【プロローグ】
火星において、夜はない。
少なくとも、地球で私たちが知る夜の意味――“安らぎ”や“静寂”といったものとは、まったく異なる。
ここでは、赤褐色の砂が絶え間なく風に舞い、隔絶されたガラスの向こうで世界は怒っている。沈黙というにはあまりに轟々しく、孤独というにはあまりに生々しい。
秋津凛は、ステーションBの通信室に一人きりでいた。
地下2階、気圧調整室のさらに奥。照明は天井に埋め込まれたLEDが青白く、壁際に並ぶ旧式のコンソールが無機質な影を落としている。
温度管理の不安定なこの部屋は、ほとんど誰も訪れない。だからこそ、彼女はここを好んだ。
人の気配から遠ざかれば、自分の声だけが、真実のように聞こえる。
(彼女の思考)
「火星の音は、どこかで誰かの記憶を呼び起こす。私が今、ここにいて、声を録るという行為だけが、生きているという実感に繋がっている気がする。」
今、彼女の前にあるのは、アクセス権限不明の音声ファイル。「再生ログNo.27」――本来であれば復元不可のはずの記録だ。だが、偶然か、それとも何かの綻びか、再生可能状態で現れた。
彼女はためらいながらも、指を置いた。
画面に点滅する白い文字――「再生しますか?」
一瞬、彼女の瞳にその光が反射し、無言のまま肯いた。
「……はい。」
続く