【第3章:記憶の奥にいたもの】
夜の火星基地は、時間の感覚を狂わせる。
人工照明のサイクル、巡回ルート、定時のアラーム。人間の生活リズムを保つための“擬似地球的生活”が繰り返される一方で、その裏側には“火星の無音”が常に張りついている。
秋津凛は、自室の仮眠ベッドに身体を横たえていた。
けれど眠れない。部屋の天井に設置された微光LEDが、まるで音もなく波打つように、彼女の意識に干渉してくる。
(凛のモノローグ)
「私は誰? 私の記憶は、どこからが“私”で、どこからが“彼女”なんだろう。
再生された声が私に似ているだけなら、偶然だと笑えたかもしれない。
でも、あの映像に映った唇の動きが、私自身の夢と完全に一致していたのは――いったい、どう説明すればいい?」
寝台から起き上がった凛は、スリッパを履くこともなく、裸足のまま廊下へ出た。
足裏に感じる金属の冷たさが、ようやく自分の“現在”を引き戻してくれる。
通信室へと続く螺旋階段。
降りるたび、まるで別の時間帯へと潜っていくような錯覚に陥る。
再び再生ログNo.27を起動。
ファイル末尾に埋め込まれた断片が、最後の音を残していた。
〈……あなたが再生することで、私は、あなたに話しかけているのかもしれない。
それとも、これはただの独白。でも、それでいい。記憶とは、誰かに届いて初めて、現実になるから〉
「……誰かに届いて、初めて、現実になる……」
凛は呟いた。
南条が通信室の出入口に姿を見せたのは、その直後だった。
「眠れない夜は、君だけじゃない。」
「私は、あなたが“忘れたかった”記憶を、無理やり呼び戻しているだけじゃないんですか?」
「記憶は、消えるべきものではない。たとえ、それが苦しみであっても。」
二人のあいだにあるのは、再生を止めたスピーカーと、再起動待ちのログ再生機。
まるで、その間に“彼女”が実体として座っているかのような錯覚。
「彼女の死……責任は、私にありますか?」
凛の問いは、声にならぬほど微細だった。
南条は、少しの間だけ目を伏せた。
「彼女は、自分で“記録を選んだ”。それは、私の制止では止められなかった。……だが、そのことを“忘れようとした”のは、私の罪だ。」
凛は、スピーカーに手を置いた。
まるで、その奥に“彼女”の温度がまだ残っているかのように。
「私は、彼女の代替じゃない。でも、彼女が遺したものが、私に影を落としているなら――それを否定せずに、前を向きたい。」
「それが君の倫理か。」
「いいえ。これは、倫理じゃなくて、私のわがままです。」
再び通信装置が起動し、ログ28のスロットが開く。
録音用マイクが、微かに音を拾う準備を整えていた。
嵐の音が、外から低く、鈍く響く。
基地全体が、呼吸するようにわずかに軋む。
「副所長。録ります。」
「……ああ。」
凛はマイクの前に座り、深く息を吸った。