった。完全には読んでいないけど」アイはカイを見た。「カイの模写ミメーシスは、他者の感情を受け取る能力。受け取る方向だけでなく、逆方向——自分の感情を保持したまま他者の能力だけを使う、という制御ができれば、消耗を抑えられるかもしれない」




「できるのか、そんな制御が」ソウが言った。




「わからない。でも——試す価値はある」アイは言った。「カイの模写は、触れた瞬間に感情と能力が同時に流れ込んでくる。その流れを、能力だけに絞れるかどうか」




「感情を遮断して、能力だけを通す」カイは言った。「フィルターをかける、ということか」




「近い」アイは頷いた。「ただ、感情と能力が同じ根を持つものだとしたら——分離するのは難しいかもしれない。でも、フジサキの理論では『感情の伝導と能力の伝導は、同じ経路を使うが、別の層を流れる』という記述があった」




「別の層」




「川で言えば——表層と底流が別、みたいな感じだと思う。表層が感情で、底流が能力。今のカイは両方を一緒に受け取っている。でも訓練次第で、底流だけを取り出せる可能性がある」







 昼になって、トウジが来た。




 連が呼んでいた。カイとナナセが「一緒に話を聞きたい」と言っていた件で、連が連絡を取っていたらしい。トウジはいつものコートを着て、入ってきて、アイとソウとナナセを見回した。




「賑やかになったな」トウジは言った。




「ナナセの話を聞いてほしい」カイは言った。「それとアイの仮説について、フジサキの理論と照合してもらいたい」




「話してみろ」




 ナナセが話した。昨日感じたこと——動いたら感情が少し戻った、という話から始めて、自分なりの考えを言葉にした。「能力と感情が同じ場所にある。減る方向と増える方向があるだけで、動いているのは同じ場所のものかもしれない」




 トウジは黙って聞いていた。




 ナナせが話し終えても、しばらく黙っていた。




「正しい」トウジはやがて言った。




 ナナセが少し驚いた顔をした。




「フジサキ・ユウは同じことを言っていた。もっと複雑な言い方でな。『感情と能力は同一のエネルギーの異なる表れであり、一方の増減は他方に必ず影響する』——そういう言い方だった。お前は十四歳で、体で同じ結論に至った」




「じゃあ」ナナセは言った。「水の能力が戻れば、感情も戻るかもしれない?」




「理論上はそうなる」トウジは言った。「ただし——抽出された能力を返すことができるかどうかは、別の問題だ。フジサキの研究には、抽出の逆過程、つまり返還という概念があった。でも実験段階を超えていなかった」




「実験はされたのか」




「一度だけ」トウジは言った。「成功した、と記録にある。ただしその後、研究が中断されたから、再現性は確認されていない」




「誰に成功したんだ」カイは聞いた。




 トウジは少し間を置いた。




「フジサキ・サキだ」







 部屋が静かになった。




「サキ——おれの母親が、能力を一度失って、戻した、ということか」




「抽出されたわけではない」トウジは慎重に言葉を選んだ。「研究の過程で、能力を一時的に外部に移して、戻す、という実験をした。成功した。それが記録されている。ただ——返還の技術がどこに記録されているかは、私には全部はわからない。フジサキ・ユウが持ち去ったデータの中にある可能性が高い」




「フジサキ・ユウを、探す必要がある」カイは言った。




「そうなる」トウジは頷いた。「ただ、十年間消えている人間を探すのは——簡単ではない」




「連」カイは連を見た。




「わかってる」連は言った。「今まで試してなかっただけで、情報を掘れば何かは出てくるかもしれない。やってみる」




「頼む」







 午後、アイとカイの二人になった。




 ソウが訓練に行けと言ったが、今日は別の訓練をすると告げた。アイの仮説——感情を遮断して能力だけを通す制御。それを試してみることにした。




 アイが向かいに座った。




「どうやって試す」カイは言った。




「まず、私に触れてみて」アイは右手を差し出した。「感知を起動した状態で触れてもらう。いつも通り模写が起動すると思う。その時、流れ込んでくるものを——二種類に分けて意識してみて。感情と、能力。それぞれが別の流れとして感じられるかどうか」




「できるかどうかわからない」




「わからないからやってみる」アイは言った。「一回では無理でも、何度か試せば感触がつかめるかもしれない。感知する側の私が、流れを一緒に確認する。おかしな方向に行ったらすぐ止める」




 カイはアイの右手を握った。




 感情が来た。




 アイの感情は、今まで触れてきた誰とも違った。マーケットの追手のような冷たい計算もない。炎獄のような底に沈んだ重さもない。ソウの失ったものへの痛みもない。アイの感情は——混ざっていた。心配と、決意と、懐かしさと、何か焦りに近いものと、それから——カイには名前をつけられない何かが。全部が一緒になって、でも不思議と濁っていない。




 能力が来た。




 感知フィールが流れ込んでくる。周囲の能力の気配を読む感触。静かで、広くて、空気のような感触。炎のように燃えず、引力のように引かない——ただ、そこにあって、感じる力。




 カイは意識を集中した。




 二つを、分ける。




 感情の流れと、能力の流れ。同じ経路を通ってくるが、別の層だとアイは言った。表層と底流。今は両方が一緒に来ている。それを分けることができるか。




 難しかった。




 川の表層だけをすくい取る、というイメージを試した。うまくいかなかった。次に、底流だけに意識を向ける、というイメージを試した。感情の層が邪魔をした。アイの感情があまりにも鮮明で、意識がそちらに引っ張られる。




 一度、手を離した。




「どうだった」アイが聞いた。




「難しい。アイの感情が来た時、そちらに意識が引っ張られる」




「私の感情が邪魔をしてるのか」アイは少し考えた。「じゃあ——私が感知を絞る。感情の波を小さくして、能力の流れだけを立てる。それで変わるかどうか試してみて」




「感知を絞れるのか」




「やってみる」アイは目を閉じた。少しの間、何かを調整するような間があった。「今、感情の層を抑えてる。完全にはできないけど——さっきより薄いはず。もう一度」




 カイはアイの右手を握った。




 今度は違った。




 感情は来た。でも薄かった。霞のような感情の向こうに、能力の流れが——別の線として見えた。見えた、というのは正確ではないが、感じた。確かに、感情とは質の違う何かが、別の層を流れている。




 カイはその層だけに意識を当てた。




 感情の層を、押しのけるのではなく、通り抜ける。川の底に手を入れる。




 何かが変わった。




 能力だけが来た。




 感情ではなく——感知フィールの、純粋な感触だけが。アイが今見ているもの。周囲の気配。廃ビルの外の雨の音が、能力として入ってくる。連が外にいる気配。ナナセが壁際にいる気配。ソウが二階にいる気配。全部が、感情なしに、ただの情報として入ってきた。




 カイは手を離した。







 感情の空白が来た。




 いつもより、浅かった。




 いつもは深い空白が来る。感情の大半が削れる。でも今回は——半分ほどで止まった感覚がある。感情が削れた量が、少ない。




「何かできた?」アイが聞いた。アイ自身も感知しながら確認していたらしく、目が少し広がっていた。




「能力だけを通せた気がする。一瞬だけ」




「感知フィールが入ってきた?」




「入ってきた。でも感情は——アイの感情は、来なかった。来なかったというか、来たけど薄かった」カイは言った。「代償が、いつもより少ない」




「感情の消耗が減った」アイは言った。「分離が、少しだけできた」




 二人とも、少しの間、黙っていた。




「これを、完全に制御できるようになれば」カイは言った。




「感情値の減少が止まるかもしれない」アイは言った。「完全ではないにしても、ペースが変わる。三か月という予測が、延びる」




「訓練できるか、これは」




「できると思う」アイは言った。「ただ——私と一緒じゃないとできないかもしれない。感知側の私が感情の層を抑えることで、カイが分離しやすくなる。一人でできるかどうかは、まだわからない」







 夕方、全員が戻ってきた。




 カイがアイの仮説の実験結果を話した。ソウは「それは体の使い方と同じだ。能力も技術で制御できる」と言った。連は「時間はかかるが、方向性はある」と言った。ナナセは「カイの感情が削れる速度が下がるなら、あたしも一緒に訓練できることがあるかもしれない」と言った。




 トウジは「フジサキが目指していたのも、そこだった」と静かに言った。「感情を消費せずに能力を使う制御。それができれば、模写ミメーシスは本当の意味で完成する。サキも、ジンも——それを見たかったはずだ」




 部屋が静かになった。




 カイは端末を取り出した。




 母と父の記録が、ここにある。二人が目指していたものが、今カイの手の中で少しずつ形になっている。感情を消費せずに能力を使う。感情の底流だけを通す。表層と底流を分ける。




 まだできていない。一瞬だけ、一度だけ、できた気がしただけだ。




 でも——一度できれば、二度できる。




「アイ」カイは言った。




「何?」




「明日も、続けよう」




 アイは少し間を置いた。




 それから、笑った。




 今まで見たことのない笑い方だった。安堵と、何か別のものが混ざった、静かな笑み。




「うん」アイは言った。「続けよう」







 夜、一人になった。




 ランタンの光の中で、カイは今日のことを整理した。感情値は二十三。三か月で五を下回る可能性がある。でも——分離制御が成功すれば、その曲線は変わる。一度だけ、できた。




 消えたくない、とは思う。




 朝にそう言った。感情が薄くても、それはある。消えたくない、という意志が。感情ではなく、意志として。




 アイが「恐ろしくないの」という問いに、カイは「よくわからない」と答えた。それは本当のことだった。恐ろしいかどうかを判断する感情が薄いから、正直わからなかった。




 でも今夜は——少し、違う感触がある。




 恐ろしいかどうかはわからない。でも、消えたくないという意志は、恐ろしいという感情より強いかもしれない。感情がなくても、意志は残る。ソウが言った通り、感情じゃなく動機で動ける。




 カイは右手を開いた。




 何も出ない。炎も引力も重力も、今は何も宿っていない。ただ、手のひらの奥に、あの白い光の痕跡が、薄く見える気がした。見える気がする、というだけかもしれない。




 でも消えていない気がした。




 それで十分だった。







 眠る前、ナナセが言った。




「カイ」




「何だ」




「感情値、二十三って聞いた時——アイさん、すごく怖そうな顔してた」




「見ていたのか」




「壁際から」ナナせは言った。「あなたは気づいてなかったみたいだけど」




 カイは少し考えた。




「アイが怖い顔をしていたのは、アイの感情値が正常だからだ」




「そう」ナナセは言った。「怖いって感じられるのは、感情が残ってる証拠だよね」




「そうだな」




「あたしは——カイに怖いって感じてほしいと思う」ナナせは静かに言った。「怖いって感じられなくなる前に、ちゃんと怖いって思えてほしい。そのために、早く訓練を完成させてほしい」




 カイは答えなかった。




 答える言葉が、うまく出なかった。感情が薄いせいで、ナナせの言葉の温かさを受け取り切れていない。でも——何かが動いた。消えない核のあたりで、また小さく。




「わかった」カイはやがて言った。「早くする」




「うん」ナナせは言った。「おやすみ」




「おやすみ」




 ランタンを消した。




 暗くなった部屋に、雨の音だけが続いた。ネオ東京では、いつも雨だ。でも今夜の雨の音は——遠くも近くもなく、ちょうど良い距離で聞こえた。




◇ ◇ ◇




次話 第十一話「逃走」




CCA連絡所への通報が組織内部から漏れた。セキの上官——CCA本部の副長官が、カイの身柄を求めて動く。セキがカイに「今すぐここを出ろ」と告げる夜。アイが「見逃す」代わりに条件を提示する、最初の駆け引き。

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